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ハナと僕
きっかけ
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どうしてハナ・ピウスキ――領地もなければ地方議会に議席も持てない百姓貴族の長姉――に、ミッチェル・ラムズフィールド――裕福な大貴族というわけではないけれども、父が貴族院議員で、封地からの歳入もそれなりにある家系の次男坊たる僕――は首輪をはめられることになったのか?
男だとバレた折に彼女に脅されたんじゃないかって?そんな単純なものじゃない。断っておくが、僕が男であるという事実は、たとえルームメイトが彼女でなくても、相部屋が基本の寄宿学校で過ごす以上、遅かれ早かれ露見していたと思う。男女が同じ部屋で暮らすのだ、不測の事故が起きない訳がないだろう。それでもルームメイトが近代的理性を備えた物分かりの良い女性だったら、対話の可能性は残されていたはずだ。不運は一点に尽きる――つまり、肝心のルームメイトがよりにもよって、シモーヌのような慎ましい貴族的な娘ではなく、あらゆる貴族的なもの対して噛みつかずにはいられない、田舎育ちの貧乏女のハナであったことである。
二年前の入学。僕はこの日のために着慣らした制服を着て、宿舎三階にずらりと並ぶ扉の中の一枚の前に佇んでいた。
(ハナ・ピウスキ……どんな子なんだろう)
僕は緊張していた。リーゼ以外の同年代の女の子と話すのは初めてだったし、一目で男だと見抜かれてしまったらどうしようという不安もある。でもそれ以上に、僕はルームメイトの人となりを気にしていた。もしルームメイトが既にシモーヌと交友がある良家の娘ならば、それはもう願ったり叶ったりだけれども、逆に対立している家の出の娘だったりすると、かなり厳しい船出となってしまう。なんでこんなに気にするかというと、生活に不安はないとはいえ、ラムズフィールド家は客観的に見て地方の中流の貴族なので、そもそも大貴族ド・リンドー家との縁故は一切ないからである。だから僕は想像上の上流貴族の娘を夢想しつつ、「どうかこの出会いに神のご加護がありますように」と祈りながら、実家で姉たちの教育を受け持っていた家庭教師に厳しく叩きこまれた女性らしいしぐさを頭の中でもう一度なぞり、ガチガチに震える手で、古ぼけた色合いの自室の扉を開いた。
簡素な木製の椅子に座っていたのは、そんな想像とはかけ離れた小さな女の子。その子は表紙がボロボロになった本をぼんやりと読んでいた。顔立ちは悪くないが、体調を崩しているかのように青白く、ブロンドの髪は短く乱雑に切られていて、この学校に来る貴族にしてはあまりにも野暮ったいというか、校舎や廊下ですれ違った華々しい空気に生来浸かってきたような少女とは全く逆の、なんなら所領の農夫の娘のような、よく言えば素朴な、あけすけに言えば擦り切れた感じがあった。彼女は、敵意とはぎりぎり解釈できかねるよそよそしい灰色の目を上げて、戸口に現れた僕を見やった。僕はその人を寄せ付けないオーラにたじろいだものの、どんな相手であろうと丁寧に接するのが淑女の振る舞いであると教えに力を借り、椅子に座る小柄な彼女を上目に見る程に腰を低く屈めて、彼女に挨拶した。
「初めまして。私はミーシェ・ラムズフィールド。アーバン男爵ラムズフィールド家の三女です。姉が二人、兄が一人おりまして、私は末っ子ですの。よろしくお願いいたしますわ」
慇懃にもスカートの裾を摘んで頭を下げた僕に対し、彼女はなんと言ったと思う?
「ハナ・ピウスキ。よろしく」
それだけだ。それだけ言って、すぐに彼女は目線を切った。こっちがこのときのために厳しい練習を重ねて、社交会の場に出ても恥ずかしくない振る舞いを身に着けたというのに、彼女の反応はあまりにも素っ気なかった。どこの家の何者なのかを名乗らないなんて非常識甚だしいし、そもそも彼女の行いは僕の名誉に対する侮辱にもあたる。こんな仕打ちを受けて黙ってはいられないと、返す言葉が喉元まで出かかったそのとき、彼女の長袖の裾から白い腕が垣間見えた。
(……え?)
その手首は、これまでに会ったどの細君よりもか細く、貧弱だった。よく見れば肌は荒れていたし、髪が短いのも、自分の意思で短くしたというよりは、なんからの事情があって、長かった髪を切らざるをえなかったのだろうと思えた。じろじろと観察する僕が鬱陶しかったのか、彼女は冷血なまなざしで僕をけん制した。
(不憫な子だ)
燃え上がっていた怒りは急速にその勢いを失った。僕は荷物を部屋に運び込んでもらった後、部屋にいたたまれなくなり、夏草が青々と茂る裏庭へ散歩に出かけた。すがすがしい風に吹かれて、新緑の森や、彼方まで続く青い空を眺めてみたが、ハナの冷たい表情が頭にこびりついて離れなかった。どうにも人間不信な振る舞いに、みずほらしい風采、さらには貴族とは思えない健康状態の悪さ。それらを勘案した結果、僕は彼女の身の上事情を次のように想像した――ハナ・ピウスキはそこそこの地位の家の当主の愛人の娘か、あるいは傍系の生まれで、生まれてこの方ずっと不遇な貧乏暮らしをしてきたけれども、直系が途絶えたか、娘が夭折したか、まあそんな類の不慮の事態から急に本家に呼び戻されて、結婚戦略の駒に仕立て上げるためにこの学院に送りこまれた可哀そうな子なのだろう、と。家からすれば、エツィビール女学院に入れて花嫁修業をさせれば元が粗野な田舎娘であろうとそれなりの箔が付くし、彼女は瘦せっぽちだけれど素材は良いから、それなりの身分の「買い手」に恵まれるに違いないと見込んでいるに違いない。世間一般からみれば、貧乏暮らしから抜け出すチャンスが舞い込むなんてなんて幸運なことだろうと、羨望こそされど憐れみを受けることはないだろう。しかし家の事情に振り回されて女になっている僕には、彼女の境遇がなんとなく可哀そうに感じられたのである(実情は近からず遠からずだったが)。
それから一年近くたっても、僕とハナの間に会話はほとんどなかった。別に険悪な関係だったというわけではない。僕から彼女に話しかけることはなかったし(彼女の孤立主義を尊重したのだ)、彼女の方も全く喋らなかった、ただそれだけのことである。僕の最初の一年は極めて順風満帆で、シモーヌとの距離も順調に縮まり、授業の合間も、昼食中も、放課後も、一人でいることはほとんどなくなっていた。一方ハナは――今もそうだけれど――誰とも交わろうとはしなかった。彼女は人と一緒にいるようなときは、きまって他の生徒に貧しさを馬鹿にされるような状況ばかりだった。ハナは毎度毎度、無味乾燥に同級生からの罵倒を受け流していた。彼女と出会ったあの日に僕に向けられたのと同じ、突き刺すような冷たい視線をして。
とはいえハナにも変化はあった。彼女は健康になったのだ。病的に細かった彼女のシルエットは日に日に丸みを帯びていき、健康的な瘦せ型といえるくらいの体系にはなったし、ブロンドの髪艶も、顔色も、次第に明るくなっていた。みずほらしい農婦から、田舎官吏の娘くらいになったといえばいいだろうか。言っておくが、寮で配られる食事なんて質素だ。パンと野菜のスープが基本で、たまに干し肉、ハム、チーズが出てくる程度である。もちろんそんな食事で育ちの良い令嬢の面々が満足するわけなく、生徒はそれぞれ豊かな食卓を用意するために工夫をこらしている。多くは休日ごとに町でハムやチーズ、果物など、ある程度日持ちするものを買いこんでくる(僕もそうしている)が、器用な生徒は自ら調理をしているし、中にはわざわざ料理の上手な学校勤めのメイドにお金を払って毎食作らせている御仁もいるらしい。とはいえ、そういう暮らしとは無縁な彼女は、学校配給の粗食しか口にしていなかった。余計な食べ物を買ってくるだけのお金が無いのだろうが、それとは別に、多分、彼女にとっては寮の食事だけでも十分だったのだと思う。だってあんなもので健康状態が上向くのだから、それ以前の彼女の食生活と比較すれば……ここは楽園だっただろう。
ハナとの距離が縮まったのは、ある夏の祝祭日での出来事がきっかけだ。この学校の食堂は長期休暇の間を除いて年がら年中営業しているけれども、祝日に限ってお休みとなる。国家の祝日くらい下働きの皆さんにもお休みを与えようという学校側の寛大な配慮といえばそうだろうが、こういう日は誰もが町へ出かけてしまうため、わざわざ賃金を払って食堂を開けておく意味がないというのが実際であった。僕もその日は、シモーヌが首都のレストランの一部屋を貸し切って催した食事会に参加していた。和やかな雰囲気の中、学期中はなかなか味わうことのできない手の込んだ一品一品に舌鼓を打つ一方で、ふと、綺麗な真っ白い陶器の上に載せられたローストチキンにナイフを入れた途端、この場にいないルームメイトの姿が頭によぎった。
(彼女は今日、ご飯を食べているのだろうか?)
手が止まった。彼女がいつも通り食堂で代わり映えしないメニューを食べているのならば何も気を揉むことはなかっただろう。しかし、同室の女の子がひもじい思いをしているのに、自分だけ満足してあの部屋に帰るというのは倫理的に許されるのだろうか?紳士としての矜持に反するというか、どうにもばつが悪かった。
「どうしましたのミーシェ?もしかして、料理に何か変なところが?」
顔に出てしまっていたのだろうか、シモーヌが心配そうに僕を見つめた。
「ごめんなさい、なんでもないの。ちょっと考え事をしていただけだから。お料理はとっても美味しいわよ」
「そう、それならよかったですわ」
シモーヌの無垢な笑みが、この時ばかりは少し僕の胸を締め付けた。僕は彼女たちの目を盗んで、卓上のパンにローストチキンとチーズを挟み込み、それをナプキンで包んで懐に忍ばせた。あまり褒められたことではないが、こうするしか今の自分を納得させることができなかった。
自室に戻ると、ハナはテーブルに突っ伏して寝ていた。その傍らには、開いたままの本が置かれていた。そっと数ページをめくって中を確認してみると、どうやら数十年前に東国を旅したとある商人の旅行記のようだった。彼女はこういうものを読むのか。流行りの恋愛小説なんかには目もくれないだろうとは思っていたが、こういう遠いどこかのエキゾチックな体験談に興味があるとは思っていなかった。なんというか、神学とか哲学とか、そういう内なる世界の探求を好んでいると勝手に思っていたから。
「ハナ」
僕は彼女の肩にポンと触れた。すると彼女はその瞬間にパッと目を覚まし、恐らく反射的に、寝込みを襲われた野良猫がごとき俊敏な身のこなしで椅子ごと身を翻した。じきに彼女は僕の姿を認識したが、それでも怪訝な目で僕の動きを用心深く観察していた。同室の仲間じゃないか、そこまで警戒しなくとも……と、彼女の過剰な反応に少し傷つく一方で、ルームメイトとはいえほとんど会話の無い間柄の人間に突然起こされたのだから、何事だと警戒してしまう彼女の心理も分からないでもない。僕は怯えて茂みに隠れてしまった野生動物をおびき出すかのように、彼女の机に持ち帰ってきたものをそっと置いた。
「あなた、今日は多分何も食べてないのでしょう?せっかくのお祝いの日だというのに。だから、ほら」
ナプキンを開き、ここにサンドイッチがあることを彼女に示した。彼女はそれを一瞥したあと、疑心暗鬼な瞳を僕にぶつけてきた。
「どういうつもり?」
「どういうつもりもなにも、あなたに、と思って持って帰ってきたの。パーティで余っていたから」
今のは明確な嘘だが、そうでも言わないと彼女は受け取ろうとはしないだろう。パーティではなく、内向きな食事会だし。彼女は僕のお手製サンドイッチとにらめっこした後、外出用に着飾ったドレス姿の僕を上から下まで、軽蔑をこめてなめた。
「施しなんていらない。自分が惨めになるだけだから」
「そういうつもりじゃないわ。あなたにこれを受け取ってもらえないと、私が困るの」
「は?……もう一度聞く。どういうつもり?」
灰色の瞳孔が、僕の目をじっと見据えた。今度は僕の心の内奥を探り出そうとするように。
「そうね、言うならば、祝い事の大盤振る舞いといったところかしら。身分の貴賤に限らず、その場に通りかかった人には片っ端から声をかけて、お祝いに参加しないかと誘うような感じ」
「なにそれ。どこの田舎の話よ。ていうか、そう体のいいことを言ったって、結局施しには変わりないでしょう」
「違うわよ。私が祭日を祝っている場所にあなたがたまたま通りかかった。だから振る舞うの。あなたがどこの誰かなんて関係ないし、施しなんてものでもない。ただ一緒に祭日を祝いましょうというお誘いよ」
「何を言っているのか分からないのだけど。私、今日は町には出かけてないわよ」
人差し指で机の上をトントンと叩きながら、ハナは横目を向いた。
「まったく、察しが悪いわね。パーティの最中に私の頭の中にあなたの姿がよぎった。それで理由は十分じゃない」
「詭弁よ!」
彼女が立ち上がった瞬間、キュルルルと、空気が抜けるような音がお腹から聞こえてきた。ハナは顔を赤くして、恥をかみ殺すかのように歯を食いしばり、そのまま座に戻っていった。
「まあそういうことだから、お上がりなさいな」
無表情と不機嫌以外の彼女の顔を見たのは、実はこのときが初めてのことだった。笑顔より先に恥じらいの表情を見るというのは変な話だが、まあそれでも、わざわざサンドイッチを持ち帰った甲斐があったというものだ。僕はドレスを脱ぐと、入浴のために一度部屋から出て行った。しばらくして部屋に戻ると、サンドイッチは既に無くなっていて、僕の机の上にナプキンが畳んだ状態で置かれていた。ベッドに寝転がっていたハナは、僕が帰ってきたことに気が付くと、身を起こしてポツリと呟いた。
「ありがとう。美味しかった」
彼女はすぐにまた布団にくるまって壁際に寝てしまったので、そのときどんな顔をしていたかは確認することができなかった。
毛を逆立てて威嚇していた野良猫も一度餌付けに成功してしまえばとんとん拍子に懐柔できるのと同様に、食べ物を通じて、僕とハナの間の関係もこれをきっかけに雪解けを始めた。当初は余剰に買った燻製肉や果物をそれとなく与えるくらいだったが、しばらくすると、しばし食堂の同じ机で一緒に食事をとるようにもなった。同室の女の子が貴族らしくないひもじい生活を送っていることを見過ごせない正義感からの行動とはいえ、僕がこれほど大胆に振る舞えるようになったのは、周囲の推挙もあって二年目から生徒会に入会できたことが大きい。いつだって称号は身元を担保してくれるもので、僕がハナに近づくことを良く思わない生徒も一部はいたけれど、「ミーシェ・ラムズフィールドは貧乏貴族の娘にも分け隔てなく接する寛大な方」という好意的な見方が多数派で、むしろ僕の評判への追い風になったのだ。当然、シモーヌが後者の立場で、ハナに対しても同情的(ああ、本当に寛大なのは君だ!)だったことも同機の一つであったことを、公平を期すために言っておく。
こういう、ある種「健全」なルームメイト関係――食べ物の授受関係はさておき、普通に会話して、たまには普通にお出かけする関係になったのだから、「健全」と表現しても差し支えあるまい――が上手く続いていたのなら、今のような「不健全」な関係には陥らなかっただろう。しかし、すべてをひっくり返す事件はある日突然起こった。あれを「突然」とするのはやや恣意的ではあるけれど、僕自身の免責のために、どうかそういう言い方をさせてほしい。
男だとバレた折に彼女に脅されたんじゃないかって?そんな単純なものじゃない。断っておくが、僕が男であるという事実は、たとえルームメイトが彼女でなくても、相部屋が基本の寄宿学校で過ごす以上、遅かれ早かれ露見していたと思う。男女が同じ部屋で暮らすのだ、不測の事故が起きない訳がないだろう。それでもルームメイトが近代的理性を備えた物分かりの良い女性だったら、対話の可能性は残されていたはずだ。不運は一点に尽きる――つまり、肝心のルームメイトがよりにもよって、シモーヌのような慎ましい貴族的な娘ではなく、あらゆる貴族的なもの対して噛みつかずにはいられない、田舎育ちの貧乏女のハナであったことである。
二年前の入学。僕はこの日のために着慣らした制服を着て、宿舎三階にずらりと並ぶ扉の中の一枚の前に佇んでいた。
(ハナ・ピウスキ……どんな子なんだろう)
僕は緊張していた。リーゼ以外の同年代の女の子と話すのは初めてだったし、一目で男だと見抜かれてしまったらどうしようという不安もある。でもそれ以上に、僕はルームメイトの人となりを気にしていた。もしルームメイトが既にシモーヌと交友がある良家の娘ならば、それはもう願ったり叶ったりだけれども、逆に対立している家の出の娘だったりすると、かなり厳しい船出となってしまう。なんでこんなに気にするかというと、生活に不安はないとはいえ、ラムズフィールド家は客観的に見て地方の中流の貴族なので、そもそも大貴族ド・リンドー家との縁故は一切ないからである。だから僕は想像上の上流貴族の娘を夢想しつつ、「どうかこの出会いに神のご加護がありますように」と祈りながら、実家で姉たちの教育を受け持っていた家庭教師に厳しく叩きこまれた女性らしいしぐさを頭の中でもう一度なぞり、ガチガチに震える手で、古ぼけた色合いの自室の扉を開いた。
簡素な木製の椅子に座っていたのは、そんな想像とはかけ離れた小さな女の子。その子は表紙がボロボロになった本をぼんやりと読んでいた。顔立ちは悪くないが、体調を崩しているかのように青白く、ブロンドの髪は短く乱雑に切られていて、この学校に来る貴族にしてはあまりにも野暮ったいというか、校舎や廊下ですれ違った華々しい空気に生来浸かってきたような少女とは全く逆の、なんなら所領の農夫の娘のような、よく言えば素朴な、あけすけに言えば擦り切れた感じがあった。彼女は、敵意とはぎりぎり解釈できかねるよそよそしい灰色の目を上げて、戸口に現れた僕を見やった。僕はその人を寄せ付けないオーラにたじろいだものの、どんな相手であろうと丁寧に接するのが淑女の振る舞いであると教えに力を借り、椅子に座る小柄な彼女を上目に見る程に腰を低く屈めて、彼女に挨拶した。
「初めまして。私はミーシェ・ラムズフィールド。アーバン男爵ラムズフィールド家の三女です。姉が二人、兄が一人おりまして、私は末っ子ですの。よろしくお願いいたしますわ」
慇懃にもスカートの裾を摘んで頭を下げた僕に対し、彼女はなんと言ったと思う?
「ハナ・ピウスキ。よろしく」
それだけだ。それだけ言って、すぐに彼女は目線を切った。こっちがこのときのために厳しい練習を重ねて、社交会の場に出ても恥ずかしくない振る舞いを身に着けたというのに、彼女の反応はあまりにも素っ気なかった。どこの家の何者なのかを名乗らないなんて非常識甚だしいし、そもそも彼女の行いは僕の名誉に対する侮辱にもあたる。こんな仕打ちを受けて黙ってはいられないと、返す言葉が喉元まで出かかったそのとき、彼女の長袖の裾から白い腕が垣間見えた。
(……え?)
その手首は、これまでに会ったどの細君よりもか細く、貧弱だった。よく見れば肌は荒れていたし、髪が短いのも、自分の意思で短くしたというよりは、なんからの事情があって、長かった髪を切らざるをえなかったのだろうと思えた。じろじろと観察する僕が鬱陶しかったのか、彼女は冷血なまなざしで僕をけん制した。
(不憫な子だ)
燃え上がっていた怒りは急速にその勢いを失った。僕は荷物を部屋に運び込んでもらった後、部屋にいたたまれなくなり、夏草が青々と茂る裏庭へ散歩に出かけた。すがすがしい風に吹かれて、新緑の森や、彼方まで続く青い空を眺めてみたが、ハナの冷たい表情が頭にこびりついて離れなかった。どうにも人間不信な振る舞いに、みずほらしい風采、さらには貴族とは思えない健康状態の悪さ。それらを勘案した結果、僕は彼女の身の上事情を次のように想像した――ハナ・ピウスキはそこそこの地位の家の当主の愛人の娘か、あるいは傍系の生まれで、生まれてこの方ずっと不遇な貧乏暮らしをしてきたけれども、直系が途絶えたか、娘が夭折したか、まあそんな類の不慮の事態から急に本家に呼び戻されて、結婚戦略の駒に仕立て上げるためにこの学院に送りこまれた可哀そうな子なのだろう、と。家からすれば、エツィビール女学院に入れて花嫁修業をさせれば元が粗野な田舎娘であろうとそれなりの箔が付くし、彼女は瘦せっぽちだけれど素材は良いから、それなりの身分の「買い手」に恵まれるに違いないと見込んでいるに違いない。世間一般からみれば、貧乏暮らしから抜け出すチャンスが舞い込むなんてなんて幸運なことだろうと、羨望こそされど憐れみを受けることはないだろう。しかし家の事情に振り回されて女になっている僕には、彼女の境遇がなんとなく可哀そうに感じられたのである(実情は近からず遠からずだったが)。
それから一年近くたっても、僕とハナの間に会話はほとんどなかった。別に険悪な関係だったというわけではない。僕から彼女に話しかけることはなかったし(彼女の孤立主義を尊重したのだ)、彼女の方も全く喋らなかった、ただそれだけのことである。僕の最初の一年は極めて順風満帆で、シモーヌとの距離も順調に縮まり、授業の合間も、昼食中も、放課後も、一人でいることはほとんどなくなっていた。一方ハナは――今もそうだけれど――誰とも交わろうとはしなかった。彼女は人と一緒にいるようなときは、きまって他の生徒に貧しさを馬鹿にされるような状況ばかりだった。ハナは毎度毎度、無味乾燥に同級生からの罵倒を受け流していた。彼女と出会ったあの日に僕に向けられたのと同じ、突き刺すような冷たい視線をして。
とはいえハナにも変化はあった。彼女は健康になったのだ。病的に細かった彼女のシルエットは日に日に丸みを帯びていき、健康的な瘦せ型といえるくらいの体系にはなったし、ブロンドの髪艶も、顔色も、次第に明るくなっていた。みずほらしい農婦から、田舎官吏の娘くらいになったといえばいいだろうか。言っておくが、寮で配られる食事なんて質素だ。パンと野菜のスープが基本で、たまに干し肉、ハム、チーズが出てくる程度である。もちろんそんな食事で育ちの良い令嬢の面々が満足するわけなく、生徒はそれぞれ豊かな食卓を用意するために工夫をこらしている。多くは休日ごとに町でハムやチーズ、果物など、ある程度日持ちするものを買いこんでくる(僕もそうしている)が、器用な生徒は自ら調理をしているし、中にはわざわざ料理の上手な学校勤めのメイドにお金を払って毎食作らせている御仁もいるらしい。とはいえ、そういう暮らしとは無縁な彼女は、学校配給の粗食しか口にしていなかった。余計な食べ物を買ってくるだけのお金が無いのだろうが、それとは別に、多分、彼女にとっては寮の食事だけでも十分だったのだと思う。だってあんなもので健康状態が上向くのだから、それ以前の彼女の食生活と比較すれば……ここは楽園だっただろう。
ハナとの距離が縮まったのは、ある夏の祝祭日での出来事がきっかけだ。この学校の食堂は長期休暇の間を除いて年がら年中営業しているけれども、祝日に限ってお休みとなる。国家の祝日くらい下働きの皆さんにもお休みを与えようという学校側の寛大な配慮といえばそうだろうが、こういう日は誰もが町へ出かけてしまうため、わざわざ賃金を払って食堂を開けておく意味がないというのが実際であった。僕もその日は、シモーヌが首都のレストランの一部屋を貸し切って催した食事会に参加していた。和やかな雰囲気の中、学期中はなかなか味わうことのできない手の込んだ一品一品に舌鼓を打つ一方で、ふと、綺麗な真っ白い陶器の上に載せられたローストチキンにナイフを入れた途端、この場にいないルームメイトの姿が頭によぎった。
(彼女は今日、ご飯を食べているのだろうか?)
手が止まった。彼女がいつも通り食堂で代わり映えしないメニューを食べているのならば何も気を揉むことはなかっただろう。しかし、同室の女の子がひもじい思いをしているのに、自分だけ満足してあの部屋に帰るというのは倫理的に許されるのだろうか?紳士としての矜持に反するというか、どうにもばつが悪かった。
「どうしましたのミーシェ?もしかして、料理に何か変なところが?」
顔に出てしまっていたのだろうか、シモーヌが心配そうに僕を見つめた。
「ごめんなさい、なんでもないの。ちょっと考え事をしていただけだから。お料理はとっても美味しいわよ」
「そう、それならよかったですわ」
シモーヌの無垢な笑みが、この時ばかりは少し僕の胸を締め付けた。僕は彼女たちの目を盗んで、卓上のパンにローストチキンとチーズを挟み込み、それをナプキンで包んで懐に忍ばせた。あまり褒められたことではないが、こうするしか今の自分を納得させることができなかった。
自室に戻ると、ハナはテーブルに突っ伏して寝ていた。その傍らには、開いたままの本が置かれていた。そっと数ページをめくって中を確認してみると、どうやら数十年前に東国を旅したとある商人の旅行記のようだった。彼女はこういうものを読むのか。流行りの恋愛小説なんかには目もくれないだろうとは思っていたが、こういう遠いどこかのエキゾチックな体験談に興味があるとは思っていなかった。なんというか、神学とか哲学とか、そういう内なる世界の探求を好んでいると勝手に思っていたから。
「ハナ」
僕は彼女の肩にポンと触れた。すると彼女はその瞬間にパッと目を覚まし、恐らく反射的に、寝込みを襲われた野良猫がごとき俊敏な身のこなしで椅子ごと身を翻した。じきに彼女は僕の姿を認識したが、それでも怪訝な目で僕の動きを用心深く観察していた。同室の仲間じゃないか、そこまで警戒しなくとも……と、彼女の過剰な反応に少し傷つく一方で、ルームメイトとはいえほとんど会話の無い間柄の人間に突然起こされたのだから、何事だと警戒してしまう彼女の心理も分からないでもない。僕は怯えて茂みに隠れてしまった野生動物をおびき出すかのように、彼女の机に持ち帰ってきたものをそっと置いた。
「あなた、今日は多分何も食べてないのでしょう?せっかくのお祝いの日だというのに。だから、ほら」
ナプキンを開き、ここにサンドイッチがあることを彼女に示した。彼女はそれを一瞥したあと、疑心暗鬼な瞳を僕にぶつけてきた。
「どういうつもり?」
「どういうつもりもなにも、あなたに、と思って持って帰ってきたの。パーティで余っていたから」
今のは明確な嘘だが、そうでも言わないと彼女は受け取ろうとはしないだろう。パーティではなく、内向きな食事会だし。彼女は僕のお手製サンドイッチとにらめっこした後、外出用に着飾ったドレス姿の僕を上から下まで、軽蔑をこめてなめた。
「施しなんていらない。自分が惨めになるだけだから」
「そういうつもりじゃないわ。あなたにこれを受け取ってもらえないと、私が困るの」
「は?……もう一度聞く。どういうつもり?」
灰色の瞳孔が、僕の目をじっと見据えた。今度は僕の心の内奥を探り出そうとするように。
「そうね、言うならば、祝い事の大盤振る舞いといったところかしら。身分の貴賤に限らず、その場に通りかかった人には片っ端から声をかけて、お祝いに参加しないかと誘うような感じ」
「なにそれ。どこの田舎の話よ。ていうか、そう体のいいことを言ったって、結局施しには変わりないでしょう」
「違うわよ。私が祭日を祝っている場所にあなたがたまたま通りかかった。だから振る舞うの。あなたがどこの誰かなんて関係ないし、施しなんてものでもない。ただ一緒に祭日を祝いましょうというお誘いよ」
「何を言っているのか分からないのだけど。私、今日は町には出かけてないわよ」
人差し指で机の上をトントンと叩きながら、ハナは横目を向いた。
「まったく、察しが悪いわね。パーティの最中に私の頭の中にあなたの姿がよぎった。それで理由は十分じゃない」
「詭弁よ!」
彼女が立ち上がった瞬間、キュルルルと、空気が抜けるような音がお腹から聞こえてきた。ハナは顔を赤くして、恥をかみ殺すかのように歯を食いしばり、そのまま座に戻っていった。
「まあそういうことだから、お上がりなさいな」
無表情と不機嫌以外の彼女の顔を見たのは、実はこのときが初めてのことだった。笑顔より先に恥じらいの表情を見るというのは変な話だが、まあそれでも、わざわざサンドイッチを持ち帰った甲斐があったというものだ。僕はドレスを脱ぐと、入浴のために一度部屋から出て行った。しばらくして部屋に戻ると、サンドイッチは既に無くなっていて、僕の机の上にナプキンが畳んだ状態で置かれていた。ベッドに寝転がっていたハナは、僕が帰ってきたことに気が付くと、身を起こしてポツリと呟いた。
「ありがとう。美味しかった」
彼女はすぐにまた布団にくるまって壁際に寝てしまったので、そのときどんな顔をしていたかは確認することができなかった。
毛を逆立てて威嚇していた野良猫も一度餌付けに成功してしまえばとんとん拍子に懐柔できるのと同様に、食べ物を通じて、僕とハナの間の関係もこれをきっかけに雪解けを始めた。当初は余剰に買った燻製肉や果物をそれとなく与えるくらいだったが、しばらくすると、しばし食堂の同じ机で一緒に食事をとるようにもなった。同室の女の子が貴族らしくないひもじい生活を送っていることを見過ごせない正義感からの行動とはいえ、僕がこれほど大胆に振る舞えるようになったのは、周囲の推挙もあって二年目から生徒会に入会できたことが大きい。いつだって称号は身元を担保してくれるもので、僕がハナに近づくことを良く思わない生徒も一部はいたけれど、「ミーシェ・ラムズフィールドは貧乏貴族の娘にも分け隔てなく接する寛大な方」という好意的な見方が多数派で、むしろ僕の評判への追い風になったのだ。当然、シモーヌが後者の立場で、ハナに対しても同情的(ああ、本当に寛大なのは君だ!)だったことも同機の一つであったことを、公平を期すために言っておく。
こういう、ある種「健全」なルームメイト関係――食べ物の授受関係はさておき、普通に会話して、たまには普通にお出かけする関係になったのだから、「健全」と表現しても差し支えあるまい――が上手く続いていたのなら、今のような「不健全」な関係には陥らなかっただろう。しかし、すべてをひっくり返す事件はある日突然起こった。あれを「突然」とするのはやや恣意的ではあるけれど、僕自身の免責のために、どうかそういう言い方をさせてほしい。
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