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アルフォンスの講義
しおりを挟む翌日の午後、私はアルフォンス様との初めての勉強会のため、ローズ宮の一室を訪れた。
彼の姿が見えると、知的な雰囲気を漂わせる銀縁の眼鏡が、窓から差し込む光を受けてきらりと光った。
落ち着いた黒髪はきちんと整えられ、その奥から覗く深い藍色の瞳は、私が来たことに気づくと、一瞬だけ揺らぎ、そしていつもの思慮深さを湛えた。
「あいこ様、お待ちしておりました。本日からどうぞよろしくお願い致します」
「はい!よろしくお願い致します」
「それでは、早速ですが、この国の産業構造からご説明いたしましょう」
彼の声は低く落ち着いていて、心地よく耳に響く。テーブルには、すでに分厚い資料と、精緻なグラフが広げられていた。その資料の山を見るだけで、彼の準備の周到さと、この勉強会にかける真剣さが伝わってくる。
「まず、主な産業は農業、商業、そして最近発展著しい魔道具製造業となりますが……あいこ様は、どちらから興味がおありでしょうか?」
アルフォンス様は、ただ一方的に話すのではなく、私の理解度や興味に合わせて進めようとしてくれる。私は少し緊張しながらも、この国の基盤となる農業から、と答えた。彼はそれを聞くと、頷き、丁寧に説明を始めた。
彼の解説は、単なる知識の羅列ではなかった。数字や専門用語の一つ一つに、国民の生活や、国の未来への展望が込められている。彼の言葉を聞いていると、まるで複雑なパズルが解けていくように、この国の仕組みが見えてくるようだった。
「なるほど…!ということは、この地域の穀物生産量が国の食料自給率に大きく関わってくるのですね」
私が理解できたことを伝えると、アルフォンス様はふっと口元を緩め、わずかに微笑んだ。その、普段は見慣れない表情に、私の心臓が小さく跳ねる。
「ええ、その通りです。あいこ様は、非常に理解が早い」
褒められたことに嬉しくなり、私はさらに質問を重ねた。そんな時だった。彼が指差した資料の、小さな文字が読みにくく、私は思わず身を乗り出した。その瞬間、アルフォンス様がすっと私の顔に近づいてきた。
「あいこ様、もし見えにくいようでしたら、こちらへ……」
彼の顔が、私のすぐ横にある。視界の端で、銀縁の眼鏡越しに彼の深い藍色の瞳が、真剣な光を湛えて私を見つめているのが分かった。彼から漂う、清潔で知的な香りに、私は息を呑む。
あまりにも近すぎる距離に、私の心臓はドクドクと警鐘を鳴らし始めた。彼の声が、まるで耳元で囁かれているかのように響く。
「この部分が、重要なデータでして……」
彼の説明が続くが、もうほとんど頭に入ってこない。彼が身を乗り出すたびに、鍛えられた細身の体が私の腕や肩に触れるか触れないかの距離になり、そのたびに電流が走ったような錯覚に陥る。
一つの項目を終え、彼が少し身を引いた時、私ははあ、と安堵の息を漏らした。
だが、アルフォンス様はそれに気づいた様子もなく、次の資料に手を伸ばす。
「では、次に商業における流通経路について説明いたします。この資料には、主要な貿易ルートと、その年間取引額が記されており……」
再び、彼の顔が資料を指すために近づいてくる。この距離感は、彼にとっては全くの無意識なのだろう。だが、私にとっては、予測不能なドキドキの連続だった。彼の指先が資料の上を滑り、私の指先と触れ合う瞬間、微かに熱が伝わる。
その時だった。
「あいこ様、なにか別に気になることがございましたか…??」
アルフォンスの声は、いつもの落ち着いたトーン。
しかし、その言葉に私はハッと息を呑んだ。
まさか、私がドキドキしていることに気づかれている?
慌てて顔を上げると、銀縁の眼鏡の奥、彼の深い藍色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
その視線は、まるで私の心の奥底を見透かすかのように、静かで、それでいて疑問に満ちていた。
改めてその整った顔を直視してしまった私は、つい一瞬目を逸らしてしまった。
そんな私の反応を見た彼の口元が、わずかに、しかし確実に弧を描いた。それは、これまで見せたことのない、大人の男の余裕と、獲物を見定めたかのような笑みだった。
「ほう、なるほど。それでしたら」
そう言うと、彼は一度すっと身を引いた。
私の胸は安堵と、そして「もしかして、勉強に集中もせずひたすらときめいていた不真面目な子だと思われたかな?」という羞恥と不安でいっぱいになる。
だが、次の瞬間、彼は再び意図的に、ゆっくりと私の顔に近づいてきた。
先ほどまでとは違う、計算された動き。彼の顔が、先ほどよりもさらに近い距離で、私の目の前にある。彼の吐息が、まるで熱を帯びているかのように、私の頬を撫でる。
「では、この部分の統計を見ていただけますか?こちらは、特にあいこ様にご理解いただきたい箇所でして……」
彼の声が、より一層甘く、耳元で響く。彼の指先が、資料の上で私の指先に触れるか触れないか、というギリギリの距離を保ちながら、ピンポイントで情報を指し示していた。その知的な説明の裏で、彼の瞳は、私のわずかな反応も見逃すまいと、じっと見つめ続けている。
ああ、これは確信犯だ。
私は、彼の言葉に相槌を打ちながらも、内心でそう叫んでいた。彼は、私が彼に惹かれていること、そして彼の無意識の行動にドキドキしていることを、全て見抜いていたのだ。そして、その私の反応を面白がり、今度は意図的に、この「距離」を使ってきているのだった。
アルフォンスは、宰相室にも所属しており、日頃から貴族たちの腹の探り合いのような心理戦を得意としている。 その彼にとって、私の心の動きなど、まるで手に取るように分かっていたのだろう。
彼の唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……あいこ様、顔が真っ赤ですが、集中できていらっしゃいますか?」
その言葉は、まるで私を試すかのような響きを持っていた。
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