バッドラック ――ハイジャック騒ぎの中、個人的な問題に慌てふためくエコノミークラスの乗客たち――

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一か八か、撃っちまうか?

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 自分たちの強盗とは違い、やつらの計画は穴だらけだと、吾妻は小さく息を吐く。

「不確実な手段ばかりを選ぶからこうなるんだ……巻き添えはごめんだぞ」

 単に金泉に復讐したいだけならば、他の方法などいくらでも思い付く。野郎の愛車のミラーにガムをつけ、ボンネットには十円玉で傷、タイヤを一か月に一度パンクさせてやるとか。はたまた金泉の自宅に食べきれない枚数のピザを頼むだとか、金泉の名前でアダルトサイトに登録しまくって、架空請求で郵便ポストをぱんぱんにしてやるとか。

 吾妻には金泉への復讐心が欠片もないので発想は貧困になってしまうが、つまりはあっさりと殺すよりも、死ぬまで嫌がらせをして転落させてやる方が、復讐としては賢明で面白いに決まっているということだ。なにより絶望に支配された金泉の顔が長い時間をかけて拝めるのは、自分を満たすには最高じゃないか。

 今回のハイジャックも結果的には金泉を転落させるに至り、ハイジャック犯にとっては最もおもしろい方へと事情が変わったのだが……やり過ぎだ。急激に金泉を転落させてしまい、面白くないと憤慨する金泉が理性を失っている。このままいけば金泉の向ける拳銃が、野郎の絶望に満ちた面をハイジャック犯が拝める時間を短くさせてしまうと、見通し甘いハイジャック犯の計画の乏しさに吾妻は溜息をついていたのだ。

 そのことは津田でさえも重々承知で、だからこそ持ち込んだ拳銃を懐に隠しながら手をかけて、いつでも飛び出し戦える準備を整えていた。

「騒がしくなってきたな……。なあ吾妻、一か八か、撃っちまうか?」

「待て! それじゃ俺たちが拳銃を持ち込んだことが全員にばれちまうだろうが」

「でもよ、あの世に金は持っていけないんだぞ? 天使も悪魔もギャンブルはしないし、酒も煙草もない。それに女も抱けないときた。相手してくれんのは、精々頭に輪っか乗っけた全裸で翼の生えた子供くらいだろ? 生憎、俺はそっちの性癖ないしな。そうなりゃ天国も地獄も一緒だ。一か八か、現世で生き残る方法に賭けてみるのが男だろ?」

「だったら神様のケツの穴を掘れるようにでも努力してろ。この馬鹿」

 邪険な扱いで突き放しつつも、津田が勝手に暴走しないように注意を払い、吾妻はふと考える。

「……待てよ、津田がそんなことを考えているとすれば、当然あの男も――」

「――う、動くなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 まるで人生で初めて苛めっ子に立ち向かったような、ちょっと声が裏返る叫び声。けれど拳銃を構える金泉を圧倒する気持ちだけは十分に込められた声の主である男は、今まで隠し持っていた拳銃を、ここぞとばかりに取り出し、突然の事態に驚く金泉へと銃口を向けた。

「野郎ッ! やっぱりあの銃、持ってやがったの――ッ!?」

 津田が、自身の持ち込んだもう一つの拳銃を目にして思わず声を上げたが、拳銃を手にする暴走気味の浮気男本人を怒鳴りつけるのは思い止まった。
 それは津田が持ち込んだ拳銃だと知られては厄介だからという意図もあっただろうが、何よりも拳銃を構えた浮気男の顔が常軌を逸していたから津田が大人しく引いたのだろう。
 正義感から金泉へと向けられたはずの銃口は、いつ吾妻たちの方を振り返ってもおかしくはない。

「しまった……馬鹿が津田の他にもう一人いたんだった。うっかり忘れてた……」

 今更後悔しても遅いが、吾妻は頭を抱えずにはいられない。
 そして、浮気男のサプライズ満載の行動に驚きを隠せないのは、両サイドに座る女ども。

「……あ、あなた、そんなものをどこで手に入れたの!?」

「トイレで拾ったァァッ!!」

「トイレで、って……あなた、そんなわけがないでしょ! これ、どういうことなの!?」

「何してるの! 佐賀男さん危ないから座って!」

 浮気男の名は、どうやら佐賀男さんというらしい。
 妻の言葉も愛人の言葉にも耳を貸さない佐賀男は、随分な興奮状態にあり、拳銃のグリップをしっかりと握り締めたまま離さない。無理やりにでも引き抜こうとすれば、引き金にかかった指が動いて、壁や床や、もしくは誰かの内臓に穴を開けてしまうことだろう。頭に血が上って冷静な判断ができていない人間ほど非常に厄介だ。
 更に宥めていたはずの二人の女までもが、佐賀男につられるようにして興奮して言い争いを始めた。

「この浮気女、あんたは黙ってなさい!」

「おばさんこそ、でしゃばらないで頂けます?」

「そもそも、あなたが人の夫に手を出したんじゃない。でしゃばってるのはそっちでしょう」

「悔しかったら奪い返してください。ああ、でもおばさんは、未練がましく一人の男になんか縋りつかないで、さっさと離婚するんですよね? とても残念です」

「この小娘、減らず口ばっかり叩いて……」

「世の中にはお金より、家事のスキルより、長年培ったマンネリという名の絆より、とっても大切なものがあるんです」

「……何よ?」

「美人で若い女の体です」

「はいはい。あんたも二十年後三十年後には、嫌でも立派におばさんって呼ばれる日がくるのよ。人間なんて二十歳越えてから劣化の一途なんだから」

「呼ばせません。一生私は美貌を保ちます。佐賀男さんのために」

 若い女性が鼻高々にその美貌を自慢し、佐賀男の妻と思われる女性に見せびらかすと、

「はぁ? 歳がどうした! 私はまだ若いぞぉ! ぇへへへ」

「黙れ酔っ払い!」

 笑い声と酒臭い息が入り交じる茶々が入り、テンパる佐賀男が言葉を荒げる。
 そして、いつの間にかすっかり人質側についているハイジャック犯、初司はというと、

「伊梨花様、危ないので座っていてください!」

「うるせえぞお前! 私に命令する気ならな、その股座にぶら下がってるきったねぇ粗末なモノ、潰れるまで踏みつけるぞ。ぇへへへ」

「……あ、ありがとうございます!!」

「誰が踏むか、バーカ。ぇへへへ」

 復讐に燃えていた心を鎮火されたからか、今では乗客全員を恐怖で支配していたハイジャック犯の面影なくまるで別人に変わり、年増の酔っぱらいに弄ばれていたが、初司本人は実にうれしそうなので、気の毒な目で見てはやるが誰も同情はしない。
 一部の乗客が好き勝手に騒ぎたい放題、喧騒止まないエコノミークラスの客室は、拳銃を奪い取った金泉でさえも押さえ込むことができずに戸惑っていた。
 佐賀男の妻も、拳銃の脅威など気にも留めずに、怯むことなく平気で佐賀男を責め立てている。

「あなたも、よりによって何でこんな女と不倫したのよ!?」

「お前もうるせぇな! 浮気ぐらいさせろ! しょうがなくお前みたいなのと結婚してやったんだ、それくらい認めろよ!」

「それは私も同感だ。妻と畳みと秘書は、新しい方がいいに決まっている」

「変態糞オヤジはまとめて死んじまえ! アラフォーはまだ若いぞぉ! ひっく、ぇへへへ」

 金泉が佐賀男の言い分に思わず同感し、そこへ再び口を挿む伊梨花の茶々は衰えることを知らない。
 佐賀男は日頃からうだつの上がらない夫だったのだろう。溜めに溜め込んでいた鬱憤をここぞとばかりに吐き出して、自身の妻へと畳みかける。

「お前はいつもそうだ。俺が稼いできてやってるのに、休みの日にまでぶつぶつ文句を垂れる。俺の給料が安いって? だったらそれは俺が悪いんじゃなく、所詮はその程度の男としか結婚できなかった自分の器量の悪さを反省しろよ。旦那が帰ってくるなり聞きたくもない近所のババアに対する愚痴を始めるのなら、俺の仕事の愚痴も聞け! たまにはまともなメシ作ってみろってんだ! 毎日毎日そんなことが続いたらな、別の女のところで息抜きもしたくなるんだよ!」

「若い女で抜いてるのは息だけかぁ? ぇへへへ」

「俺だってたまには若い女に抜いてもらっても――違った、息を抜いて羽を伸ばしてもいいだろう! お前みたいなくっだらない女と結婚した俺の身にもなってみろ!!」

 長かった結婚生活の中でようやく口に出すことのできたらしい佐賀男の反論は、妻の耳を貫いて、言葉は脳まで到達して激しく震わせた。佐賀男の抵抗がよっぽどショックだったのだろうか、佐賀男の妻は黙り込み、佐賀男との間に沈黙を作る。
 だが暫くすると、黙り込んだまま俯く佐賀男の妻の肩がプルプルと震え出した。

「誰が……誰があんたを、浮気ができるくらいの男にしてやったと思ってんだよッッ!!」

 肉食獣の眼光よりも鋭く、試合前のボクサーよりも殺気に満ちた眼差しで佐賀男を貫くと、佐賀男の妻は拳銃をものともせずに、立ち上がると同時に佐賀男の顎に向けられて放たれたのは、アッパー。年相応の身長と体重程度の佐賀男の妻が繰り出すアッパーなど、本来男性を仕留めるには少々力不足だ。けれど佐賀男の妻が固く握った拳には、力や体重だけじゃない何かが込められていた。
 まさか殴られると予想していなかった佐賀男は、防御どころか身構えることも間に合わず、顎を殴りあげられた衝撃が脳天まで突き抜けてそのまま一撃ノックアウト。気を失って狭い座席間に倒れ込むと、手にしていた拳銃も落っことし、とことんツキのない大間抜けな、ただの浮気男に戻った。

「おお、こわっ……あんな女とは絶対に結婚したくねえな」

「いや、意外とあそこまでできる女が、本当にいい女房なのかもしれないぞ」

 間抜け野郎に若干の同情を抱きながら、津田と吾妻はとにかく自分たちの拳銃が使われなかったことに心底安堵する。
 けれどそうなると必然、再び注目は金泉に戻る。

「……ま、まあ余計な邪魔が入ってしまったが、もう抵抗する意思はないみたいだな。さあ、元ハイジャック犯の君、私と一緒に爆弾のスイッチでも押しに、コックピットへ向かおうじゃないか。それで全ては終わりだよ。私も、もちろん君たちもね」

 入れ替わった悪役が、伊梨花の足元に跪く元悪役を見下ろし告げる。
 そのときだった。今まで黙って大人しく飛んでいた機体が、まるで自身の腹の中で騒ぎ立てる我が儘な人間たちへ一言文句でも告げるように、激しく揺れ動いた。
 ガクンと機体が大きく揺れ、小さな混乱と動揺が乗客に生じる。

「っ、何だ、急に揺れ出して――ぅっ!?」

 唐突な揺れに立っていられなかった金泉は、よろめいてその場に転んだ。

「今ですよ浅井さん! 見せ場です!!」

「お前に言われなくてもわかってる。怠慢CA」

 同時、浅井と呼ばれた自称警官の男は倒れた金泉へと飛びかかり、金泉の動きを上から押さえ込みつつ手際よく拳銃を奪い取った。
 乱気流が原因と思われる機体の揺れは金泉が転ぶと直ぐに収まり、短い悲鳴に沸いた乗客も、無力化されて床に取り押さえられている金泉の無様な姿を見付け、今度はどこからともなく拍手が湧き起こって、心からの安堵に客室が包まれる。

「ようやく、全てが終わったな」

 浅井がそう告げると、金泉は抵抗する様子もなく、ぐったりと床に顔を伏せて観念した。

 一件落着、事件は無事解決――したのだけれども、緊張感が解けるのはこのエコノミークラスの客室に限ってのことだ。前方のビジネスクラスからは妙な緊張感が、通路にかかったカーテン越しに噴き出してきており、エコノミークラスの最前列に座っていた吾妻だけが、いち早くそれに気が付いて眉を顰めた。
 ビジネスクラスの異様とも取れる緊張感。その理由は、次の瞬間に開け放たれる、仕切りのカーテンから登場した金髪の男の姿で、吾妻も理解できた。

「――おい、何やってんだ兄貴。騒がしいけど大丈夫なのか?」

 恐らく初司が金泉を殺すことを誓ってコックピットを出たにも拘らず、未だに銃声の一つも聞こえずに剰え拍手まで巻き起こっていた客室に、ただならなぬ異変を感じたらしい金髪の男は、様子を窺いにきたようだ。

 金髪の男の手には、威嚇するように爆弾の遠隔起爆装置が握られている。拳銃の引き金を指一本で引くのと同様、こちらの遠隔起爆装置も親指一つでスイッチを押すことで発火、尚且つ拳銃よりも多大な破壊力を示すことができる。拳銃よりも直接的な暴力を感じさせないものの、十分に死の恐怖が伝わってくる遠隔起爆装置こそが、ビジネスクラスかた漂ってきた妙な緊張感の原因のようだ。

 それでもビジネスクラスの緊張は、このエコノミークラスで巻き起こっていた一連の出来事を知らないために抱いた杞憂でしかない。ハイジャック事件はとっくに解決しているのだ。
 爆弾はもう必要ないんだと、初司はかぶりを振る。

「いや、そのことならもういいんだ、育矢。全て伊梨花様が解決してくれたから。俺たちは伊梨花様に救われたんだよ」

「うぇっへへへ、キモいな、この長髪」

「……は? え……い、伊梨花様? もしかして……この酔っぱらいのことか? ……ッ、何だよ兄貴! 絆されちまったのか腑抜け野郎が! 俺は本気なんだぞ! 兄貴だってそうだろ? そのためにあのドレッドヘアーの男から、金泉の情報と、それに拳銃やら爆弾まで買ったんじゃないか! ……もういい、兄貴なんか当てにしない。ここまできたら俺の手でケリをつける! 金泉、テメェを道連れに死んでやるよ!!」

「……ふっふふ、そうだ、お前の母親を轢き殺したのは私だ! だからそのスイッチを押せ! 終わりにしてしまえ! この私諸共乗客を、木っ端微塵にぶち殺せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

 ハイジャックを行う本来の目的はとっくに潰えていた。だけれどもその事実を知らないもう一人のハイジャック犯、初司に育矢と呼ばれていた実の兄弟らしい金髪の男は、この状況を誤解した。
 浅井に押さえ込まれながらも唯一自由だった口を動かし必死に煽る金泉の声もあって、冷静さを欠いた育矢のスイッチにかける親指は止まらない。

「ちがっ――待てッ! 違うんだ育矢! 金泉も認めたんだ、もう俺たちの復讐は終わったんだ! だから止めろ育矢! 止めろッ――!!」

 一人激しく叫ぶ初司の声が機内に響き渡るが、育矢には届かない。
 あまりにも突然のことだったので吾妻と津田も拳銃を引き抜くどころか、育矢に飛びかかる暇さえなく、小さく聞こえてきた遠隔起爆装置のスイッチが押されるカチリという音に、吾妻は無駄だと知りながらも、思わず瞼を反射的に閉じて身構えた。

 誰もが口を閉じた所為か、そこからは静かで空しい、爆発までの余韻のような時間が流れたのだが、遠隔起爆装置のスイッチが押されてからたった一秒にも拘らず、腕時計の秒針が一つ時を刻むのに、それ以上の時間がかかったように感じる。
 緊張と共に跳ね上がった心臓から送られる血流は、脳に酸素を十二分に送り込み、活性化した意識は、走馬灯を見せる時間を各々に作り上げたのだろう。

 けれど、どれだけ長い時間に感じようが、やっぱりそれはたった一秒での出来事。
 秒針が二つ目の時を刻んだ頃には、元に戻った体感時間で、機体の爆発、そして死という人生のエンディングに向けて時間は進み出す。
 ――はずだった。

「……………………ぶぁはっ!? あれ……私、生きてる?」

 爆発に身構え思わず止めていた呼吸が限界を迎えた客室乗務員の女が、戸惑いつつも大きく息を吐いた声が、吾妻の耳にも聞こえてきた。
 当然、死後の世界の話ではない。
 場所は変わらず、旅客機のエコノミークラスのままだ。

「何でだよ……何で爆発しないんだよッ!? 糞ッ!!」

 育矢は再度起爆を試みようと、遠隔起爆装置のスイッチを、エレベーターで扉が閉まるのを待てないせっかちなオヤジのように連打し、カチカチと空しい音を立てる。その音に混ざりながら、どうしようもない感情のぶつけどころを失った育矢の嘆き声を耳にして、ようやく乗客たちは今の状況を正確に把握し始めた。

「不発……なのか?」

 機内に爆弾を持ち込んだ当人である初司や育也の様子からも、爆弾がただのこけおどしだったとは思えず、浅井が問いかけるように呟く。
 初司は、諦めきれずに足掻こうとする育矢に歩み寄ると、遠隔起爆装置を握り締める育矢の手にそっと自分の手を重ね、ハイジャック犯の仲間としてではなく、長年連れ添ってきた弟へ、兄としての言葉で金泉への執着を断ち切ってやる。

「もういいんだ、育矢。もう終わったんだよ。全部な」

「糞ッ……兄貴、わりぃ……俺、俺っ……」

 優しい兄の声に、育矢はその場に力なく崩れ落ちるとぽろぽろと涙を流し、つられて初司も目に涙を浮かべた。
 何重ものトラブルに見舞われたハイジャックは、ようやく本当の終わりを迎えることができたのだと、まるで十六年前の子供時代に戻った兄弟の、人目も憚らない泣き声は告げていた。



          ◇◇



「なんとか、無事に済んだな」

「全く……奇跡だよな。拳銃も使われず、自分のを抜く必要もなかった。まるで俺たちに神様が味方したみたいだよな、吾妻」

「天国が人の上にあるとすれば、俺たちはいつもより神様に近い場所にいるからな。きっと願いも普段より届き易かったんだろう」

「あー、でも死んで召されるのにも近いよな、それって」

「……この期に及んで、縁起でもねえこと言うなよ」

 ハイジャック犯の持ち込んだ爆弾が不発に終わってから、一時間と少しが経過した。
 平穏を取り戻した客室では、吾妻と津田の二人も、さっきまでの状況を考えると割とろくでもない冗談を言い合えるほどに落ち着いていた。
 ハイジャックで誰一人死者が出なかったことは、不幸中の幸いだろう。特に津田が持ち込んだ拳銃で誰も傷付かなかったことは何よりだ。
 だがハイジャック犯の所為で高飛びは見事に失敗した。吾妻としては今後、あの大金を持って逃げ切れるかどうかが、現状一番の気がかりだ。成田に戻ってからのスケジュールもどうなるのかわからない。日本に到着したら、一旦金の隠し場所を検討する必要がある。

「なあ吾妻、残ったこの拳銃はどうする?」

「拳銃は……着陸と同時に予想される安堵の中に生まれる隙をついて、ハイジャック犯の荷物に滑り込ませる。浮気男の持っていた拳銃と同じ種類の拳銃が、ハイジャック犯の荷物からも出てくれば、そのどちらもがハイジャック犯の持ち込んだ拳銃で、予備だとでも思われるだろう。だからそれは俺が持っておくよ」

「そうか、悪いな。でもこれで、取り敢えずはなんとかなりそうだな」

「ああ、そうだな」

 津田の拳銃を、誰にも見つからないように細心の注意を払いながら受け取って、素早く自分の服に隠すと、直後、機内に機長からのアナウンスが流れ、シートベルトの着用を促されると、それから数分後には着陸に入った。
 機体が高度を下げて速度を落とし空港が近付く最中、乗客の誰もが今後の不透明なスケジュールに心配を始めていると、いよいよ着陸というときに、何故か機体は再び上昇を始めてしまう。
 暫くすると、大空へ逆戻りした機内には、どこかのはた迷惑なハイジャック犯の声ではない、機体の操縦桿を握る本物の機長の声でのアナウンスが再び流れ出す。

『――機長です。当機はただいま些細な、本当に些細なトラブルに見舞われて着陸を一旦中止いたしました。ただいま不具合の原因を調査していますが、トラブルなんて旅行には付き物、よくあることです。だから気にしないでください。驚かず、慌てず、騒がないでください。ハイジャックに比べれば、車輪が片側出ていないくらい、どうってことありませんから! ははは!』

『機長、アナウンス下手ですね』

 吾妻の耳に飛び込んでくるのは、乗客全員を再びどん底へと突き落す、ブラックジョークには到底聞こえない機長の言葉。機長本人はどうやら乗客を落ち着かせようとしたらしいが、動揺入り交じった説得力のない言葉は、乗客にとっては死の宣告でしかない。

 冷静に指摘する副操縦士の言葉を最後にアナウンスは途切れたが、もう遅い。
 機長の言葉をはっきりと聞き取った乗客に、疲労困憊した精神と体に鞭打つような、容赦ない恐怖が再び訪れた。

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