【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

文字の大きさ
2 / 143
第一章:死化粧の虎

第二話:若き密偵の使命

しおりを挟む
 信玄の死から数ヶ月が経った。甲斐の国は、未だ厚い雪に覆われ、春の訪れを待ち侘びるかのように、静まり返っていた。
しかし、その静寂の裏で、武田家の命運を賭けた密やかな動きが始まろうとしていた。

 高坂昌信。武田四天王の一人にして、信玄からの信頼篤い重臣は、その日も自室に籠もり、深々と降り積もる雪を眺めていた。
その表情には、亡き主君への哀惜と、来るべき乱世への憂いが深く刻まれている。しかし、その眼差しの奥には、決して揺るがぬ決意の光が宿っていた。

 障子の向こうから、かすかな足音が聞こえた。昌信は、瞑目したまま、その足音が自らの部屋の前に止まるのを待った。

「入れ」

 重厚な声が響き、障子が静かに開かれる。そこに現れたのは、まだ年若き武士、疾風の小太郎であった。
小太郎は、武田家に代々仕える忍びの家系の出であり、その名が示す通り、身のこなしは軽やかで、その瞳には一点の曇りもない。しかし、まだ実戦の経験は少なく、その顔には幾分かの緊張の色が浮かんでいた。

 小太郎は、深々と頭を下げた。
「高坂様、お呼びでしょうか」

 昌信は、小太郎に視線を向け、静かに頷いた。

「うむ。小太郎、面を上げよ」

 小太郎が顔を上げると、昌信の視線は、まるで彼の心の奥底を見透かすかのように、深く小太郎を見据えていた。

「そなたに、密命を言い渡す」

 昌信の言葉に、小太郎の背筋に緊張が走る。密命。それは、武田家が存亡の危機に瀕する今、生半可なことではないと悟った。

「畏まりました。この小太郎、いかなる命も謹んでお受けいたします」

 小太郎の言葉に、昌信は満足げに小さく頷いた。

「よいか、小太郎。これから語ることは、いかなる者にも漏らしてはならぬ。たとえ家族であろうと、である」

 その言葉の重みに、小太郎は息を呑んだ。

「信玄様は……病により世を去られたと、世間ではそう伝えられておる。だが、それは……」

 昌信は言葉を区切り、小太郎の反応を窺うように見つめた。小太郎は、固唾を呑んで次の言葉を待った。

「それは、偽りである」

 昌信の口から発せられたその言葉は、小太郎にとって、まるで雷に打たれたような衝撃であった。長らく病に臥せっていたとはいえ、あの甲斐の虎、武田信玄が死んだという報せは、武田家臣にとって、晴天の霹靂であったはずだ。その死が、偽りであると。

「信玄様は、今も生きておられる。そして、水面下で、ある最後の秘策を準備されておる」

 昌信の言葉は、小太郎の脳裏に激しい波紋を広げた。信玄公が生きている。そして、秘策を。一体、いかなる秘策だというのか。

「この秘策は、ただ武田家のためのみならず、この乱れた世を、そして民を救うためのもの。されど、その秘策の全貌は、一部の者しか知らされておらぬ。信玄様は、自らの『死』をもって、敵方の目を欺き、その秘策を静かに進行させようとされているのだ」

 小太郎は、混乱する頭で言葉を紡いだ。
「しかし、なぜ、信玄様はそこまでして……『死』を装う必要が……」

 昌信は、静かに首を振った。
「その真意は、追々わかるであろう。今は、その秘策の存在を確かめ、それを手に入れることが、そなたに課せられた使命である」

 昌信は、懐から古びた小さな鍵を取り出した。その鍵は、使い込まれてはいるものの、丁寧に手入れされており、その表面にはかすかな光沢を放っていた。

「この鍵は、信玄様がそなたに託されたものだ。これを使い、秘策の端緒を見つけ出すのだ」

 小太郎は、震える手でその鍵を受け取った。鍵は、見た目には何ら変哲もないものだが、その冷たい感触は、小太郎の心に重くのしかかった。それは、ただの鍵ではなかった。武田家の命運を握る、重要な鍵に他ならない。

「道中、困難もあろう。だが、そなたは武田の忍び。祖先の血が、そなたを導くであろう。決して諦めるな」

 昌信の言葉は、小太郎の胸に深く響いた。
「この小太郎、命に代えても、信玄様の秘策を見つけ出し、武田家のために尽力いたします!」

 小太郎の言葉には、迷いも、怯えもなかった。ただ、武田家への忠誠心と、与えられた使命を全うせんとする強い決意が宿っていた。

「うむ。期待しておるぞ、小太郎」

 昌信は、小太郎の肩を軽く叩いた。その手は、凍てつく冬の空気とは裏腹に、小太郎の心に温かい力を与えた。

 小太郎は、昌信の部屋を出ると、深々と雪が積もる庭を歩いた。吐く息は白く、瞬く間に冬の空気に溶けていく。しかし、彼の胸の内には、熱い炎が燃え上がっていた。信玄公が生きている。その事実が、小太郎の心を奮い立たせた。

 秘策とは何か。そして、信玄公がなぜ自らの死を偽り、謀反人の汚名を甘んじて受け入れたのか。その謎を解き明かす旅が、今、始まる。

 小太郎は、握りしめた鍵を胸元にしまい、甲斐の山々を見上げた。
白く輝く雪の峰々は、まるで彼の行く手を阻むかのように高くそびえ立っていたが、小太郎の瞳には、すでにその先にある希望の光が映し出されていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

異聞坊ノ岬沖海戦      此れは特攻作戦に非ず

みにみ
歴史・時代
1945年4月 米軍が沖縄へと上陸 日吉台は菊水一号作戦発令 第一航空戦隊旗艦大和率いる第二艦隊は全兵力をもって これを迎撃せんとす 基地航空隊との協力を持ってこれを撃滅せよ

処理中です...