【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』

月影 朔

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第一部:長屋の日常と奇妙な事件の始まり

第一話:天井裏の福の神

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 江戸の長屋は生きている。朝の目覚めから夜の帳が下りるまで、人の声、物の音、季節の匂いが常に満ちている。狭いながらも、そこには互いの暮らしが息づき、困りごとがあれば誰かが声をかける、そんな人情の機微が息づいていた。

 今朝、その長屋に張り詰めた空気が漂っていた。

「ない! どこにもないんだよ!」

 奥屋敷のおよね婆さんの悲鳴が、長屋中に響き渡る。心配してお絹が駆けつけると、およね婆さんは蒼白な顔で、震える手を見せた。

「お絹ちゃん、大変だよ! あの一番大事にしてる、七福神のお福さんの木彫り、宝箱に仕舞って鍵までかけたのに、跡形もなく消えちまったんだ!」

 およね婆さんの宝箱は、古びた木箱に簡素な留め金がついただけのもの。戸棚も隙間だらけだ。だが、彼女にとっては全財産に等しい宝であり、心の支えだった。集まってきた長屋の人々は、「鍵を壊されたのか?」「盗賊か?」と口々に言うが、部屋はどこも荒らされておらず、鍵もかかったままだった。まるで、お福さんだけが煙のように消えたかのようだ。
「こりゃあ、狐狸の仕業かねえ…」「天狗に隠されたのか…」と、詮索好きな連中が囁き始める。

「ふむ…密室からの物体消失、興味深い。物理法則への挑戦か…」

 騒ぎの中心から少し離れた場所で、甚兵衛が奇妙な道具を手に呟いた。その道具は、幾つもの歯車と複雑なアームが組み合わさった、奇妙な形の機械だ。今日は何を発明しているのか。

「甚兵衛さん! そんなことしてる場合じゃありませんって! およね婆さんの大事な物が消えちまったんです!」

 お絹が駆け寄ると、甚兵衛は怪訝な顔をした。
「む、お絹か。これはな、『自動で干物を裏返すからくり』の試作品だ。日光と風向きを感知して…」

「干物どころじゃないんです! 大事な福の神が消えたんです! 見てくださいよ、この通り、部屋は閉まったまま、鍵もかかってるのに…」

 甚兵衛は、お絹に連れられておよね婆さんの部屋を見た。彼は騒ぐ人々には目もくれず、部屋の中をゆっくりと見回る。畳の僅かな凹み、壁の煤の薄れ方、戸棚の取っ手の微細な傷、宝箱の留め金についたほとんど見えない指紋…彼の鋭い観察眼は、普通の人が見落とすほんの小さな「痕跡」を捉えていく。

「確かに、無理にこじ開けた形跡はない。だが、触れられた痕跡はあるな」甚兵衛は、宝箱の留め金を指先でなぞりながら言った。「問題は、どうやって閉じられた部屋の中から外へ出たか、だ」

 その日の夕暮れ時、驚くべきことが起こった。

 長屋の共同炊事場の上、屋根を支える太い梁の上に、小さなお福さんの木彫りがチョコンと乗っていたのだ。朝、あれだけ探してもなかったものが、なぜかこんな場所に。梁は人の手が簡単に届く高さではない。しかも、盗まれたはずの物が、賊が置き忘れたにしてはあまりに不自然な形で戻ってきた。

「やっぱり狐狸だ!」「天狗様のお返しに違えねえ!」

 今度こそ長屋中の人々が騒然となり、甚兵衛の部屋の前にも人が集まってきた。

 甚兵衛は、梁の上の木彫りを、いつになく真剣な表情で見上げていた。彼の思考は、既に超常現象ではなく、それを可能にした「からくり」に移っている。

「甚兵衛さん、あんな高いところに、どうやって…」お絹が呟く。

「物理的に考えられる方法はいくつかある。登る、放り投げる、そして…何らかの道具で持ち上げる、あるいは誘導する」甚兵衛は考え込む。

「登った形跡は井戸の周りにもない。放り投げるには、軽すぎるし、狙い通りに乗せるのは難しい。ならば、道具だ」

 甚兵衛は言った。「あそこへ正確に物を置くには、特定の角度と力、そしてそれを操る仕組みが必要になる。まるで…そう、あの『遠隔操作式把握器』の応用だな」

 甚兵衛は立ち上がると、自分の部屋へ戻り、ゴソゴソと何かを引っ張り出してきた。それは、長い竹竿に、複雑な関節を持つアームと、それを手元のレバーで操作する仕組みがついた、奇妙な「掴み棒」のようなからくりだった。

「これを使えば、地上からでも、梁のような高い場所に物を置くことが理論上は可能だ」

 甚兵衛は長屋の空き地で、そのからくりを使って実演を始めた。ぎこちない動きではあったが、アームは甚兵衛の操作に合わせて曲がり、先端の掴み部分が正確に的(梁の上の位置に見立てた竹筒)を捉え、持たせた石を置くことができた。

「すげえ!」「こんなからくりが!」集まった人々から驚きの声があがる。

「つまり、お福さんをあそこに置いた犯人は、これに似た仕掛けを使ったということかい?」お絹が尋ねた。

「その可能性が高い」甚兵衛は頷いた。「そして、このような仕掛けを作る、あるいは扱うのに慣れている人間…」

 そこで、お絹が集めてきた情報が活きた。最近、権助という若い紙張り職人が、親方から借金をして困っているらしい、という話。権助は日頃から長い竿や糊付けの刷毛を扱い、高い場所での作業にも慣れている。

「権助さんだわ! 権助さんなら、長い竿の扱いは手慣れてるし、自分で道具を工夫することも…!」お絹は閃いた。

 甚兵衛は、お絹の情報を聞きながら、部屋に残された微細な痕跡と、権助の仕事道具、そして「遠隔操作式把握器」の仕組みを頭の中で重ね合わせた。

「そうだ。権助が使ったのは、私のものほど複雑ではないだろう。おそらく、竹竿と簡単な滑車、そして彼の仕事で使う糊と、お福さんの底に塗った微量の油…」甚兵衛は、権助が使ったであろうトリックの「からくり」を解き明かしていった。

 真相はこうだった。権助は金に困り、出来心でおよね婆さんの留守中に鍵を細工して部屋に入り、お福さんを盗んだ。しかしすぐに罪悪感に苛まれ、質に入れることも返すこともできず、途方に暮れた。そこで彼は考えた末、自分の仕事で使う長い竹竿に糸と簡単な仕掛けをつけ、夜陰に乗じて梁の上に置いたのだ。そうすれば、誰かが気づいてくれるだろうし、盗んだのは自分だと特定されにくいと考えたのだ。お福さんの底に塗った僅かな油は、仕掛けから滑り落ちにくくするための工夫だった(そして、甚兵衛はそれを見抜いた)。

 甚兵衛は、権助の部屋へ向かい、彼の仕事道具の中にある「証拠」と、この「からくり」トリックについて問い詰めた。権助は観念し、全てを白状した。

 およね婆さんは、お福さんが無事に戻ってきたことに安堵し、そして権助の情けない動機を聞いて、涙ながらに彼を許した。「馬鹿だねえ…本当に馬鹿な子だよ…」長屋の人々も、権助を厳しく叱りながらも、彼の根っからの正直さを知っていたため、最後は皆でため息をつきつつも、彼を温かく見守った。事件は、捕物ではなく、人情の解決を見たのだ。

「やれやれ、騒動の終わりはいつもこうして人情沙汰か」お絹は微笑んだ。

「奇妙な事件の背後には、たいてい複雑な人情という名のからくりが隠されているものだ」甚兵衛は、自分の「遠隔操作式把握器」を片付けながら答えた。

 今回は、甚兵衛の発明品そのものが事件を解決したわけではない。だが、彼が作った奇妙な「からくり」が、犯人が使ったトリックの仕組みを証明し、真相へと導く決定的な鍵となったのだ。

 長屋に、いつもの賑わいが戻ってきた。お福さんはおよね婆さんの元へ帰り、権助も長屋の人々の温かさに包まれている。甚兵衛はといえば、また次のからくり作りに取り掛かっているようだ。

 お絹は、そんな甚兵衛の背中を眺めながら思う。このからくり長屋には、まだまだ奇妙な事件が転がっているだろう。そして、その隣には、誰も思いつかない方法でそれを解き明かす、一人の発明家がいる。彼の抱える過去の謎や、これから起こるかもしれない大きな出来事について、今はまだ何も知る由もないけれど。
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