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1.初めての夢
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「どこだ、ここ?」
俺――ラザックの呟きは人々の喧騒の中へと溶けていった。
頭上には漆黒の空が広がっていることから、夜であることは間違いないだろう。
だが、目の前に広がる景色は、俺の知っている夜とは随分と様子が異なっていた。
石畳の敷かれた大通りに沿うように、ズラリと建ち並ぶ店や民家らしき建造物。
明かりのついていない建物もあったが、飲食店らしき一角からは賑やかな声が大通りまで響いている。
街路脇に点々と立っている魔道ランプは、まるで昼間のように辺りを照らしている。
こんなに明るい夜を見るのは初めてだ。
それだけではない。
大通りを行く人の数も尋常ではないのだ。
俺の住むラダ村の総人口はおおよそ二百人ほどだが、パッと見ただけでもそれ以上の人々が往来しているように思う。
見たことのない夜。
見たことのない建物。
見たことのない人の数。
初めてだらけの景色を前に、俺は一つの結論を導き出した。
「これは夢だな、間違いない」
よくよく思い返せば、最後にある記憶は自室のベッドに潜り込んだというものだ。
俺の身体は確実に寝ているはずである。
仮にこれが現実だとしたら、俺をこの見たことのない街に連れてきた奴がいるはずだが、少なくとも見える範囲にそれらしき存在はいない。
それに、俺を連れ去ってこんなところに放置する意味がわからない。
つまりこれは夢なのだ。
「にしても、こんなに意識がはっきりとした夢を見るのは初めてだな」
俺は右手を開閉しながら呟いた。
夢というものはもっと不自由なものだと、経験的に思っていた。
だが、今俺は身体を思い通りに動かすことができるし、むしろ普段より調子がいい気さえする。
身体が軽いとは、こういう感じなのだろう。
加えて、全身で得られる情報がやけに鮮明だ。
足の裏で感じる、石畳の硬さ。
夜の街を行き交う人々の動き。
酒場から聞こえてくる賑やかな声。
どれも不自然なほどに自然で、だからこそここが現実なのではないかと錯覚しそうになる。
「さて、せっかく夢の中で自由に動き回れることだし、精々楽しませてもらおうかな」
小さな農村に産まれ、十五歳になった今でも村の外の世界を見たことがない。
たとえここが夢の中で、現実には存在しない街だとしても、俺は一向に構わなかった。
小さな頃に戻ったような、魂を揺さぶる好奇心が身体を満たしていく。
心の高まりに従うように、ふらふらと大通りを歩いていく。
右を見ても、左を見ても、村では見たことのない造りの建物ばかりだ。
ラド村に建っている家といえば、木造作りの平屋が基本だ。
俺の家もそうだし、村で一番大きい村長の家でもそれは変わらない。
だが、この街の建物は、どれも石造りを基本としている。
高さも二階、三階とあり、屋根を見るために仰ぐようにしなければならないのは新鮮だった。
石造りなのは建物だけではない。
石畳が綺麗に敷かれた大通り。
ラド村の剥き出しの大地に慣れている俺からすると、一歩踏み出す度に足の裏に感じる硬さは、妙な違和感があった。
すれ違う人々の服装も様々だ。
俺と同じような服装の者もいるが、それ以外にも革鎧を身に纏った者、ヒラヒラとした綺麗な布でできた服を着た者、どこかの店の制服らしきものを着た者など見ていて飽きる気がしない。
ラド村では大人も子供も皆同じような格好をしている。
男女で多少の色味を使い分けているが、今目の前に広がる多様性に比べれば誤差のようなものだろう。
「これが全部夢とか、やばすぎるだろ! 俺の想像力は底知れないな……」
あまりに精巧な造りの世界に、思わず感嘆する。
今まで気がつかなかったが、もしかしたら俺には芸術家としてのセンスでもあるのかもしれない。
あてもなく人の流れに身を任せて歩いていると、一件の酒場らしき店が目についた。
「酒か……」
ラド村ではそれほど酒を呑む習慣はない。
というより、常に備蓄するだけの蓄えがないのだろう。
村人が酒を呑む機会といえば、精々年に一回催される収穫祭の時くらいなものだろう。
飲酒に年齢制限はないが、なんとなく大人の飲み物だという雰囲気があり、俺はこれまで呑んだことがなかった。
だが、俺ももう十五歳だ。
夢の中でくらい呑んでみるのもいいかもしれない。
ほのかに漂うアルコールの香りに誘われて、俺は店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい! 空いている席に座って!」
忙しそうに歩き回る女性の声に従い、俺は壁際にある二人がけの席へと腰を下ろした。
料理と酒の匂いに満ちた店内は、賑やかというより騒がしいと形容した方がいいような雰囲気だった。
だが、不思議と嫌悪感はなく、むしろ豪快に笑いあっている人たちの姿を見ると、釣られてこちらも気分も良くなってくる。
「いらっしゃい! 注文は何にする?」
先程声をかけてくれた女性が俺の席までやってきた。
年の頃は俺とそれほど変わらないように見える。
はつらつとしていて、屈託のない笑顔が眩しい。
所謂看板娘という奴なのだろう。
膝丈のエプロン姿をした彼女に、熱い視線を向けている男がちらほらといる。
客の心はしっかりと掴んでいるようだ。
「何か酒を頼みたいんだけど、種類は何があるんだ?」
「うちで扱ってるのは麦酒と季節の果実酒だね。
男連中には麦酒の方が人気だけど、私個人としては甘い果実酒の方が好きかな」
「なら果実酒を貰おうかな」
「果実酒ね。食べ物はどうする?」
「夕飯はもう食べたんだ。注文はとりあえず果実酒だけで」
「わかったわ。ああ、そうそう。
うちは食い逃げ防止のために、料金は先払いなの。
果実酒一杯なら大銅貨二枚ね」
「えっ!? カネとるの!?」
「お店なんだから当たり前でしょう。……まさか、おカネ持ってないの?」
俺は慌てて服のポケットをまさぐる。
格好はいつもの普段着だったが、常日頃ポケットにカネをいれておく習慣はない。
夢の中ならカネくらい都合良く入っているかもと期待したが、そんな甘いことはなかった。
「呆れた。おカネも持たずにお酒を呑みに来るなんて。
お客さんじゃないんなら、席を空けて。この時間は忙しいんだから」
辛辣な言葉が胸を抉る。
(まさか夢の中でカネが必要だとは……)
ここが現実なら、当然だが俺もカネを持たずに店に入ったりはしない。
しかし、いくらここが良くできた夢の中だといっても、そんなところまで現実に則さなくてもいいのではないだろうか。
己の想像力の融通の利かなさに溜め息が出る。
仕方ない。
たとえ夢だとしても、他人に迷惑をかけるのは気持ちのいいものではない。
大人しく店を出るとしよう。
俺が席を立とうとしたそのときだった。
「なんだ、坊主。カネがねぇなら俺が一杯奢ってやろうか?」
近くの席で騒いでいた男の一人が声をかけてきた。
「今日は稼ぎが多くて気分がいいからな。しけた面してる坊主に恵んでやるよ」
男は赤い顔に笑みを浮かべた。
「いいのか?」
筋肉質な体躯は、俺よりふた回りは大きい。
顔も巌のようで、現実だったら警戒心から近づきたいと思わないような男だろう。
だが、ここは夢の中だ。
そのせいか、不思議と男に対する恐怖心は湧いてこなかった。
「もちろんだ。だが、ただで奢るってのも面白くねぇ。
俺と力比べをして、坊主が勝ったら奢るってのはどうだ?」
そう言って男は俺の向かいの席に座ると、テーブルに肘をつき、右腕を垂直に立てた。
どうやら力比べとは腕相撲のことらしい。
普通に考えて、農民の息子にすぎない俺が、この丸太のような腕をした男に勝てるはずないだろう。
それどころか、勢い余って腕をへし折られかねない。
目の前の男も、その仲間らしき連中も、俺が勝てるとは思っていないように見える。
客観的に見て、俺が勝てると思える要素はどこにもないだろう。
だが、所詮これは夢だ。
せっかく起こったイベントをわざわざスルーする必要もない。
それに俺が勝つ可能性だってあるかもしれない。
ここは夢の中なのだから。
俺は椅子に座り直すと、右の肘をテーブルについた。
「俺が負けたときのペナルティーは?」
「そんなもんいらねぇよ。
まあ、負けたら少し腕が使い物にならなくなるかもしれないがな」
男が嫌らしい笑みを向けてくる。
俺を怖がらせようとしているのか、それとも嗜虐的な思考の持ち主なのか。
(まあ、どっちでもいいか。現実の俺に影響があるわけでもないし。
本当に腕を折られたら、寝覚めは悪そうだけど)
俺は男と手を握りあった。
皮の厚い手だ。
日頃から何かを握るような力仕事をしているのだろう。
「俺が審判をしてやるよ」
男の仲間が組んだ俺たちの手の上に、自身の手を置いた。
「カウントスリーからゴーの合図で開始だ」
「いいぜ」
「わかった」
男の仲間は俺たちの返事に頷くと、カウントを始めた。
「スリー」
握る手に力が入る。
「ツー」
男の顔には余裕の色が見える。
自分が負けるとは微塵も思っていないのだろう。
「ワン」
しかし、それは俺も同じだった。
目の前の男に負ける気がしない。
「ゴーッ!」
バシィィィィン
男の腕がテーブルに叩きつけられた。
「「……」」
先程まで賑やかだった店内を静寂が包む。
男の勝利を確信していた連中は、皆目を見開いて固まっていた。
驚く気持ちもわからなくない。
実際、勝った俺が一番驚いているのだから。
正直、負ける気はしなかった。
根拠はないが、確信のようなものが俺の中にあったのだ。
現実の俺では決して勝つことのできない相手だろう。
そんな相手に勝ってしまった。
夢とはいえ、驚く気持ちは大きかった。
「俺の勝ちでいい?」
「あ、ああ……」
どこか気の抜けた様子で男が返事をする。
こんなガキに負けたのだ。
それなりにショックなのだろう。
だが、勝負は勝負だ。
せっかくなのでお酒はいただくとしよう。
俺は他の客同様に固まっていた女性店員に果実酒を注文した。
呆けていた女性は仕事中であることを思い出したのか、すぐに果実酒を運んできてくれた。
皆の視線に囲まれているのは、些か居心地が悪かったが、初めて呑む果実酒はほのかな甘味と爽やかな香りがして美味しかった。
俺――ラザックの呟きは人々の喧騒の中へと溶けていった。
頭上には漆黒の空が広がっていることから、夜であることは間違いないだろう。
だが、目の前に広がる景色は、俺の知っている夜とは随分と様子が異なっていた。
石畳の敷かれた大通りに沿うように、ズラリと建ち並ぶ店や民家らしき建造物。
明かりのついていない建物もあったが、飲食店らしき一角からは賑やかな声が大通りまで響いている。
街路脇に点々と立っている魔道ランプは、まるで昼間のように辺りを照らしている。
こんなに明るい夜を見るのは初めてだ。
それだけではない。
大通りを行く人の数も尋常ではないのだ。
俺の住むラダ村の総人口はおおよそ二百人ほどだが、パッと見ただけでもそれ以上の人々が往来しているように思う。
見たことのない夜。
見たことのない建物。
見たことのない人の数。
初めてだらけの景色を前に、俺は一つの結論を導き出した。
「これは夢だな、間違いない」
よくよく思い返せば、最後にある記憶は自室のベッドに潜り込んだというものだ。
俺の身体は確実に寝ているはずである。
仮にこれが現実だとしたら、俺をこの見たことのない街に連れてきた奴がいるはずだが、少なくとも見える範囲にそれらしき存在はいない。
それに、俺を連れ去ってこんなところに放置する意味がわからない。
つまりこれは夢なのだ。
「にしても、こんなに意識がはっきりとした夢を見るのは初めてだな」
俺は右手を開閉しながら呟いた。
夢というものはもっと不自由なものだと、経験的に思っていた。
だが、今俺は身体を思い通りに動かすことができるし、むしろ普段より調子がいい気さえする。
身体が軽いとは、こういう感じなのだろう。
加えて、全身で得られる情報がやけに鮮明だ。
足の裏で感じる、石畳の硬さ。
夜の街を行き交う人々の動き。
酒場から聞こえてくる賑やかな声。
どれも不自然なほどに自然で、だからこそここが現実なのではないかと錯覚しそうになる。
「さて、せっかく夢の中で自由に動き回れることだし、精々楽しませてもらおうかな」
小さな農村に産まれ、十五歳になった今でも村の外の世界を見たことがない。
たとえここが夢の中で、現実には存在しない街だとしても、俺は一向に構わなかった。
小さな頃に戻ったような、魂を揺さぶる好奇心が身体を満たしていく。
心の高まりに従うように、ふらふらと大通りを歩いていく。
右を見ても、左を見ても、村では見たことのない造りの建物ばかりだ。
ラド村に建っている家といえば、木造作りの平屋が基本だ。
俺の家もそうだし、村で一番大きい村長の家でもそれは変わらない。
だが、この街の建物は、どれも石造りを基本としている。
高さも二階、三階とあり、屋根を見るために仰ぐようにしなければならないのは新鮮だった。
石造りなのは建物だけではない。
石畳が綺麗に敷かれた大通り。
ラド村の剥き出しの大地に慣れている俺からすると、一歩踏み出す度に足の裏に感じる硬さは、妙な違和感があった。
すれ違う人々の服装も様々だ。
俺と同じような服装の者もいるが、それ以外にも革鎧を身に纏った者、ヒラヒラとした綺麗な布でできた服を着た者、どこかの店の制服らしきものを着た者など見ていて飽きる気がしない。
ラド村では大人も子供も皆同じような格好をしている。
男女で多少の色味を使い分けているが、今目の前に広がる多様性に比べれば誤差のようなものだろう。
「これが全部夢とか、やばすぎるだろ! 俺の想像力は底知れないな……」
あまりに精巧な造りの世界に、思わず感嘆する。
今まで気がつかなかったが、もしかしたら俺には芸術家としてのセンスでもあるのかもしれない。
あてもなく人の流れに身を任せて歩いていると、一件の酒場らしき店が目についた。
「酒か……」
ラド村ではそれほど酒を呑む習慣はない。
というより、常に備蓄するだけの蓄えがないのだろう。
村人が酒を呑む機会といえば、精々年に一回催される収穫祭の時くらいなものだろう。
飲酒に年齢制限はないが、なんとなく大人の飲み物だという雰囲気があり、俺はこれまで呑んだことがなかった。
だが、俺ももう十五歳だ。
夢の中でくらい呑んでみるのもいいかもしれない。
ほのかに漂うアルコールの香りに誘われて、俺は店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい! 空いている席に座って!」
忙しそうに歩き回る女性の声に従い、俺は壁際にある二人がけの席へと腰を下ろした。
料理と酒の匂いに満ちた店内は、賑やかというより騒がしいと形容した方がいいような雰囲気だった。
だが、不思議と嫌悪感はなく、むしろ豪快に笑いあっている人たちの姿を見ると、釣られてこちらも気分も良くなってくる。
「いらっしゃい! 注文は何にする?」
先程声をかけてくれた女性が俺の席までやってきた。
年の頃は俺とそれほど変わらないように見える。
はつらつとしていて、屈託のない笑顔が眩しい。
所謂看板娘という奴なのだろう。
膝丈のエプロン姿をした彼女に、熱い視線を向けている男がちらほらといる。
客の心はしっかりと掴んでいるようだ。
「何か酒を頼みたいんだけど、種類は何があるんだ?」
「うちで扱ってるのは麦酒と季節の果実酒だね。
男連中には麦酒の方が人気だけど、私個人としては甘い果実酒の方が好きかな」
「なら果実酒を貰おうかな」
「果実酒ね。食べ物はどうする?」
「夕飯はもう食べたんだ。注文はとりあえず果実酒だけで」
「わかったわ。ああ、そうそう。
うちは食い逃げ防止のために、料金は先払いなの。
果実酒一杯なら大銅貨二枚ね」
「えっ!? カネとるの!?」
「お店なんだから当たり前でしょう。……まさか、おカネ持ってないの?」
俺は慌てて服のポケットをまさぐる。
格好はいつもの普段着だったが、常日頃ポケットにカネをいれておく習慣はない。
夢の中ならカネくらい都合良く入っているかもと期待したが、そんな甘いことはなかった。
「呆れた。おカネも持たずにお酒を呑みに来るなんて。
お客さんじゃないんなら、席を空けて。この時間は忙しいんだから」
辛辣な言葉が胸を抉る。
(まさか夢の中でカネが必要だとは……)
ここが現実なら、当然だが俺もカネを持たずに店に入ったりはしない。
しかし、いくらここが良くできた夢の中だといっても、そんなところまで現実に則さなくてもいいのではないだろうか。
己の想像力の融通の利かなさに溜め息が出る。
仕方ない。
たとえ夢だとしても、他人に迷惑をかけるのは気持ちのいいものではない。
大人しく店を出るとしよう。
俺が席を立とうとしたそのときだった。
「なんだ、坊主。カネがねぇなら俺が一杯奢ってやろうか?」
近くの席で騒いでいた男の一人が声をかけてきた。
「今日は稼ぎが多くて気分がいいからな。しけた面してる坊主に恵んでやるよ」
男は赤い顔に笑みを浮かべた。
「いいのか?」
筋肉質な体躯は、俺よりふた回りは大きい。
顔も巌のようで、現実だったら警戒心から近づきたいと思わないような男だろう。
だが、ここは夢の中だ。
そのせいか、不思議と男に対する恐怖心は湧いてこなかった。
「もちろんだ。だが、ただで奢るってのも面白くねぇ。
俺と力比べをして、坊主が勝ったら奢るってのはどうだ?」
そう言って男は俺の向かいの席に座ると、テーブルに肘をつき、右腕を垂直に立てた。
どうやら力比べとは腕相撲のことらしい。
普通に考えて、農民の息子にすぎない俺が、この丸太のような腕をした男に勝てるはずないだろう。
それどころか、勢い余って腕をへし折られかねない。
目の前の男も、その仲間らしき連中も、俺が勝てるとは思っていないように見える。
客観的に見て、俺が勝てると思える要素はどこにもないだろう。
だが、所詮これは夢だ。
せっかく起こったイベントをわざわざスルーする必要もない。
それに俺が勝つ可能性だってあるかもしれない。
ここは夢の中なのだから。
俺は椅子に座り直すと、右の肘をテーブルについた。
「俺が負けたときのペナルティーは?」
「そんなもんいらねぇよ。
まあ、負けたら少し腕が使い物にならなくなるかもしれないがな」
男が嫌らしい笑みを向けてくる。
俺を怖がらせようとしているのか、それとも嗜虐的な思考の持ち主なのか。
(まあ、どっちでもいいか。現実の俺に影響があるわけでもないし。
本当に腕を折られたら、寝覚めは悪そうだけど)
俺は男と手を握りあった。
皮の厚い手だ。
日頃から何かを握るような力仕事をしているのだろう。
「俺が審判をしてやるよ」
男の仲間が組んだ俺たちの手の上に、自身の手を置いた。
「カウントスリーからゴーの合図で開始だ」
「いいぜ」
「わかった」
男の仲間は俺たちの返事に頷くと、カウントを始めた。
「スリー」
握る手に力が入る。
「ツー」
男の顔には余裕の色が見える。
自分が負けるとは微塵も思っていないのだろう。
「ワン」
しかし、それは俺も同じだった。
目の前の男に負ける気がしない。
「ゴーッ!」
バシィィィィン
男の腕がテーブルに叩きつけられた。
「「……」」
先程まで賑やかだった店内を静寂が包む。
男の勝利を確信していた連中は、皆目を見開いて固まっていた。
驚く気持ちもわからなくない。
実際、勝った俺が一番驚いているのだから。
正直、負ける気はしなかった。
根拠はないが、確信のようなものが俺の中にあったのだ。
現実の俺では決して勝つことのできない相手だろう。
そんな相手に勝ってしまった。
夢とはいえ、驚く気持ちは大きかった。
「俺の勝ちでいい?」
「あ、ああ……」
どこか気の抜けた様子で男が返事をする。
こんなガキに負けたのだ。
それなりにショックなのだろう。
だが、勝負は勝負だ。
せっかくなのでお酒はいただくとしよう。
俺は他の客同様に固まっていた女性店員に果実酒を注文した。
呆けていた女性は仕事中であることを思い出したのか、すぐに果実酒を運んできてくれた。
皆の視線に囲まれているのは、些か居心地が悪かったが、初めて呑む果実酒はほのかな甘味と爽やかな香りがして美味しかった。
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