バッドラック ――ハイジャック騒ぎの中、個人的な問題に慌てふためくエコノミークラスの乗客たち――

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極上にとち狂った男の狂気

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 自爆目的のテロリストとしてこの機体を日本のどこかに落とす気なら、端っから交渉なんてしないはずだ。警察に対して、爆弾の存在や意図的な墜落を仄めかさない方が、撃墜されるリスクもなく、被害を拡大させることだけが目的のテロとしては成功に近付けることができるだろうから。

 となれば、別の可能性として身代金目的のハイジャックが考えられる。けれどハイジャックでそれを成し遂げようと思えば、金は比較的容易に用意してもらえるかもしれないが、自分たちの逃走経路が確保できない。この旅客機で高飛びを行うには目立ちすぎるし、これも可能性としては低いだろう。

 残る可能性としては、誰かの釈放が目当てで、異常なくらいに慕われている悪党が黒幕にいるのか、もしくはもっと個人的な目的のため。犯人に逃げるつもりがないのだとすると、例えばこの機の中に余程殺したい人物でもいれば、そいつを道連れに自爆なんて考えも……。

「……ま、映画だとそんなところか」

 太平洋上で旋回してから一時間は経過しただろうか。墜落する予兆もなければ、撃ち落とされる気配も感じられない機内で、浅井は少しだけやる気を出して事態の把握に努めていた。
 というのも、隣の舞子が浅井を警察官だと知ったそのときから変な期待とプレッシャーをかけてくるので、表面上だけでもそれらしいことをしないと、お喋りな口に輪をかけて不満と屁理屈を並べ立てるのだ。

「映画じゃなくって、現実として考えてください。私の人生が懸かってるんですから!」

「あー、もうミサイルで落とされるんじゃないか? 空自の戦闘機とかに、ドドーンっと」

「私は死にたくありません!」

「それは俺も同感だ。あと引っ付くな」

「この際ゲイでもいいですよ。生きて帰って結婚しましょう!!」

「俺はやだよ。特にお前みたいな脳味噌の軽そうな女」

「案外、食わず嫌いなだけで本能的には意外とイケるかもしれませんよ? 世の中の好き嫌いって、大抵はそういうものですから。小学校の先生が言ってました」

「俺を給食のピーマンと一緒にしないでくれ」

「二回……いや、一回デートで!」

「……まあ、生きて帰れたらな」

「よっしゃ! 刑事でしょ、どうにか解決してみてください!」

「やだよ」

「ええっ!? 何で!?」

「やなものは、やなんだ。それに俺は刑事じゃないって言ってるだろ」

「何でですか!? お願いです! 一回だけでいいですから。この私の人生全てが懸かったお願いを聞いてくれるなら、私はなんでもしますよ? あ、今エッチな妄想しましたね? 正解です。私は主に性的な意味でなんでもします」

「……安い女め」

「高飛車で鬱陶しい女よりはましですよ。さあ、早く」

「はぁ……仕方ない。……取り敢えずわかっていることを整理すると、まずはハイジャック犯の人数だが、コックピットに最低一人、そして機内をうろつく金髪の男が一人。乗客の中にまだ仲間が隠れている可能性もあるが、最低でも二人は犯人がいるってことだ」

「おお、それらしい推理。解決に導く主人公っぽいです」

「悪いがこれは推理じゃない。ただ現状をそのまま口にしただけだ。それとだ、ハイジャック犯が俺たちに顔を曝しているということは、やつらに逃げる意思がないのかもしれない。顔を隠さない理由としては、ハイジャック犯たちの要求が通った場合、やつらがこのまま大人しく捕まるつもりでいるのか、乗客を全員始末する予定だから顔を見られても構わないか、のどちらかだろうからな」

「私、まだ死にたくはありません!」

「わかってる、何度も聞いたから。だから引っ付くなって」

 浅井は、体を摺り寄せようとする舞子の顔を手の平で押し返しつつ、舞子の顔を潰して不細工にしながら距離を取る。
 すると、そんな騒がしい二人のやり取りに、顰め面を浮かべるのは周囲の乗客だけではなかった。

「――うるさいぞ!」

 怒鳴りつけるのは丁度エコノミーに姿を現した、ハイジャック犯と思われる拳銃を手にした人物。先程の男とは違う、金髪ではなく長髪の男だ。長髪の男の怒鳴り声は、浅井の記憶が正しければアナウンスと同じ声に聞こえた。
 拳銃片手に長髪の男が通路を歩くと、通路際の乗客は一際緊張感が増し、銃口が自分にだけは向けられることのないように祈りながら、誰もが黙って気配を殺した。
 唐突に訪れた緊迫する事態の最中、空気など読むものではなく吸うものだと真顔で答えるであろう舞子が、浅井を肘で突く。

「ほら、男は当たって砕けろですよ。交渉してください」

「俺が砕けるときは、お前含め、乗客全員木っ端微塵だと思うぞ」

 金髪の男といい、長髪の男といい、ハイジャック犯は何故かこのエコノミークラスの客室に姿を現す頻度が高いが、これはチャンスでもあると舞子が急かす。
 長髪の男は乗客の説得を素直に受け入れるほど機嫌が良さそうにも思えないのだが、浅井は溜息混じりに渋々頷くと、ハイジャック犯よりも過激な要求をする舞子に従い、数メートル先の拳銃にも臆さず、立ち上がって勇敢に口を開いた。

「……なあ、お前たちの目的は何なんだ? 金か?」

「――ちょ、直球!? ……うわ、ないわ。浅井さんってプロポーズの言葉を、色気のない自宅で平然と言える人ですね。残念です、もうちょっと気の利く人かと思ったのに」

「お前はプロポーズしていただく側なのに、あれやこれやと我が儘を並べる女だってことは、俺はとっくの昔に理解してたぞ。仮にもプロポーズしてくれる男がいたのなら、それだけでもありがたいと思え。なんでもやってもらって当たり前だと思うな」

「おわっ! 出ましたね、男の傲慢発言。やっぱりモテませんよね浅井さんって」

 ところ構わず繰り広げられる浅井と舞子のやり取りには、拳銃を握った長髪の男さえも戸惑い、腹を立てるどころか呆れていた。

「……痴話喧嘩か? それならお前たちだけでやれ。俺を巻き込むな」

「悪いが俺は、こんな駄目女の恋人になった覚えはない。気に入らなければ打ち殺してくれ。この女を」

「あっ!? この裏切者! 言っておきますけど、私は浅井さんを盾にしても自分だけ生き残ってみせますからね!」

「……もういい、とにかく座ってろ。この馬鹿げたハイジャックならもう終わる。……いいや、終わらせるんだからな」

 方法はともかく、何とか聴き出せた長髪の男の返答に、浅井はむくれる舞子を無視して、今度は舞子の指示とは無関係に長髪の男に関心を向けた。

「……終わらせる? 要求でも通ったのか? 金なら、警察から逃げきれないと使えないだろ。まさか、釈放の要求でも通ったのか? お前たちは、テロリストなのか?」

「――っ、あはははははは!」

「……浅井さん、私たちの夫婦漫才、ウケてますよ」

「良い子だから、お前は口を閉じてような」

 空気を読まずに惚ける舞子を小学生扱いしつつ黙らせると、腹の底から笑っていた長髪の男は、浅井の質問に改めて答えを返す。

「いや――突然笑ってすまない。ただ、お前が俺をあまりにも過大評価するから、つい面白く。言っておくが、俺たちはそんなに大それたことは考えちゃいない。思想も理念も、何もない。もっと私的だ。十六年間も忘れられずに、恨みだけで生きてきた俺たちは、ただの私怨で動く馬鹿な人間だよ」

「……ならば、そろそろ君たちの目的を話してくれないか? 目的を口にしたところで、この状況は変わらないだろう? ハイジャックを共にする俺たち乗客も、このフライトの間、ずっとそれを知りたいと思っていたんだ」

 浅井は先程までの口調とは少し変化させ、ハイジャック犯である長髪の男に対話の意思があるとみると、同情的に説いた。

「……ああ、そうだな。ちょうど俺たちもケリをつけたいと思っていたところだ。大勢の目があった方が、俺たちにも好都合だしな。処刑は大衆の面前で行われるべきだろう」

「……処刑?」

 ついに告げられたハイジャック犯の不穏な目的に、浅井は眉間に皺を寄せて、長髪の男の手に握られた拳銃を警戒して身構える。
 けれど、長髪の男にとっては浅井はただの乗客であり、処刑の対象ではなかったらしい。それどころか機内に閉じ込めている乗客の大半が、長髪の男にとっては眼中になく、利用するためだけの人質でしかない。
 たった一人を処刑するための、足枷としての人質だったのだ。

「俺たちの目的は、その男。……そこにのうのうと座ってる、腐った権力者の中でも、特別腐臭の漂ってならねえ金泉和久夫だ――って、なんで鼻血垂らして気絶してるんだよ!?」

 銃口を翳して金泉を驚かせてやろうとしたはずの長髪の男は、気を失っていた金泉の死人のような面に、逆に面食らってしまった。
 毛布を首元まで被った金泉の顔をよく確認すると、鼻血は既に固まって乾いている。その鼻血が気を失った原因に伴うものだとすれば、かなり前から金泉はこの状態だったようだ。当然、浅井と長髪の男のやり取りなんて、欠片も聞いていなかっただろう。

「あ、いけない。毛布ずれてた。やっぱ鼻血は拭いておくべきだったかな? ……ま、いいや。もうどっちでも」

 足下にワインのボトルを数本転がし、金泉の隣の席でいい具合に出来上がっている女が犯人か。女は慌てた様子こそ見せていたが、悪びれる素振りもなく、自白とも取れる言葉を思わず口走っていた。
 長髪の男は気を取り直し、金泉を叩き起こす。

「おい! 起きろこのタコ!」

「ん……っ、お……? あ痛たた……なんだか凶暴な年増に殴られた記憶が脳内に」

「夢でーす。うふふふ」

「……伊梨花君?」

 金泉に伊梨花と呼ばれた女は、座りながらもふらふらと安定なく体を揺すっており、酔いが随分と回っていることを示していた。それに上機嫌で微笑みを絶やさずにいたが、その目は据わったままだ。
 金泉も起きて早々酔っぱらいの酒臭さに戸惑い疑問を持ったらしいが、意識を取り戻した彼の視界に続いて映り込んでくる、拳銃を手にした機嫌の悪い長髪の男を捉えて、それどころではないと察したようだ。
 金泉は険しい顔で、長髪の男に問いかける。

「……私に、何か用かね?」

「金泉……覚えているか? 俺のことを」

「機内で拳銃を持った男など、ハイジャック犯以外に心当たりはないな。……だが、私はどれくらい前だったか気を失っていたらしく、生憎と君には見覚えがない」

「だろうな……覚えてるわけがねえよな。俺たちみたいなクズ……」

「……どういう意味だね? 金髪の男は確かに見た覚えはあるのだが、私は君を初めて――」

「俺が言ってるのは今日この日じゃない! 十六年前のことだ!」

「……十六年前?」

「十六年前の今日……俺たちは家族を殺されたんだよ。お前にな!!」

「十六年前に、私が……? ……ああ、思い出したよ。なるほど、君はあのときの子供か」

「思い出したか? 俺は三浦初司、お前の車に轢き殺された女の、長男だよ」

「するとその復讐のためにこんなことを? ハイジャックなどという下らないことをしでかしたのか?」

「悪いか?」

「はぁ……悪いも何も、あれは私ではない。確かに君のお母様を轢いたのは私の車ではあったが、運転していたのは私の秘書だ。しかも私はその時間、別の場所で仕事に関する打ち合わせの最中だった。それにそもそも、あの事件は君のお母様の自殺で、私の秘書も不起訴に――」

「不起訴になったんじゃねぇ! そう仕向けたんだ、お前が!!」

 銃口を金泉に向けて言葉を荒立て、引き金にかけた指を今にも引いてしまいそうな初司は、浅井の質問に答えていた少し前とは異なり冷静さを欠いてしまっている。
 浅井は、今にも金泉の脳天をぶち抜いてしまいそうな初司の気を一旦静めさせようと、落ち着いた口調で言葉をかけた。

「……どういうことだ? 俺たちにもわかるように説明してくれないか?」

「……お前たちも目にしたことくらいはあるだろう。金泉議員の所有する車が、夕暮れ時の交差点で人身事故を起こしたってニュース」

「それが、お前の母親だったのか?」

 浅井の質問に、金泉を睨み付けるようにして初司は頷く。

「母親と共に自宅に帰る途中だった俺たち兄弟ははっきりと、車から降りてきたこの糞野郎の顔を見ていたし、金泉も逃げ出すことはなかった。だからてっきり俺たちは、金泉の起こした事故として警察が捕まえてくれてるんだと思っていた。……けど事故のときに金泉は、救急車より先に自分の秘書を事故現場に呼んでやがったんだ。俺たちがその事実に気が付いたころには、事故を起こしたはずの運転手が金泉からその秘書へと変わり、あとになって現れた胡散臭い目撃者の証言で、お袋が車の前に飛び込んだってことにされた。結局は、一家心中のつもりだったが、自分だけ先に飛び込んじまったお袋の自殺、ってことで方がついたよ。……でもあれは全部、この男が握り潰したんだ。下らねえ自分の名誉と立場を守るためにな!」

「……何を言っている。お前たちも高い保険金をごっそり受け取ったんだろう? お母様が命を賭して残してくれた保険金を。ニュースでは、生活苦で自殺なされたって話じゃないか。それなのに今更、人の責任にするような言葉を並べて、それこそお母様への侮辱じゃないのかね?」

 この状況では挑発とも取れる太々しい態度で、言葉に悪びれる様子も怯える素振りもないのは、金泉が生まれてから常に強者の地位に立ち続けてきた、魂に張り付く傲慢なプライドの所為だろう。
 初司は金泉の態度に奥歯を噛み締めながらも、どこか呆れたような笑い顔も表情に含ませた。

「ああ、貰ったよ。何も知らずに、お前が口利きをした保険会社からな。……ちょっと考えれば直ぐにわかる。女手一つで俺たち兄弟を育てていたお袋に、あれだけ高額な保険料を払えるはずなんてなかったんだ。……どうせお前が事件のあと、根回ししたんだろうが」

「それでもだ。全て私の所為だとそう君たちは考えていたとしても、受け取ったんだろう? 使ったんだろう? その金を。母親の名誉ではなく、目の前の金を選択したんだろう」

「もちろん金を取ったさ。保険金と一緒に俺たちを引き取ったギャンブル癖の抜けない暴力親父がな。野郎、金に目が眩んだんだ……親父はお袋の死んだ理由なんてどうでもよかったんだよ。金さえあればな!」

「それでも済んだことだ。君たちがどんな崇高な目的があると言い張っても、これがただのハイジャックでしかないように、お母様の事故もどんな理由があろうと、車に飛び込んだ自殺でしかないんだ。それに私がやったなどという証拠はどこにもない。言いがかりもいいところだ。そんな言いがかりで君たちはこんな大勢に迷惑をかけるのか? それは天国のお母様もさぞ悲しむことだろう」

「……好きに言ってろ。もう終わりだよ。お前が本当のことを何も話すつもりがないのなら、お前を殺して、俺たちも死ぬだけだ」

 なるほど、だからハイジャック犯の計画に、逃げる意思を感じなかったのかと、浅井は納得する。初司たちはこの機に乗り込んだときから、金泉の殺害か、もしくは事件の暴露を目的としていたのだろう。金泉がここで全てを洗い浚い話せば、あるいは初司は拳銃を下ろして金泉を生かし、自分たちが逮捕される覚悟もあったのかもしれない。けれど……金泉にはその気はない。
 撃つために拳銃を構える初司の返答は単純明快だった。初司と金泉のやり取りを見守っていた乗客もこの先の結末を想像して短い悲鳴が起こり、舞子の所為で珍しくお節介な気持ちが生まれてしまっていた浅井は、慌てて初司と金泉の間に言葉を挿む。

「それで本当に構わないのか? お前たちが死んだら、真実は誰が告げるんだ? お前たちはただの卑劣なハイジャック犯になってしまうぞ。金泉の悪事を追求する人間もいなくなる」

「構わない。警察には、十六年前の事故の件で、捜査に不手際があったと非を認めて謝罪しろと交渉はした。でもそれさえも叶わなかった。無駄なんだよ、例え金泉がここで自分が事故を偽装したと証言しても、あとで何とでも言い訳が利く。だったら、俺の手でこいつを殺す方がよっぽど確実だ」

「俺には、その手段がお前たちのためになるとは思えない……金泉に人生を狂わされて、最後はその金泉を追うようにして死ぬだなんて……」

「あんたのその気持ちには感謝するよ。でももういいんだ。ここなら誰にも邪魔されずに金泉を殺せる。それだけで十分、機を乗っ取った価値はあった。ハイジャック犯に成り下がった価値はあった」

 初司の言葉に嘘を感じられない。浅井の説得は、もう届かない。

「感謝ついでに、ハイジャック犯として最後に一つ約束しよう。金泉さえ殺せれば俺たちは爆弾を止める。遠隔起爆装置を置き、コックピットからも出て、トイレにでも籠って自分の頭を打ち抜いて終わりだ。これ以上の迷惑はかけない」

 初司のその言葉に僅かでも安堵したのは浅井だけではない。ハイジャック犯の言葉を全て鵜呑みにするわけではないが、大半の乗客は、ハイジャック犯の殺意が自分へ向けられたものではないと理解して、生き残れるかもしれないという希望を掴んで安堵が生まれていた。
 しかし、初司が目的を果たしてこのハイジャックを終わらせるということはつまり、金泉がハイジャック犯の犠牲になるという前提だということを、忘れてはならない。

「お前たち、金泉を俺の前に差し出せ。交換だ。お前たちの命の保証と金泉を交換してやる。銃弾が窓に逸れないように、金泉以外の誰にも当たらないように、金泉を俺の立つ通路の正面に立たせて、あとは耳でも塞いでいればいい。これは金泉が取らなきゃならない責任だ。巻き込まれただけの乗客が助かるために……さあ、差し出せ」

「っ……だ、騙されるな! こいつが口にしているのはただの戯言だ! 私が事故を偽装したという証拠もなければ、ハイジャックだってこいつら屑共が勝手にやったことだろ!」

「金泉、この状況でまだお前は助かるつもりか? もう終わりだよ。逃げられやしない。俺はそのために地上ではなく、空でお前を殺すことに決めたんだからな。そこに立つだけでいいんだ。そこに立って動かずにいれば、直ぐに全てが終わる」

 逃げ場はないと知りながらも、助かりたいと生の衝動に駆られる金泉は、初司が向ける銃口から逃れようと一つ前の座席の陰に入ろうと試みたり、隣の酔っぱらいの伊梨花の陰に隠れようとしたが上手くいかず、挙句の果てには毛布を突き出して少しでも銃弾の威力を殺せないかと盾を作りつつ、初司への命乞いを始める。

「嫌だ……私はまだ死にたくない。これから新しく若くて美しい秘書を雇って愛人にする計画も残っているのに、まだ死ねるわけがないだろう!?」

「グズグズするな。なんなら爆弾でこの機体ごと落とした方が早いんだぞ」

「待ってくれ! ……わ、わかった話し合おう。そうだ! よければ私の秘書を一人やろう。ちょうど今日クビにしたばかりで、年齢はかなりあれだが……、それでも煮るなり焼くなり好きに扱ってもらって構わないから!」

「必要ない」

「くっ……やっぱり年増は駄目か。交渉にすら使えないとは……役立たずの女だ」

 金泉はまさか、これが二十代前半の可愛げのある秘書だったら人柱にでもなるとでも本気で考えているのだろうか。金泉は拳を太股に強く叩きつけながら悔やんでいた。
 初司は旅客機という檻を既に用意しているので、金泉の覚悟が決まるまで待つつもりでいるのだろうが、金泉のあまりの往生際の悪さに初司が苛立ちを隠せずに眉を顰めていると初司の苛立ちを代弁したかのように、周りの乗客たちが騒ぎ始めた。

「……お、おい。そこのおっさん、早く立てよ。お前、国会議員なんだろ? だったら国民のために命張るのが義務だろ」

「そうだよな……俺たちを助けろよな。そのために税金から高い給料貰ってるんだろ」

「早く……死んでよ! 迷惑かけないで!」

「私たちには待ってる家族だっているのよ! あなた一人のために巻き込まないで!」

「そうだぞ、死ね! くたばれ! 頭撃ち抜かれて脳味噌ぶちまけろ!」

「馬鹿! 煽るな津田!」

 中には冷やかしの言葉も混ざってはいたが、乗客の声の大半は、初司の作り出した異常な状況に呑まれて奏でられる、自分は関係ないんだから当たり前に助かりたいという言葉。
 今回のフライトを台無しにして乗客の命までもを奪おうとする悪人が、ハイジャック犯から金泉に変わると、抑圧されていた乗客の本音がやがて大合唱となり、エコノミーに木霊した。
 ハイジャックを計画した瞬間から、この状況を誰より望んでいただろう初司は、金泉に勝利したことへの喜びよりも、敗北した金泉に対する嘲笑を楽しげに浮かべる。

「流石は金泉議員、国民に頼られて好かれてることで。ここで進んで死ぬだけで英雄だな。さあ、前に出ろよ。お前の大切な国民のために死ねるんだ。政治家としては最高の仕事だろう? 建前の自己犠牲ではなく、本当に国民のために身を削って示せよ……金泉ィィィッッ!!」

 もう終わりだ。金泉に逃げ場はない。警察官として、少しはなんとかしようと試みていた浅井だが、単独では到底変えられない空気の流れ方に言葉を失い、口を挿まず結末を見届けるしかできなかった。

 積年の恨みと共に金泉を撃ち抜かんと拳銃を構える初司は、勝利を確信している。
 金泉の死が、このハイジャックの終焉だと、誰もがそう思っていた。
 金泉でさえも、苦々しく顔を伏せるしかない。
 
 けれどたった一人、川を上る鮭のように機内の空気の流れに逆らいながら、一際厄介そうな声で叫ぶ伊梨花は違った

「――ぅうるっせぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!! ぇへへへ」

 酒臭い口を開きながら、伊梨花は厄介な不機嫌な酔っぱらいの手本のように、周囲の状況など構いなしに叫ぶが、感情は随分と不安定なようで、何故か笑い声も一緒に零れる。

「……い、伊梨花君。まさか君、私のために自分が犠牲になって助けようと――!?」

「あん? 私はどうせクビだぁよ、もうお前なんか知りゃねぇよ。勝手に死ねっ、調子に乗るなこの豚野郎ぉ! ぅひっぇへへへ」

 酒との力とは恐ろしいもので、人を百八十度変貌させることもある。金泉を罵る伊梨花も理性が吹っ飛んでいた。果たしてこれが酒による人格形成なのか、隠していた彼女の本性なのかは知らないが、どこぞの配管工おじさんのスターよりも無敵状態の伊梨花に怖いものはない。
 例え相手が、拳銃を持ったハイジャック犯だとしても。

「あぁ、くっっだらね。男遊びもしないで真面目に働いた結果がこれだよ。あーあ、何で私はこんな死んだ方が人のために役立てる男のために、せっせと今まで働いてきたんだろ? 自分でも不思議だよね……全くさ」

「おい! 座ってろ酔っぱらい。お前に用はない」

「酔っぱらいじゃねぇ! 伊梨花様だろうがァ!!」

「え!? ――す、座れよ! 伊梨花……様」

 優位に立つはずの初司が伊梨花に従い、ほんの一瞬だけど恍惚とした表情を初司が浮かべたのは、きっと浅井の見間違いで、初司が素直に伊梨花様と呼んだその理由など、知らないままの方がきっと初司のためなのだろう。
 伊梨花は立ち上がると、先程までの迫力が衰えた初司に人差し指を突きつけて、ハイジャック犯をも呑み込む、酔っぱらいの底力を見せつけた。

「この飛行機から降りたら、私が洗い浚い喋ってやるよ。だからそれをしまえ。ふらぁ! だからぐるぐると動くな!」

 けれど威勢よく立ち上がったら、狂った平衡感覚から体が回り始める伊梨花の視界から、初司が消える。
 一回転、二回転して自分の足に躓き、転ぶようにして自分の座席に尻餅をつく伊梨花に、初司は今まで作り上げてきたハイジャック犯としての脅威や、復讐のための人格をどこかへ置き忘れたように失い、縋るように伊梨花へと言い返した。

「でも証拠がないんですよ!? 伊梨花様!」

「証拠なんてな……叩けば出るんだよ! ちょっとエッチな秘書嘗めんな! 私が有能なのは、衰えつつあるルックスだけじゃねえぞこの野郎。確かに私が秘書になったのは問題の事故のあとだけど、このおっさんが疚しいこと隠す場所だって方法だって、裏切られて困る人間の名前だって全て知ってんだよ!」

「止めなさい伊梨花君! それ以上は駄目だ、君は黙っていなさい!」

「運転手として身代わりになった元秘書も、金泉には結構不満たっぷりだったみたいだし、切っ掛けさえあれば白状させるのも不可能じゃない。だからこいつが吐かなくっても、私が……気持ち悪い……オエッ、吐きそう」

 焦って伊梨花を制止しようとする金泉の態度が、伊梨花の言葉を裏付けるには十分だった。
 もう今の初司には説得の言葉など必要ないかもしれないが、浅井は不運な彼に救いの手を差し伸べるように、人質としてではなく、一人の警察官としてこう告げた。

「吐くなよ、飲み込め、汚いから。ところでハイジャック犯、俺の名前は浅井正義。職業はお前の嫌いな警察官を渋々やっているんだが……俺もそこの酔っぱらいの言葉はちゃんと聞いたよ。例え彼女が素面になり証言を拒んだとしても、俺が説得してみせる。これは警察官としての約束だ。必ず守る。そしてこの俺の言葉に対する証人は、ここに居合わせた乗客全員にしてもらうってのでは――ちょっと少ないだろうか?」

 確固たる復讐心を持っているようでありながら、警察とは交渉して謝罪を求め、金泉には自白のチャンスを与えるなど、初司は甘さを殺し切れていなかった。言い換えるのなら、十六年間復讐を心に誓いながらも、初司は金泉ほどの悪人にはなり切れず、まともな人間として踏み止まっていたのだろう。浅井は、初司の復讐心が案外にも脆く細いものだと見切ると、駄目押しとなる約束の言葉を添えてポキリと折ってやる。
 初司の膝からは、力が抜けた。

「は、はは……何だよ、それで終わりかよ。下らねえ……もっと早く言えよ……馬鹿野郎が。そしたら俺たちはもっと……もっと早くに……」

 大勢の人質と同じく、ハイジャック犯である初司もずっと気を張り詰めていたのだろう。膝の力を抜くと緊張から解放されて、今度は肩の力もストンと落ちて、拳銃を握っていた手も床に置いた。

 その一瞬、初司自らが終わりを見付けてハイジャックが解決に至ったこのゴール地点には、乗客誰しもから安堵が生まれた。浅井もその一人で、発端は舞子にせっつかれたからとはいえ、乗り掛かった舟だし一応試みた説得が無事成功して、安心すると同時に油断してしまっていた。

 この機内には、乗客の命を脅かす敵はいなくなったと誰しもが油断した隙を、男は見逃さない。彼は座席から飛び出すと、初司の拳銃を力の抜けた手から奪い取り、乗客に向かって凶悪な眼差しを向けた。

「動くなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 金泉和久夫、この男だけはここにいる誰とも感情が一致していない。ハイジャック犯が金泉当人から殺意を逸らしたにも拘らず、彼の心に安堵は微塵も生まれてこなかったらしい。ただ思い描かれ心を支配していたのは、絶望だろう。
 拳銃を手にする金泉の様子は到底真面だとは言い難く、説得を試みる浅井にも再び緊張が走る。

「よせ金泉! もう終わったんだ、お前は殺されないんだ。だからその拳銃を下ろせ!」

「何を言っている……何も終わってなどいない。ここで飛行機が落ちたら、私はただ運悪くハイジャックに乗り合わせてしまった不運な議員でしかない。だがな、このまま日本に帰れば私は、お前たちや伊梨花君によって事実やら真実やらを公表され、世間から疑いの目を向けられ、バッシングを受ける悪徳議員になって一生を無駄にしてしまうんだ。議員も所詮は人気取り、一つ重大な疑いを向けられるだけで積み上げてきたものが全てパーだ。それならばいっそ……ここでこの機体を落としてやる!!」

 到底冗談には聞こえない金泉の言動は、先程の善良な心が垣間見えた初司よりも性質が悪く、更には破滅傾向のある自爆願望がセットになっており、非常に厄介なことこの上ない。
 全てをここで終わらせるつもりらしい金泉は、血走らせた目をひん剥いて高らかに叫ぶ。

「どうせ落ちるなら私だけではなく、みんなで落っこちればいいんだ! 全員で地獄の底に落ちればいいんだ! あっはははは!!」

 極上にとち狂った男の狂気に、再び恐怖が乗客を包み込んだ。

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この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

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