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第9章 物語は綻びる
2 ブラダマンテの母、ベアトリーチェ
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女騎士ブラダマンテ――司藤アイは、兄リナルドと共にパリに向かった。
旅路の途中、アイは密かに現実世界の下田三郎に念話を送った。
ииииииииии
「下田教授……聞こえる?」
『…………ああ。どうかしたか、アイ君』
久々に聞いた下田の声は、心なしかトーンも落ちて精彩を欠く印象だった。
「この後のブラダマンテって、一体どうなるの?
もう物語も終盤よね? なのに、嫌な予感が拭い切れないんだけど」
状況的には兄リナルドと共に父母に会い、元ムーア人(註:スペインのイスラム教徒)騎士ロジェロと結婚する事を報告するだけ――の筈だ。
にも関わらず、アイの魂の宿ったブラダマンテの肉体は、母親に再会するという行為そのものに恐怖心を抱いていた。
『原典では、実はもうひと悶着あってな。
いよいよブラダマンテとロジェロが結婚、という時に――彼女に別の筋から縁談が持ち込まれるんだ。
相手は東ローマ帝国の皇太子レオ。この当時の世界観からすれば、最高クラスの玉の輿だな』
「そ、そうなんだ……二人が結婚するために乗り越えなきゃならない、最後の試練というやつ、かしらね」
『そんな所だな。ブラダマンテは父母の強力な推し進めもあって、一旦はロジェロを諦めようとするんだが……
国王シャルルマーニュに掛け合って、自分と一騎打ちして勝った男性でなければ結婚を認めない、とか言い出す』
「えぇえ……何ソレ。マルフィサじゃあるまいし……」
『そこから先もゴタゴタする。ロジェロが思い詰めてレオを殺そうとしたり。戦場で捕らえられたロジェロはレオに命を救われた恩義の為、ブラダマンテと戦う替え玉役を引き受けたりな』
「本当にカオス展開ね……」
『まあ、今回は正直どうなるか予測がつかんがな。
何しろ皇太子レオには、綺織君の魂が宿っているんだろう?
話し合い次第で最悪のシナリオを回避する事だって、できる筈だ』
「…………」
『……どうした? アイ君。何か気がかりな事でもあるのか?』
「アグラマン大王が言っていたの。以前パリで戦ったロドモンって人が着ていた鎧……アレの贈り主が、綺織先輩だったのよ」
『……その記述は私も読んだが、私の方でも彼の真意は分からない。
本人に直接聞くしかないんじゃないか?』
「うん…………そう、よね」
アイは自分に言い聞かせるように、強く頷いた。
今後どのように立ち回るにせよ、まずは両親に会わなければならない。
養父の危篤の為、カレナ山に向かってしまったロジェロが傍にいないのが心残りだが。
ииииииииии
パリに到着した。
ブラダマンテへの使者も兼ねていた長兄リナルドは――心なしか緊張に顔を引き締めている。
「大丈夫?……リナルド兄さん」
「我の事は心配するな、我が最愛の妹よ」リナルドは青ざめつつも言った。
「それより気掛かりなのは、お前だブラダマンテ。
先日、ロジェロの事は母上に話したが――余り快くは思っていただけなかった。
母上は気分屋だからな……我も精一杯努力する所存だが」
公然と妹を溺愛し、ブラダマンテの為なら邪竜と戦う事も厭わぬであろう、あのリナルドが――ここまで悲壮な決意を固めている。
母ベアトリーチェとは……一体いかなる人物なのか。
パリにあるクレルモン家の屋敷に帰還すると、リナルドとブラダマンテは大仰に召使いらに出迎えられた。
有体に言って祝賀ムード全開なのであるが……明らかに二人の考えているものとは、異質の空気を感じる。
奥の謁見の間に通されると、ブラダマンテ達の両親――エイモン公爵とその妻・ベアトリーチェの姿があった。
父エイモンは第一線を退いて久しく、実質隠居状態ではあるが……整った顔立ちに白髪交じりの毛髪は、容姿端麗なクレルモン一族の家長に相応しい気品と威厳を漂わせている。しかしその表情は苦虫を噛み潰したように憂いを帯びていた。
かたや母ベアトリーチェ。歳を経てもなお色褪せぬ美しさと華美な紅色の衣装。しかしその目には秘めた強い意志を感じる。にっこりと微笑んでいるが、目を合わせれば並の男では思わずたじろぐほどの静かな迫力があった。
「よく戻ってきてくれました。ブラダマンテ」
ベアトリーチェは低い声音で、娘の帰還を労った。
「用件は他でもありません。貴女にとって、とても喜ばしい話が来たのよ。
東ローマ帝国の皇太子レオってご存知よね? 彼が貴女の噂を聞きつけて、是非とも伴侶に迎えたいと。
我がクレルモン家としても、レオ皇太子のような家柄と権威を持つ婿であれば、大歓迎ですわ。
よって、吉日を選んで二人の婚礼の儀を執り行おうと――」
「ちょ、ちょっと待って! いえ、お待ち下さいませ、お母様――」
ブラダマンテの返事も待たず、どんどん話を進めようとする母に、思わずアイは声を上げて遮った。縁談の内容自体は予め下田教授から聞き知っていたが、ここまで強引にやられると思わなかったのだ。
途端に謁見の場の空気が凍る。歓待ムードだったクレルモン家の召使いたちも、息を飲み沈黙を守っている。
「ここに来るまで、何の用件かも聞かされず、会っていきなり縁談の話をされても……その、戸惑うばかり、で……」
毅然と反論しようと思ったブラダマンテであったが――冷たく重苦しい空気と、見る間に険しくなっていくベアトリーチェの表情に、彼女の声は消え入りそうな程弱まっていく。
「そ、そうですよ母上! それに我が妹には、心に決めた人物が……」
弾かれるように口を開くリナルド。しかし――
空気を切り裂く、鋭い音がした。
どこに隠し持っていたのか、ベアトリーチェが鞭を取り出し石畳を叩いたのだ。
妹を庇おうとしたリナルドも、思わず恐怖で口をつぐんでしまった。謁見の間に再び静寂が訪れる。
「心に決めた人物? それはひょっとして、あのロジェロとかいう――どこの馬の骨とも分からぬ異教の騎士ですか?」
「ッ……! ロジェロは、先日キリスト教に改宗しました。もう異教徒ではありません」
「ふむ――どうやらブラダマンテ。
貴女とはよーく『話し合う』必要があるみたいね」
ベアトリーチェは、厳しい言葉とは裏腹に不可解な笑みを浮かべていた。
「あなた。娘をしばらくお借りします――構いませんわね?」
一部始終を黙って見ていたエイモン公爵は、すっかり意気消沈した様子でコクリと頷くだけだった。
ブラダマンテはベアトリーチェに連れられ、重苦しい地下牢へ向かう。
「……何を、なさいますの? お母様――」
「決まっているでしょう? 聞き分けのない娘には、お仕置きが必要よ」
奇妙な支配力だった。
ベアトリーチェは高齢であり、非力な女性の筈だ。騎士として鍛錬を積んだブラダマンテならば、力づくで彼女の言葉を撥ね退け抵抗する事もできる筈だ。しかし――逆らえなかった。幼少からの「刷り込み」による恐怖が、ブラダマンテの意志を蝕み、抗いがたい呪縛となって従わせているのである。
二人が辿り着いた先は、拷問部屋だった。
旅路の途中、アイは密かに現実世界の下田三郎に念話を送った。
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「下田教授……聞こえる?」
『…………ああ。どうかしたか、アイ君』
久々に聞いた下田の声は、心なしかトーンも落ちて精彩を欠く印象だった。
「この後のブラダマンテって、一体どうなるの?
もう物語も終盤よね? なのに、嫌な予感が拭い切れないんだけど」
状況的には兄リナルドと共に父母に会い、元ムーア人(註:スペインのイスラム教徒)騎士ロジェロと結婚する事を報告するだけ――の筈だ。
にも関わらず、アイの魂の宿ったブラダマンテの肉体は、母親に再会するという行為そのものに恐怖心を抱いていた。
『原典では、実はもうひと悶着あってな。
いよいよブラダマンテとロジェロが結婚、という時に――彼女に別の筋から縁談が持ち込まれるんだ。
相手は東ローマ帝国の皇太子レオ。この当時の世界観からすれば、最高クラスの玉の輿だな』
「そ、そうなんだ……二人が結婚するために乗り越えなきゃならない、最後の試練というやつ、かしらね」
『そんな所だな。ブラダマンテは父母の強力な推し進めもあって、一旦はロジェロを諦めようとするんだが……
国王シャルルマーニュに掛け合って、自分と一騎打ちして勝った男性でなければ結婚を認めない、とか言い出す』
「えぇえ……何ソレ。マルフィサじゃあるまいし……」
『そこから先もゴタゴタする。ロジェロが思い詰めてレオを殺そうとしたり。戦場で捕らえられたロジェロはレオに命を救われた恩義の為、ブラダマンテと戦う替え玉役を引き受けたりな』
「本当にカオス展開ね……」
『まあ、今回は正直どうなるか予測がつかんがな。
何しろ皇太子レオには、綺織君の魂が宿っているんだろう?
話し合い次第で最悪のシナリオを回避する事だって、できる筈だ』
「…………」
『……どうした? アイ君。何か気がかりな事でもあるのか?』
「アグラマン大王が言っていたの。以前パリで戦ったロドモンって人が着ていた鎧……アレの贈り主が、綺織先輩だったのよ」
『……その記述は私も読んだが、私の方でも彼の真意は分からない。
本人に直接聞くしかないんじゃないか?』
「うん…………そう、よね」
アイは自分に言い聞かせるように、強く頷いた。
今後どのように立ち回るにせよ、まずは両親に会わなければならない。
養父の危篤の為、カレナ山に向かってしまったロジェロが傍にいないのが心残りだが。
ииииииииии
パリに到着した。
ブラダマンテへの使者も兼ねていた長兄リナルドは――心なしか緊張に顔を引き締めている。
「大丈夫?……リナルド兄さん」
「我の事は心配するな、我が最愛の妹よ」リナルドは青ざめつつも言った。
「それより気掛かりなのは、お前だブラダマンテ。
先日、ロジェロの事は母上に話したが――余り快くは思っていただけなかった。
母上は気分屋だからな……我も精一杯努力する所存だが」
公然と妹を溺愛し、ブラダマンテの為なら邪竜と戦う事も厭わぬであろう、あのリナルドが――ここまで悲壮な決意を固めている。
母ベアトリーチェとは……一体いかなる人物なのか。
パリにあるクレルモン家の屋敷に帰還すると、リナルドとブラダマンテは大仰に召使いらに出迎えられた。
有体に言って祝賀ムード全開なのであるが……明らかに二人の考えているものとは、異質の空気を感じる。
奥の謁見の間に通されると、ブラダマンテ達の両親――エイモン公爵とその妻・ベアトリーチェの姿があった。
父エイモンは第一線を退いて久しく、実質隠居状態ではあるが……整った顔立ちに白髪交じりの毛髪は、容姿端麗なクレルモン一族の家長に相応しい気品と威厳を漂わせている。しかしその表情は苦虫を噛み潰したように憂いを帯びていた。
かたや母ベアトリーチェ。歳を経てもなお色褪せぬ美しさと華美な紅色の衣装。しかしその目には秘めた強い意志を感じる。にっこりと微笑んでいるが、目を合わせれば並の男では思わずたじろぐほどの静かな迫力があった。
「よく戻ってきてくれました。ブラダマンテ」
ベアトリーチェは低い声音で、娘の帰還を労った。
「用件は他でもありません。貴女にとって、とても喜ばしい話が来たのよ。
東ローマ帝国の皇太子レオってご存知よね? 彼が貴女の噂を聞きつけて、是非とも伴侶に迎えたいと。
我がクレルモン家としても、レオ皇太子のような家柄と権威を持つ婿であれば、大歓迎ですわ。
よって、吉日を選んで二人の婚礼の儀を執り行おうと――」
「ちょ、ちょっと待って! いえ、お待ち下さいませ、お母様――」
ブラダマンテの返事も待たず、どんどん話を進めようとする母に、思わずアイは声を上げて遮った。縁談の内容自体は予め下田教授から聞き知っていたが、ここまで強引にやられると思わなかったのだ。
途端に謁見の場の空気が凍る。歓待ムードだったクレルモン家の召使いたちも、息を飲み沈黙を守っている。
「ここに来るまで、何の用件かも聞かされず、会っていきなり縁談の話をされても……その、戸惑うばかり、で……」
毅然と反論しようと思ったブラダマンテであったが――冷たく重苦しい空気と、見る間に険しくなっていくベアトリーチェの表情に、彼女の声は消え入りそうな程弱まっていく。
「そ、そうですよ母上! それに我が妹には、心に決めた人物が……」
弾かれるように口を開くリナルド。しかし――
空気を切り裂く、鋭い音がした。
どこに隠し持っていたのか、ベアトリーチェが鞭を取り出し石畳を叩いたのだ。
妹を庇おうとしたリナルドも、思わず恐怖で口をつぐんでしまった。謁見の間に再び静寂が訪れる。
「心に決めた人物? それはひょっとして、あのロジェロとかいう――どこの馬の骨とも分からぬ異教の騎士ですか?」
「ッ……! ロジェロは、先日キリスト教に改宗しました。もう異教徒ではありません」
「ふむ――どうやらブラダマンテ。
貴女とはよーく『話し合う』必要があるみたいね」
ベアトリーチェは、厳しい言葉とは裏腹に不可解な笑みを浮かべていた。
「あなた。娘をしばらくお借りします――構いませんわね?」
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ブラダマンテはベアトリーチェに連れられ、重苦しい地下牢へ向かう。
「……何を、なさいますの? お母様――」
「決まっているでしょう? 聞き分けのない娘には、お仕置きが必要よ」
奇妙な支配力だった。
ベアトリーチェは高齢であり、非力な女性の筈だ。騎士として鍛錬を積んだブラダマンテならば、力づくで彼女の言葉を撥ね退け抵抗する事もできる筈だ。しかし――逆らえなかった。幼少からの「刷り込み」による恐怖が、ブラダマンテの意志を蝕み、抗いがたい呪縛となって従わせているのである。
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