【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第二章:蠢く者たち

第二十一話:京の噂、尾張の警戒

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 美濃の国境での死闘から生還し、遠山景行の砦で療養を終えた小太郎は、心身ともに新たな覚悟を宿していた。

 信玄の深謀遠慮と、その秘策が持つ真の意味を理解した彼は、信玄の「最後の希望」との接触を目指し、尾張の国へと向かう準備を進めていた。

 しかし、その頃、京の都には、まことしやかに武田信玄生存の噂が流れ始めていた。
「信玄が、病で死んだというのは、偽りだという話だ」

 京の町を行き交う商人や町人たちは、ひそひそと囁き合った。その噂は、甲斐や信濃の山奥から、かすかな風に乗って運ばれてきた「残り香」のように、都の人々の間に広まっていった。

 最初は単なる与太話として扱われていたが、信玄の死後に武田家が不可解な動きを見せていること、そして織田信長がその勢いを増す中で、武田の残党が未だ抵抗を続けていることから、徐々に真実味を帯びていく。

 この噂は、瞬く間に織田信長の耳にも入った。尾張の清洲城。信長は、広間の中央に座し、その報せを聞いていた。

「くだらん!甲斐の田舎侍が、病に倒れ、死んだのは事実だ。何を今更、幽霊話など持ち出すか!」

 信長は、感情を露わにすることなく、冷徹な声で一喝した。彼の表情は、一見すると、この噂を一笑に付しているかのようだった。

 信長にとって、信玄は既に過去の存在であり、その死は疑う余地のない事実だった。彼は、自らの天下統一という目標に向かって邁進しており、このような根も葉もない噂に惑わされることはなかった。

 しかし、その場に控えていた明智光秀は、信長の隣で静かにその報告を聞いていた。
光秀の顔には、微かな思案の影が宿っていた。彼は、信長とは異なり、この噂を軽んじてはいなかった。

 光秀は、かつて信玄と接触したことがあり、その深謀遠慮を肌で感じていた。
信玄が、単なる武力に頼るだけの武将ではないことを、光秀は知っていたのだ。彼の心には、ある種の予感があった。

「申し上げます、上様。京の噂、真偽のほどは定かではございませぬが、念のため、甲斐・信濃方面への諜報を強化すべきかと存じます」

 光秀は、静かに信長に進言した。
信長は、光秀の言葉に一瞬だけ視線を向けたが、すぐに興味を失ったかのように、庭の景色に目を移した。

「好きにせよ。だが、無駄骨に終わるなよ、光秀」

 信長の言葉に、光秀は深々と頭を下げた。信長が、この噂を真剣に受け止めていないことを承知の上での、光秀なりの進言だった。光秀は、信長が気にも留めない些細な噂の中に、大きな「綻び」が潜んでいることを嗅ぎ取っていた。

 光秀は、その足で自室へと戻った。
彼は、文机に広げられた地図を広げた。そこには、甲斐、信濃、そして美濃の国々が記されている。
彼の脳裏には、信玄が三方ヶ原の戦いで見せた、常識外れの戦術と、その死の不可解さが蘇っていた。

「信玄公……貴方が本当に生きているとすれば、一体何を企んでおられるのか」

 光秀は、そう呟くと、静かに筆を執った。彼は、配下の間者たちに、甲斐・信濃方面への潜入を命じる文を書き始めた。特に、信玄の遺児が暮らしていたとされる、甲斐の恵林寺周辺の調査を強化するよう指示を出した。

 その頃、小太郎は、景行の砦を後にし、尾張の国へと足を踏み入れていた。
京の都で信玄生存の噂が広がり、織田方の警戒が強まっていることなど、知る由もない。しかし、彼の忍びとしての直感は、否応なく高まる緊張感を察知していた。

 尾張の街道は、美濃以上に人々の往来が激しく、織田の兵士たちの姿も頻繁に見かける。清洲城の城下町は、活気に満ち溢れていたが、その賑わいの裏には、信長が敷いた厳重な監視の目が光っていた。

 小太郎は、旅の行商人として、人々の間に紛れ込んだ。彼は、信玄が残した最後の希望、すなわち「ある人物」との接触を目指して、その人物が潜んでいるという村へと向かっていた。

 京の都では、信玄の生存を巡る噂が、新たな波紋を広げ、明智光秀の独自調査が始まっていた。

 そして、尾張の地では、信玄の秘策の核心へと迫る小太郎が、知らず知らずのうちに、信長の警戒網のただ中に足を踏み入れつつあった。
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