13 / 16
アルフォンスの講義
しおりを挟む翌日の午後、私はアルフォンス様との初めての勉強会のため、ローズ宮の一室を訪れた。
彼の姿が見えると、知的な雰囲気を漂わせる銀縁の眼鏡が、窓から差し込む光を受けてきらりと光った。
落ち着いた黒髪はきちんと整えられ、その奥から覗く深い藍色の瞳は、私が来たことに気づくと、一瞬だけ揺らぎ、そしていつもの思慮深さを湛えた。
「あいこ様、お待ちしておりました。本日からどうぞよろしくお願い致します」
「はい!よろしくお願い致します」
「それでは、早速ですが、この国の産業構造からご説明いたしましょう」
彼の声は低く落ち着いていて、心地よく耳に響く。テーブルには、すでに分厚い資料と、精緻なグラフが広げられていた。その資料の山を見るだけで、彼の準備の周到さと、この勉強会にかける真剣さが伝わってくる。
「まず、主な産業は農業、商業、そして最近発展著しい魔道具製造業となりますが……あいこ様は、どちらから興味がおありでしょうか?」
アルフォンス様は、ただ一方的に話すのではなく、私の理解度や興味に合わせて進めようとしてくれる。私は少し緊張しながらも、この国の基盤となる農業から、と答えた。彼はそれを聞くと、頷き、丁寧に説明を始めた。
彼の解説は、単なる知識の羅列ではなかった。数字や専門用語の一つ一つに、国民の生活や、国の未来への展望が込められている。彼の言葉を聞いていると、まるで複雑なパズルが解けていくように、この国の仕組みが見えてくるようだった。
「なるほど…!ということは、この地域の穀物生産量が国の食料自給率に大きく関わってくるのですね」
私が理解できたことを伝えると、アルフォンス様はふっと口元を緩め、わずかに微笑んだ。その、普段は見慣れない表情に、私の心臓が小さく跳ねる。
「ええ、その通りです。あいこ様は、非常に理解が早い」
褒められたことに嬉しくなり、私はさらに質問を重ねた。そんな時だった。彼が指差した資料の、小さな文字が読みにくく、私は思わず身を乗り出した。その瞬間、アルフォンス様がすっと私の顔に近づいてきた。
「あいこ様、もし見えにくいようでしたら、こちらへ……」
彼の顔が、私のすぐ横にある。視界の端で、銀縁の眼鏡越しに彼の深い藍色の瞳が、真剣な光を湛えて私を見つめているのが分かった。彼から漂う、清潔で知的な香りに、私は息を呑む。
あまりにも近すぎる距離に、私の心臓はドクドクと警鐘を鳴らし始めた。彼の声が、まるで耳元で囁かれているかのように響く。
「この部分が、重要なデータでして……」
彼の説明が続くが、もうほとんど頭に入ってこない。彼が身を乗り出すたびに、鍛えられた細身の体が私の腕や肩に触れるか触れないかの距離になり、そのたびに電流が走ったような錯覚に陥る。
一つの項目を終え、彼が少し身を引いた時、私ははあ、と安堵の息を漏らした。
だが、アルフォンス様はそれに気づいた様子もなく、次の資料に手を伸ばす。
「では、次に商業における流通経路について説明いたします。この資料には、主要な貿易ルートと、その年間取引額が記されており……」
再び、彼の顔が資料を指すために近づいてくる。この距離感は、彼にとっては全くの無意識なのだろう。だが、私にとっては、予測不能なドキドキの連続だった。彼の指先が資料の上を滑り、私の指先と触れ合う瞬間、微かに熱が伝わる。
その時だった。
「あいこ様、なにか別に気になることがございましたか…??」
アルフォンスの声は、いつもの落ち着いたトーン。
しかし、その言葉に私はハッと息を呑んだ。
まさか、私がドキドキしていることに気づかれている?
慌てて顔を上げると、銀縁の眼鏡の奥、彼の深い藍色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
その視線は、まるで私の心の奥底を見透かすかのように、静かで、それでいて疑問に満ちていた。
改めてその整った顔を直視してしまった私は、つい一瞬目を逸らしてしまった。
そんな私の反応を見た彼の口元が、わずかに、しかし確実に弧を描いた。それは、これまで見せたことのない、大人の男の余裕と、獲物を見定めたかのような笑みだった。
「ほう、なるほど。それでしたら」
そう言うと、彼は一度すっと身を引いた。
私の胸は安堵と、そして「もしかして、勉強に集中もせずひたすらときめいていた不真面目な子だと思われたかな?」という羞恥と不安でいっぱいになる。
だが、次の瞬間、彼は再び意図的に、ゆっくりと私の顔に近づいてきた。
先ほどまでとは違う、計算された動き。彼の顔が、先ほどよりもさらに近い距離で、私の目の前にある。彼の吐息が、まるで熱を帯びているかのように、私の頬を撫でる。
「では、この部分の統計を見ていただけますか?こちらは、特にあいこ様にご理解いただきたい箇所でして……」
彼の声が、より一層甘く、耳元で響く。彼の指先が、資料の上で私の指先に触れるか触れないか、というギリギリの距離を保ちながら、ピンポイントで情報を指し示していた。その知的な説明の裏で、彼の瞳は、私のわずかな反応も見逃すまいと、じっと見つめ続けている。
ああ、これは確信犯だ。
私は、彼の言葉に相槌を打ちながらも、内心でそう叫んでいた。彼は、私が彼に惹かれていること、そして彼の無意識の行動にドキドキしていることを、全て見抜いていたのだ。そして、その私の反応を面白がり、今度は意図的に、この「距離」を使ってきているのだった。
アルフォンスは、宰相室にも所属しており、日頃から貴族たちの腹の探り合いのような心理戦を得意としている。 その彼にとって、私の心の動きなど、まるで手に取るように分かっていたのだろう。
彼の唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……あいこ様、顔が真っ赤ですが、集中できていらっしゃいますか?」
その言葉は、まるで私を試すかのような響きを持っていた。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
追放された偽物聖女は、辺境の村でひっそり暮らしている
潮海璃月
ファンタジー
辺境の村で人々のために薬を作って暮らすリサは“聖女”と呼ばれている。その噂を聞きつけた騎士団の数人が現れ、あらゆる疾病を治療する万能の力を持つ聖女を連れて行くべく強引な手段に出ようとする中、騎士団長が割って入る──どうせ聖女のようだと称えられているに過ぎないと。ぶっきらぼうながらも親切な騎士団長に惹かれていくリサは、しかし実は数年前に“偽物聖女”と帝都を追われたクラリッサであった。
捨てられた聖女、自棄になって誘拐されてみたら、なぜか皇太子に溺愛されています
h.h
恋愛
「偽物の聖女であるお前に用はない!」婚約者である王子は、隣に新しい聖女だという女を侍らせてリゼットを睨みつけた。呆然として何も言えず、着の身着のまま放り出されたリゼットは、その夜、謎の男に誘拐される。
自棄なって自ら誘拐犯の青年についていくことを決めたリゼットだったが。連れて行かれたのは、隣国の帝国だった。
しかもなぜか誘拐犯はやけに慕われていて、そのまま皇帝の元へ連れて行かれ━━?
「おかえりなさいませ、皇太子殿下」
「は? 皇太子? 誰が?」
「俺と婚約してほしいんだが」
「はい?」
なぜか皇太子に溺愛されることなったリゼットの運命は……。
アリエッタ幼女、スラムからの華麗なる転身
にゃんすき
ファンタジー
冒頭からいきなり主人公のアリエッタが大きな男に攫われて、前世の記憶を思い出し、逃げる所から物語が始まります。
姉妹で力を合わせて幸せを掴み取るストーリーになる、予定です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
完【恋愛】婚約破棄をされた瞬間聖女として顕現した令嬢は竜の伴侶となりました。
梅花
恋愛
侯爵令嬢であるフェンリエッタはこの国の第2王子であるフェルディナンドの婚約者であった。
16歳の春、王立学院を卒業後に正式に結婚をして王室に入る事となっていたが、それをぶち壊したのは誰でもないフェルディナンド彼の人だった。
卒業前の舞踏会で、惨事は起こった。
破り捨てられた婚約証書。
破られたことで切れてしまった絆。
それと同時に手の甲に浮かび上がった痣は、聖痕と呼ばれるもの。
痣が浮き出る直前に告白をしてきたのは隣国からの留学生であるベルナルド。
フェンリエッタの行方は…
王道ざまぁ予定です
おばさんは、ひっそり暮らしたい
蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる