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第6章 アストルフォ月へ行く
9 聖ヨハネの怪しげな歓待
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聖ヨハネ。神の子イエスの12使徒の最年少。彼に最も愛されたと同時に、唯一殉教しなかった弟子として伝わっている。
兄である大ヤコブと同様、気性が荒い事で知られ「雷の子」と仇名されたという逸話がある。古代ローマ帝国でキリスト教の迫害が激化した際に捕えられて流刑。
流されたパトモス島にて終末世界の幻視を見たとされ、それらを著したのが新約聖書の最後を飾る「黙示録」であると言われる。
柔和な印象を持つ白髪の老人は、ブラダマンテ達の前に厳かに姿を現した。
聖ヨハネが門より現れると同時に、最も早く跪いたのはブラダマンテだった。それに倣いイングランド王子アストルフォも、続いてムーア人騎士ロジェロも頭を垂れる。
普段であれば何の問題もない、礼節を尽くした振る舞いだが――ロジェロこと黒崎八式はチクリとした胸騒ぎを覚えていた。
(女騎士ブラダマンテは敬虔なるキリスト教徒――そういう設定だったな。
だから司藤の奴が、誰よりも早く聖ヨハネに対し跪いたのは正しい。
正しいんだが……クソッ! さっきのやり取りのせいで、どうも落ち着かねえ)
司藤アイが「ブラダマンテ」らしく振る舞えば振る舞うほど。
彼女の中に本来あるはずの、アイの「魂」の存在が希薄になっていくような気がしてならなかった。
「面を上げられよ、敬虔なる信徒たちよ」
ヨハネは朗々たる若々しい声で皆を立ち上がらせた。
ブラダマンテ、ロジェロ、アストルフォだけでなく――いつの間にかペガサスの変身が解けてしまった尼僧メリッサもいた。
「えっ…………あ、あれ?」
メリッサは魔法が解けた事に気づいていなかった。一瞬裸体を晒してしまったかとうろたえた彼女だったが、驚くべき事に僧服をすでに身に纏っていたのである。これも聖者の御業なのだろうか?
「久方ぶりの客人じゃ。ささ、中へと入られよ。存分に歓待しよう」
聖ヨハネは満面の笑みを崩さぬまま、四人を手招きするのだった。
**********
「おお……素晴らしい! これこそまさに地上の楽園!
日頃教会で教えられた通りの、神々しくも厳めしい美しさに満ちた宮殿!
来てよかった……! そうは思わないかい、ロジェロ君!」
アストルフォは聖ヨハネとの邂逅にいたく感動したようで、宮殿内を歩くたび、視界に飛び込むあれやこれやをいちいち賞賛していた。
対するロジェロは、事ある毎に同意を求めてくる彼の鬱陶しさに辟易しつつも「ああ……そうだな」と生返事を繰り返していた。
そんなロジェロを見て、ブラダマンテは心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、ロジェロ? さっきからボーッとしちゃって。長旅で疲れているの?」
無自覚なのかわざとなのか。「ブラダマンテ」になりきっているアイは、本気で彼を心配している様子だった。
ロジェロの精彩のなさの原因は彼女にこそあるのだが――皆の見ている手前、大っぴらに指摘する訳にもいかない。
宮殿内をひと通り見て回った後――聖ヨハネから「食事の用意が出来ている」と知らされた四人は食堂へ通された。
「タナ湖ではな。ここでしか獲れぬ美味な魚が数多くおってのう。
ま……詳しい説明は必要ないかの。
『お主らであれば』見ればすぐに分かるじゃろうて」
白髪の聖者は意味深な言葉を残し、豪奢な食事を皆に振る舞うと奥の間へと姿を消した。
早速四人で食事を摂ることに。ブラダマンテ、いや司藤アイは――目を疑った。
「えっ……これって……ブイヤベース……!?」
驚くのも無理はない。以前ブラダマンテがマルセイユにいた時、インドの王女・マルフィサをもてなす為に作らせた海鮮料理が再現されている。
アストルフォとメリッサは、美味なる料理に舌鼓を打ちながらやっぱり感動していた。
「地上のどんな豪華な料理よりも美味い! さすが天国……!」
「確かに……美味しいですわ……!
今までこんな凄い食事、した事ありませんもの……!」
ブラダマンテはさらに驚いた。ブイヤベースの材料になんとジャガイモやトマトまで使用されていたのだ。
「嘘……そんな……信じられない……!」
「? どうかしたのか、司……ブラダマンテ」
絶句している女騎士を前に、ロジェロも訝しげに訊いてくる。
「ホラ見てこれ。ジャガイモやトマトが素材に使われてるの」
「……確かに今まで見た事なかったけどよ。そんなに凄い事なのか? それ」
以前ブイヤベースを調理した事のあるアイが受けている衝撃は、いまいち黒崎には伝わっていないらしい。
業を煮やした彼女は、念話で下田三郎を呼びつける事にした。
『下田教授! 聞こえる? 今黒崎と一緒にいるんだけど……説明して欲しい事があるの!』
『あ、ああ……分かった』
前に試した事があるので実証済みだが、アイと黒崎が身体のどこかを触れ合っている間、下田の念話を黒崎にも聞かせる事ができる。
そんな訳でアイはためらいなく、黒崎の左手をそっと握り、下田の解説を伝える事にした。
『黒崎君。ジャガイモやトマトは新大陸由来でな。しかもトマトは最初は観賞用だった。
食用に品種改良されたのが19世紀ごろでな。つまり――仮に新大陸にあるトマトをここに持ち込んだとしてもだ。味もロクについていない、食用に適さないトマトしか存在していないハズなんだ』
下田の言葉の意味するところは、すなわち。
今食べているブイヤベースの味は、本来ならばこの世界では絶対に再現できないモノであるという事だ。
『その食事を振る舞っている者は、確かに聖ヨハネと名乗ったんだな?』
『ああ……本人はそう言っていたぜ』
『なるほど。原典の展開的に見ても味方ではあると思うが。
彼がヨハネ本人かどうかは定かではない。あまり彼の言う事を鵜呑みにしない事だな』
黒崎も正直な所、この地の宮殿じたいに違和感を覚えていた。
アストルフォの思惑通りの世界というのが、どうにも出来過ぎている。キリスト教徒を信用させるために作り出している幻覚の可能性も高いだろう。
『それからアイ君、黒崎君。二人に伝えておきたい事があったんだ。
あれからこちらでも色々調べたのだがな。今まで本に引きずり込まれた犠牲者の中に、綺織浩介君の姉の名前があったんだ』
綺織浩介の姉。
その言葉を聞いた二人の顔に緊張が走った。
『!…………それは本当か? 下田先生』
『ああ。恐らくは過去、ブラダマンテとしての使命に失敗し……物語世界のどこかに囚われているのだろう。
彼女の名前は錦野麗奈。結婚した際に姓が変わったようだな』
下田との念話が終わると、アイは気遣わしげに小声で言ってきた。
念のためアストルフォやメリッサには聞こえないよう配慮しての行動だ。
「ねえ、もしかしてその麗奈さんって……アンジェリカ、なのかしら?」
世界が繰り返されている事を認識しているにも関わらず、自身の「魂」の記憶を失いし者、放浪の美姫アンジェリカ。彼女の魂と記憶を救うために協力すると約束したものの、今まで手掛かりを得られずにいた。
「確証は持てねえが……可能性はある。それにこれから行く『月』で、何か分かるかもしれねえ」
「そう、なんだ……『月』って、どんな所なの?」
「それは――」
黒崎が口を開きかけた時、食堂の扉が開き――聖ヨハネが現れた。
「それについては、このわしから説明させてもらおうかのう?」
不可思議な事に、二人の小声の会話が老人には聞こえていたらしい。
周囲の状況は一変していた。アストルフォとメリッサの姿が見えない。
その場にはアイと黒崎、そして「聖ヨハネ」と名乗った老人の三人だけしか存在しなかった。
兄である大ヤコブと同様、気性が荒い事で知られ「雷の子」と仇名されたという逸話がある。古代ローマ帝国でキリスト教の迫害が激化した際に捕えられて流刑。
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柔和な印象を持つ白髪の老人は、ブラダマンテ達の前に厳かに姿を現した。
聖ヨハネが門より現れると同時に、最も早く跪いたのはブラダマンテだった。それに倣いイングランド王子アストルフォも、続いてムーア人騎士ロジェロも頭を垂れる。
普段であれば何の問題もない、礼節を尽くした振る舞いだが――ロジェロこと黒崎八式はチクリとした胸騒ぎを覚えていた。
(女騎士ブラダマンテは敬虔なるキリスト教徒――そういう設定だったな。
だから司藤の奴が、誰よりも早く聖ヨハネに対し跪いたのは正しい。
正しいんだが……クソッ! さっきのやり取りのせいで、どうも落ち着かねえ)
司藤アイが「ブラダマンテ」らしく振る舞えば振る舞うほど。
彼女の中に本来あるはずの、アイの「魂」の存在が希薄になっていくような気がしてならなかった。
「面を上げられよ、敬虔なる信徒たちよ」
ヨハネは朗々たる若々しい声で皆を立ち上がらせた。
ブラダマンテ、ロジェロ、アストルフォだけでなく――いつの間にかペガサスの変身が解けてしまった尼僧メリッサもいた。
「えっ…………あ、あれ?」
メリッサは魔法が解けた事に気づいていなかった。一瞬裸体を晒してしまったかとうろたえた彼女だったが、驚くべき事に僧服をすでに身に纏っていたのである。これも聖者の御業なのだろうか?
「久方ぶりの客人じゃ。ささ、中へと入られよ。存分に歓待しよう」
聖ヨハネは満面の笑みを崩さぬまま、四人を手招きするのだった。
**********
「おお……素晴らしい! これこそまさに地上の楽園!
日頃教会で教えられた通りの、神々しくも厳めしい美しさに満ちた宮殿!
来てよかった……! そうは思わないかい、ロジェロ君!」
アストルフォは聖ヨハネとの邂逅にいたく感動したようで、宮殿内を歩くたび、視界に飛び込むあれやこれやをいちいち賞賛していた。
対するロジェロは、事ある毎に同意を求めてくる彼の鬱陶しさに辟易しつつも「ああ……そうだな」と生返事を繰り返していた。
そんなロジェロを見て、ブラダマンテは心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、ロジェロ? さっきからボーッとしちゃって。長旅で疲れているの?」
無自覚なのかわざとなのか。「ブラダマンテ」になりきっているアイは、本気で彼を心配している様子だった。
ロジェロの精彩のなさの原因は彼女にこそあるのだが――皆の見ている手前、大っぴらに指摘する訳にもいかない。
宮殿内をひと通り見て回った後――聖ヨハネから「食事の用意が出来ている」と知らされた四人は食堂へ通された。
「タナ湖ではな。ここでしか獲れぬ美味な魚が数多くおってのう。
ま……詳しい説明は必要ないかの。
『お主らであれば』見ればすぐに分かるじゃろうて」
白髪の聖者は意味深な言葉を残し、豪奢な食事を皆に振る舞うと奥の間へと姿を消した。
早速四人で食事を摂ることに。ブラダマンテ、いや司藤アイは――目を疑った。
「えっ……これって……ブイヤベース……!?」
驚くのも無理はない。以前ブラダマンテがマルセイユにいた時、インドの王女・マルフィサをもてなす為に作らせた海鮮料理が再現されている。
アストルフォとメリッサは、美味なる料理に舌鼓を打ちながらやっぱり感動していた。
「地上のどんな豪華な料理よりも美味い! さすが天国……!」
「確かに……美味しいですわ……!
今までこんな凄い食事、した事ありませんもの……!」
ブラダマンテはさらに驚いた。ブイヤベースの材料になんとジャガイモやトマトまで使用されていたのだ。
「嘘……そんな……信じられない……!」
「? どうかしたのか、司……ブラダマンテ」
絶句している女騎士を前に、ロジェロも訝しげに訊いてくる。
「ホラ見てこれ。ジャガイモやトマトが素材に使われてるの」
「……確かに今まで見た事なかったけどよ。そんなに凄い事なのか? それ」
以前ブイヤベースを調理した事のあるアイが受けている衝撃は、いまいち黒崎には伝わっていないらしい。
業を煮やした彼女は、念話で下田三郎を呼びつける事にした。
『下田教授! 聞こえる? 今黒崎と一緒にいるんだけど……説明して欲しい事があるの!』
『あ、ああ……分かった』
前に試した事があるので実証済みだが、アイと黒崎が身体のどこかを触れ合っている間、下田の念話を黒崎にも聞かせる事ができる。
そんな訳でアイはためらいなく、黒崎の左手をそっと握り、下田の解説を伝える事にした。
『黒崎君。ジャガイモやトマトは新大陸由来でな。しかもトマトは最初は観賞用だった。
食用に品種改良されたのが19世紀ごろでな。つまり――仮に新大陸にあるトマトをここに持ち込んだとしてもだ。味もロクについていない、食用に適さないトマトしか存在していないハズなんだ』
下田の言葉の意味するところは、すなわち。
今食べているブイヤベースの味は、本来ならばこの世界では絶対に再現できないモノであるという事だ。
『その食事を振る舞っている者は、確かに聖ヨハネと名乗ったんだな?』
『ああ……本人はそう言っていたぜ』
『なるほど。原典の展開的に見ても味方ではあると思うが。
彼がヨハネ本人かどうかは定かではない。あまり彼の言う事を鵜呑みにしない事だな』
黒崎も正直な所、この地の宮殿じたいに違和感を覚えていた。
アストルフォの思惑通りの世界というのが、どうにも出来過ぎている。キリスト教徒を信用させるために作り出している幻覚の可能性も高いだろう。
『それからアイ君、黒崎君。二人に伝えておきたい事があったんだ。
あれからこちらでも色々調べたのだがな。今まで本に引きずり込まれた犠牲者の中に、綺織浩介君の姉の名前があったんだ』
綺織浩介の姉。
その言葉を聞いた二人の顔に緊張が走った。
『!…………それは本当か? 下田先生』
『ああ。恐らくは過去、ブラダマンテとしての使命に失敗し……物語世界のどこかに囚われているのだろう。
彼女の名前は錦野麗奈。結婚した際に姓が変わったようだな』
下田との念話が終わると、アイは気遣わしげに小声で言ってきた。
念のためアストルフォやメリッサには聞こえないよう配慮しての行動だ。
「ねえ、もしかしてその麗奈さんって……アンジェリカ、なのかしら?」
世界が繰り返されている事を認識しているにも関わらず、自身の「魂」の記憶を失いし者、放浪の美姫アンジェリカ。彼女の魂と記憶を救うために協力すると約束したものの、今まで手掛かりを得られずにいた。
「確証は持てねえが……可能性はある。それにこれから行く『月』で、何か分かるかもしれねえ」
「そう、なんだ……『月』って、どんな所なの?」
「それは――」
黒崎が口を開きかけた時、食堂の扉が開き――聖ヨハネが現れた。
「それについては、このわしから説明させてもらおうかのう?」
不可思議な事に、二人の小声の会話が老人には聞こえていたらしい。
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