【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第一章:死化粧の虎

第五話:甲斐の隠れ里

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 小太郎は、高坂昌信から託された文箱と、その中に秘められた和歌、そして押し花を胸に、再び甲斐の山中へと分け入った。

 和歌に詠まれた「遠き里」と、押し花の「幻の花」。これらが示す場所こそが、信玄の秘策への次なる手がかりなのだと、小太郎は確信していた。

 雪解けは進んでいるものの、山道は未だ深く雪に閉ざされ、行く手を阻む。だが、小太郎の心には、恵林寺で感じた信玄の「生」の確信と、秘策を解き明かすという使命感が、熱く燃え上がっていた。

 彼は、武田の忍びとして幼き頃より鍛え上げられた知識と経験を総動員し、その「幻の花」が咲く場所を、懸命に特定しようとした。

 忍びの里で学んだ薬草学、植物学の知識を総動員し、小太郎は押し花を繰り返し観察した。その独特な紋様、花びらの形状、そして僅かに残る香りの記憶。それらを丹念に照らし合わせ、かつて教えられた幻の植物の記録を紐解く。

 そして、数日後、彼の脳裏に一つの図が鮮明に浮かび上がった。それは、甲斐の国の中でも特に人里離れた、険しい山奥にのみ自生するとされる、ある希少な薬草の図だった。その薬草の花が、まさに文箱にあった押し花と酷似していたのである。

 その薬草は、古くからその存在が語り継がれてきたものの、発見された記録は数少なく、一部の薬師や、特別な知識を持つ者にしか知られていないとされていた。

 その希少性ゆえに、この薬草が自生する場所は「幻の里」と呼ばれ、地図にも載らぬ隠れた地であるとされてきた。

「ここか……」

 小太郎は、山中に残る僅かな手がかりを頼りに、ひたすら険しい山道を登り続けた。時には、滑り落ちそうな急斜面を這い上がり、時には、凍てつく沢を渡り、雪深い森の中を彷突破していく。

 厳しい自然は、彼の覚悟を試すかのように、行く手を阻んだ。しかし、小太郎は決して諦めなかった。彼の心には、信玄がこの道を、かつて山本勘助と共に歩いたという事実が、勇気を与えていた。

 そして、ようやく、日が傾き始めた頃、小太郎の目に、開けた場所が飛び込んできた。
そこは、周囲を峻厳な山々に囲まれた、まさに隠れ里と呼ぶにふさわしい場所だった。里の入り口には、粗削りな木製の門が据えられ、その脇には、苔むした古い石碑が立っている。石碑には、風雪に晒され、もはや判読できない文字が刻まれていたが、その古びた佇まいが、この里の歴史の深さを物語っていた。

 里の中には、素朴な木造の家々が十数軒ほど点在し、囲炉裏から立ち上る煙が、夕闇に染まり始めた空へと細く伸びていく。家々の庭先には、乾燥させた薬草が吊るされ、独特の香りが微かに漂ってくる。里人の姿は見えないが、人の営みを示す確かな気配がそこにはあった。

 小太郎は、警戒しながらも、静かに里の中へと足を踏み入れた。やがて、一軒の家から、かすかな光が漏れているのを見つけた。小太郎は、その家の戸口で立ち止まり、声をかけるべきか、しばらく躊躇した。しかし、これまでの苦難を思えば、ここで躊躇している場合ではない。彼は意を決して、戸を軽く叩いた。

「ごめんください」

 小太郎の声に、中から年老いた女の声が返ってきた。

「誰かと思えば。こんな雪深い山奥まで、何の用でござるか」

 女の声は、警戒を含んでいた。小太郎は、武田の忍びとしての身分を明かすべきか迷ったが、まずは正直に旅の目的を伝えることにした。

「旅の者ですが、道に迷い、この里にたどり着きました。もしよろしければ、一晩の宿をお借りできぬでしょうか」

 女は、しばらく返事をしなかった。小太郎は、内心で焦りを感じながら、女の返事を待った。やがて、戸がゆっくりと開き、顔の皺が深く刻まれた老婆が、戸口に現れた。その眼差しは、警戒の色を帯びながらも、どこか哀しみを秘めているように見えた。

「旅の者と申すか……。しかし、この里は、滅多に人が訪れることのない場所。そなたの目的は、それだけではあるまい」

 老婆は、小太郎をじっと見据えた。その鋭い眼光に、小太郎は背筋が凍る思いがした。この老婆は、ただの里人ではない。そう直感した。彼は、意を決して、文箱に収められた押し花を取り出し、老婆に見せた。

「実は、この花を探しております。この花が咲く場所を、お知りでございませんか」

 老婆の顔に、驚きと、そして微かな動揺の色が浮かんだ。彼女は、押し花をじっと見つめると、その手がかすかに震えているのが分かった。

「……その花を、どこで手に入れた」

 老婆の声は、先ほどよりもさらに低く、厳しくなった。小太郎は、正直に答えた。

「ある方より、ある方からの手がかりとして、託されました」

 老婆は、再び沈黙した。その沈黙は、小太郎にとって、永遠にも感じられるほど長かった。やがて、老婆は深い溜め息をつくと、小太郎に家の中に入るよう促した。

「中へ入れ。話は、中で聞かせてもらう」

 小太郎は、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、老婆の眼差しは、依然として警戒の色を宿しており、この先に待ち受けるであろう困難を、静かに物語っていた。

 家の中は、想像以上に質素で、中央には囲炉裏が据えられている。火が燃え、湯気が立ち上る。老婆は、小太郎に茶を出すと、再び押し花をじっと見つめた。

「その花は……」

 老婆は、押し花に触れるか触れないかのところで手を止め、遠い目をして語り始めた。

「その花は、『信玄桜』と、この里では呼んでおりまする。かつて、信玄公が、病に倒れられた折に、この里へ身を寄せられ、この花を用いて療養された、と……」

 信玄桜。その言葉に、小太郎の心臓が大きく跳ね上がった。そして、老婆の次の言葉に、小太郎は息を呑んだ。

「かの御方は、ただの病ではなかった。そして、この里で、ある壮大な計画を、水面下で進めておられたのだと……」

 小太郎は、昌信の言葉と、老僧の言葉、そして老婆の言葉が、一本の線で繋がり始めるのを感じた。信玄は、やはり生きていた。そして、この隠れ里こそが、信玄の「最後の秘策」の最初の拠点だったのだ。

 夕闇が迫り、里の家々の灯りが、まるで星のように瞬き始めた。
小太郎の旅は、ようやく、信玄の真意へと繋がる糸口を見つけ出したのだ。この隠れ里で、信玄の生存を知る者が、まだ他にいるのだろうか。そして、信玄がこの地で進めていたという「壮大な計画」とは、一体何なのか。

 小太郎の胸には、新たな謎と、それにも増して強い使命感が、燃え上がっていた。
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