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【4.既知の二人】

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「あ、気がついた」

 瞼を上げると目の前に誰かの顔と布切れがあった。一拍おいて、それが「小さな頃から腐れ縁」天下集あまもとつどいの顔で、手に汚れた布を持ち、こちらをのぞき込んでいたのだと理解する。そして同時に汚れた布が雑巾であることも判明した。

 集はミチルの目が雑巾に向いたことに気づくと、小学生のような顔にバツの悪そうな笑顔を浮かべ慌てて背中の後ろに雑巾を隠した。

「わりい。牛乳こぼしてさ。とりあえずほれ、ベッド汚すといけないなぁー、と思って」

 見回すと、そこは白いカーテンで区切られた学校の医務室だった。

「雑巾と牛乳の臭いか……」

 アゴからかけて首もとに手をやると、肌と同じ温度となった液体に触れる。鼻に近いせいか、牛乳の臭いにはかなりの存在感があった。しかも集が背中に隠した雑巾は既に自分に使用された後だったのだろう。なんだか雑巾くさい残り香。

「何ッ、ちょっと、ありえないでしょーがッ!」

 慌ててベッドの上に身を起こすと、首のあたりにかすかに溜まっていたらしい牛乳が一筋、胸を伝って流れていった。

「ぎゃあッ! 気持ち悪いッッ!!」

 その時、半分程開いていたカーテンがふわりと揺れたかと思うとスラリとした影がのぞく。

「あ、集、雑巾は駄目って言っただろ? これ、はい、タオル。少し濡らしてあるから」

 ジャージ姿で現れたのは、集のクラスメイトの 神楽貢大かぐらみつひろだった。

 日本人離れした長い手足と小さな頭部を持つ貢大が着ていると、やぼったい体育のジャージがアスリートが着るような高級スポーツウェアに見える。そこで初めて集も制服ではなく体育のジャージ姿だったことに思い至った。

 背が伸びる事を祈願してか、いたずらに大人の服を着た子供のようにダブダブ。とりあえず野暮ったい。

 礼を言うミチルに貢大はクラスの女子達に言わせると「色っぽい」らしい笑顔をニッコリ浮かべた。

「ごめんね。牛乳のストローが中に入ったらしくて、取ろうとしたら勢いあまってこんなことに」
「いやいや、諸悪の根元は間違いなく集にあるだろうから」
「はあッ? ぶっ倒れたおまえをここまで連れてきてやったの誰だと思ってんだよ!」

 集はその丸い顔に憤然とした表情を浮かべはしたものの牛乳の件は特に否定せず、拗ねたように腰を下ろした回転椅子の上でくるくる回った。

 ああ、そういえば喉が渇いてジュースに買いに出たらなんか急に衝撃くらって───。

 確かにそこから今いる医務室までの記憶はなかった。そしてミチルは、自分よりも背の小さい集を見て即座に断言する。

「神楽くん」
「まあね」

 あっさり答えた集は回るのをやめてミチルに向き直った。

「大事の前の小事だ。この惨事は救助の末の些末な出来事だと思ってくれ」
「牛乳と救助は関係ないよね、絶対。とりあえずありがとうね、神楽君」
「いえいえ。熱、大丈夫?」

 そう。今朝方発熱があったものの皆勤賞を逃したくなかったので、今日の金曜を乗り切れば何とかなるッ! とばかりに解熱剤を飲んで登校したのだった。
 確かにまだ頬や体に火照りはあるが、眠ったせいか体は朝よりも楽になっていた。

「うん。マシになった。次、2時間目? 一時間も寝てたのか。あー、皆勤賞逃したー」

 ミチルがアゴと首筋を拭いてから何気なく胸元にタオルをつっこんだとき、神楽はミチルに背を向け、ベッドの端に浅く腰をおろした。同時に、その長い指で集の頭をクイッと持ち、椅子ごと体を半回転させ同じようにベッドの反対側を向かせていた。

 向こうに何かあるのかな? と思い、胸を拭きつつかすかに開いたカーテンの向こうをのぞいていると神楽が笑いを含んだ声で言った。

「そもそもは集の蹴ったボールがあたったせいなんだけどね」
「はぁッ? あの衝撃の犯人はあんただったのッ?」
「いやいや。ボール蹴る時ちゃんと声かけたけど、おまえがボーッとしてたんじゃないか! 熱があるのに学校来る奴がおかしいんだっつの」

 集はそこで神楽の方へ向きミチルを指す。

「じゃなきゃ、こいつが、この女が、パキケファロサウルスより頭の硬い奴が、ちょっとボールが直撃したくらいで気失うかよ」
「パキ……ケ……、て、訳の分からないものに例えるの止めてよッ!」

 ベッドから足を出し集の背中に蹴りを入れる。するとふいをつかれた集は、椅子が回転した拍子に見事に椅子から落ちた。

「痛ッ! 本ッ当にどう猛な奴だなッ! マジで恐竜並み! ゴジラかよ!」
「それじゃガメラも恐竜になるよ、集」
「あ、いや、突っ込むとこおかしいよ、神楽君」

 集の腕を持って、その体を軽々と椅子にもどす神楽。神楽は集よりも30cm程背が高く、綺麗な顔が実年齢をわかりにくくしているので、その姿はまるで子供をすくい上げる保護者のように見える。

 ───背の高い神楽と「恐竜」という単語。

 目覚めのいきなりの事態にすっかり飛んでいた先ほどの夢の記憶がフワリと呼び覚まされる。

 ほんとにリアルな夢だったわ。

 訳の分からない状況で、内容的には「夢」である方がよっぽど現実的なのだが、それでもあの化け物の質感や口に入った砂の不味さ、肩をつかまれた痛みは本当にリアルで、夢の中にいて全く夢を感じさせなかった。
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