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第六章:本能寺への序曲
第九十八話:安土の楔、光秀への道
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冷たい風が、小太郎の頬を容赦なく打ちつけた。信玄の隠れ処から旅立ち、幾日経ったであろうか。
足元に広がる土の感触は、故郷甲斐のそれとは異なり、どこか乾いて、硬い。織田信長が天下を睥睨する本拠地、安土の空は鉛色に重く、遠くには琵琶湖の鈍色の水面が広がっている。
信玄より下された最後の密命、「楔」の入手。それは、これまでの全ての旅路とは比べ物にならないほど、危険に満ちたものだった。しかし、小太郎の心には微塵の躊躇もなかった。おふうが意識不明の重体で美濃に残り、ルイス・フロイスの手厚い看護を受けていると知って以来、彼の胸に灯ったのは、最早、己の命の重さなど霞んでしまうほどの、ただひたすらな使命感であった。
「この命、惜しむらくはなし……」
荒れた口許で呟いた言葉は、風にかき消され、誰にも届かない。
信玄の言葉が、脳裏にこだまする。
『安土に隠されし最後の「楔」を手に入れよ。それは、この乱世を終わらせるための、まことの「礎」となる。』その言葉の真意を、小太郎はまだ知らない。ただ、信玄の描く泰平の世のために、自らがその礎となる覚悟を胸に秘めていた。
安土城下は、信長が築き上げた壮麗な城郭に見守られ、活気に満ちていた。しかし、その活気は、信長の絶対的な支配のもと、どこか不自然な熱を帯びているように小太郎には感じられた。
警戒は厳重で、城下を行き交う人々は、武士から町人まで、皆どこか張り詰めた表情をしている。間者と思しき者の視線が、時折小太郎の背中を射抜くような錯覚に陥る。
信玄から示された安土城の周囲の地図が、小太郎の脳裏に鮮明に描かれていた。
安土城の真南、琵琶湖を望む高台に位置する古びた社。それが、最後の「楔」の隠し場所だ。
信長によって焼き払われた数多の寺社の中で、奇跡的に残されたその社は、さぞ目立たぬ存在であろうと想像していた。
小太郎は、琵琶湖を望む高台に身を潜め、安土城下を俯瞰した。広大な城下町の喧騒から離れ、ひっそりと佇むその社の姿を、目で追う。
数日間、小太郎は城下を徘徊した。商人、職人、そして寺社の者たち。様々な人々の暮らしに溶け込み、さりげなく情報を集める中で、彼は確かにその社の存在を確認した。それは、信長が最も顧みなかった民の願いが、ひっそりと息づく場所。
信玄の言葉通り、信長は武力による統一を目指すばかりで、民が抱く静かな「祈り」には、目もくれようとしなかったのだ。
ある夜、小太郎は、その古びた社にたどり着いた。ひっそりと佇むその社の前で、一人の老人が静かに祈りを捧げている。
「爺様、何を拝んでおられるのですか?」
小太郎が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。その顔には深い皺が刻まれ、厳しい世を生き抜いてきた者の強さが滲んでいた。
「わしか? わしはただ、この社に祀られし神に、泰平の世を願っておるだけじゃ。この安土の地が、真に安らかな土となる日をな……」
老人の言葉に、小太郎の胸に一条の光が射した。安土の地が「安らかな土」となる日。信玄が目指す泰平の世と、老人の願いが重なる。信玄がこの社を最後の「楔」の場所として選んだ意味を、改めて悟った。
翌日、小太郎は再びその社を訪れた。
老人はもういなかったが、小太郎は社の中を注意深く見回した。
信玄が残した和歌の暗号を思い出し、社殿の柱や祭壇の裏を丹念に調べていく。
やがて、埃を被った祭壇の裏に、かすかな窪みがあることに気づいた。そこに手を差し入れると、ひんやりとした感触と共に、硬い木箱が指先に触れた。
木箱を開けると、中には小さな石の像が納められていた。それは、土に深く根を張り、天に向かって力強く枝を伸ば*大樹の姿を模したものであった。
これまで手に入れてきた「楔」とは異なるが、その重みと手触りは、確かに信玄が残した「楔」であると小太郎に告げていた。
像を握りしめると、なぜか小太郎の心に、これまで感じたことのない温かな光が灯る。それは、信玄の深い願いが、この石像に込められていることを示唆しているようだった。
「これで……最後か……」
小太郎は、安土の空を見上げた。
これで信玄の命は果たした。
後は信玄の元へ戻り、この「楔」を届けるのみ。
その頃、遠く美濃の地では、ルイス・フロイスの献身的な看護と、おふうの類稀な回復力により、彼女の命の灯火は奇跡的に再び強く燃え始めていた。
長く閉ざされていた瞳が、ゆっくりと光を宿し、静かに開かれる。
「小太郎……」
弱々しい声で、愛する者の名を呼ぶ。
その声は、まだ掠れていたが、確かな意志が宿っていた。
おふうは、まだ小太郎が安土へ向かっていることも、彼が死の淵を彷徨いながら最後の「楔」を手に入れたことも知らない。
しかし、彼女の心は、遠く離れた地で奮闘する小太郎の無事を、強く願っていた。
そして、彼女自身もまた、この乱世に抗うための、新たな力を得ようとしていた。
足元に広がる土の感触は、故郷甲斐のそれとは異なり、どこか乾いて、硬い。織田信長が天下を睥睨する本拠地、安土の空は鉛色に重く、遠くには琵琶湖の鈍色の水面が広がっている。
信玄より下された最後の密命、「楔」の入手。それは、これまでの全ての旅路とは比べ物にならないほど、危険に満ちたものだった。しかし、小太郎の心には微塵の躊躇もなかった。おふうが意識不明の重体で美濃に残り、ルイス・フロイスの手厚い看護を受けていると知って以来、彼の胸に灯ったのは、最早、己の命の重さなど霞んでしまうほどの、ただひたすらな使命感であった。
「この命、惜しむらくはなし……」
荒れた口許で呟いた言葉は、風にかき消され、誰にも届かない。
信玄の言葉が、脳裏にこだまする。
『安土に隠されし最後の「楔」を手に入れよ。それは、この乱世を終わらせるための、まことの「礎」となる。』その言葉の真意を、小太郎はまだ知らない。ただ、信玄の描く泰平の世のために、自らがその礎となる覚悟を胸に秘めていた。
安土城下は、信長が築き上げた壮麗な城郭に見守られ、活気に満ちていた。しかし、その活気は、信長の絶対的な支配のもと、どこか不自然な熱を帯びているように小太郎には感じられた。
警戒は厳重で、城下を行き交う人々は、武士から町人まで、皆どこか張り詰めた表情をしている。間者と思しき者の視線が、時折小太郎の背中を射抜くような錯覚に陥る。
信玄から示された安土城の周囲の地図が、小太郎の脳裏に鮮明に描かれていた。
安土城の真南、琵琶湖を望む高台に位置する古びた社。それが、最後の「楔」の隠し場所だ。
信長によって焼き払われた数多の寺社の中で、奇跡的に残されたその社は、さぞ目立たぬ存在であろうと想像していた。
小太郎は、琵琶湖を望む高台に身を潜め、安土城下を俯瞰した。広大な城下町の喧騒から離れ、ひっそりと佇むその社の姿を、目で追う。
数日間、小太郎は城下を徘徊した。商人、職人、そして寺社の者たち。様々な人々の暮らしに溶け込み、さりげなく情報を集める中で、彼は確かにその社の存在を確認した。それは、信長が最も顧みなかった民の願いが、ひっそりと息づく場所。
信玄の言葉通り、信長は武力による統一を目指すばかりで、民が抱く静かな「祈り」には、目もくれようとしなかったのだ。
ある夜、小太郎は、その古びた社にたどり着いた。ひっそりと佇むその社の前で、一人の老人が静かに祈りを捧げている。
「爺様、何を拝んでおられるのですか?」
小太郎が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。その顔には深い皺が刻まれ、厳しい世を生き抜いてきた者の強さが滲んでいた。
「わしか? わしはただ、この社に祀られし神に、泰平の世を願っておるだけじゃ。この安土の地が、真に安らかな土となる日をな……」
老人の言葉に、小太郎の胸に一条の光が射した。安土の地が「安らかな土」となる日。信玄が目指す泰平の世と、老人の願いが重なる。信玄がこの社を最後の「楔」の場所として選んだ意味を、改めて悟った。
翌日、小太郎は再びその社を訪れた。
老人はもういなかったが、小太郎は社の中を注意深く見回した。
信玄が残した和歌の暗号を思い出し、社殿の柱や祭壇の裏を丹念に調べていく。
やがて、埃を被った祭壇の裏に、かすかな窪みがあることに気づいた。そこに手を差し入れると、ひんやりとした感触と共に、硬い木箱が指先に触れた。
木箱を開けると、中には小さな石の像が納められていた。それは、土に深く根を張り、天に向かって力強く枝を伸ば*大樹の姿を模したものであった。
これまで手に入れてきた「楔」とは異なるが、その重みと手触りは、確かに信玄が残した「楔」であると小太郎に告げていた。
像を握りしめると、なぜか小太郎の心に、これまで感じたことのない温かな光が灯る。それは、信玄の深い願いが、この石像に込められていることを示唆しているようだった。
「これで……最後か……」
小太郎は、安土の空を見上げた。
これで信玄の命は果たした。
後は信玄の元へ戻り、この「楔」を届けるのみ。
その頃、遠く美濃の地では、ルイス・フロイスの献身的な看護と、おふうの類稀な回復力により、彼女の命の灯火は奇跡的に再び強く燃え始めていた。
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「小太郎……」
弱々しい声で、愛する者の名を呼ぶ。
その声は、まだ掠れていたが、確かな意志が宿っていた。
おふうは、まだ小太郎が安土へ向かっていることも、彼が死の淵を彷徨いながら最後の「楔」を手に入れたことも知らない。
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