【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』

月影 朔

文字の大きさ
38 / 64
第三部:過去との対峙と陰謀の露見

第三十八話:絶望の淵からの道

しおりを挟む
 水路の隠し扉が、重い音を立てて閉ざされた。彼らの知る唯一の脱出ルートが断たれたのだ。甚兵衛とお絹は、閉ざされた扉の前で立ち尽くす。背後からは、地下迷宮に響く、追跡者たちの足音と怒号が容赦なく迫ってくる。

「そんな…嘘ですい…!」

 お絹が、震える声で呟いた。希望が、一瞬にして絶望へと変わった。行き止まり。そして、敵はすぐそこまで来ている。

「罠だ…奴らは、我々がここへ逃げると読んでいた」

 甚兵衛の顔は蒼白だ。しかし、瞳にはまだ光が宿っている。諦めるわけにはいかない。ここで捕まれば、全てが終わる。江戸も、長屋も、そして辰五郎も…

 時間は無い。追跡者は、この通路のすぐ近くまで来ている。甚兵衛は、お絹の手を引き、通路の脇にある小さな窪みに身を隠した。埃っぽく、狭い場所だ。外を、追跡者たちの足音が通り過ぎていく。彼らは、扉が閉ざされたことに気づいているだろう。おそらく、応援を呼んで、扉の前を固めるはずだ。

 追跡者たちが扉の前に集結する音が聞こえる。怒号が飛び交う。彼らは、甚兵衛とお絹が扉の前で立ち往生していると考えているはずだ。

「逃げ道を探すぞ! ここ以外に、奴らの知らない道があるはずだ!」

 甚兵衛は囁いた。彼の過去の知識が、非常時の思考を加速させる。どんな地下拠点にも、非常用の排水路、あるいは換気孔など、正規の出入り口ではない「抜け道」が存在する可能性がある。特に、この拠点が水路に関係しているなら、水の流れに関わる通路があるかもしれない。

 甚兵衛は、懐から探知からくりを取り出し、壁や床、天井を調べ始めた。壁の向こうの音、構造の僅かな違い、空気の流れ…どんな微細な手掛かりも見逃さない。お絹もまた、彼の傍らで、手探りで壁を調べたり、僅かな音にも耳を澄ませたりする。二人の協力は、この絶望的な状況下で唯一の希望だ。

 探知からくりが、壁の一部で微かな反応を示した。他の場所とは違う、僅かに空洞のような響き。甚兵衛は、そこに近づき、さらに念入りに調べる。壁の石組みが、他の場所と違う。

「ここだ…」

 甚兵衛の顔に、僅かな希望の光が灯った。この壁の向こうに、何か別の空間がある。それが抜け道かどうかは分からない。しかし、試す価値はある。

 しかし、時間がない。扉の前を固めていた追跡者たちが、こちらへ向かってくる気配がする。捜索範囲を広げ始めたのだ。

「来るぞ!」

 お絹が声を上げる。足音が近づいてくる。壁の向こうを調べる時間はもうない。

 甚兵衛は決断した。彼は、懐から最後の破壊用からくり(小型の火薬や、特定の素材を溶かす薬品を噴射するものなど)を取り出した。狙いは、あの壁の、響きが違う部分だ。

「離れていろ、お絹!」
 甚兵衛は叫び、壁にからくりを起動させた。

 ドォン!という炸裂音、あるいはジュワァァという化学反応の音と共に、壁の一部が崩壊した。石や煉瓦が飛び散り、向こう側に、暗く狭い穴が現れる。それは、人の身体が辛うじて通れるほどの大きさだ。向こうからは、水の流れる音が聞こえる。

 爆音を聞きつけ、追跡者たちが一斉にこちらへ向かってくる。

「行くぞ!」

 甚兵衛はお絹の手を取り、崩れた穴へと飛び込んだ。後から、追跡者たちの怒号が響く。彼らは、まさか壁を破って別の道へ逃げるとは思っていなかったのだろう。

 穴の中は、予想通り排水路らしかった。暗く、水が流れ、悪臭が漂っている。狭く、這うように進まなければならない。しかし、追跡者たちの足音は聞こえなくなった。彼らは、この狭い排水路には易々とは入ってこれないだろう。

 絶望の淵で、甚兵衛は新たな活路を見出した。水路の隠し扉は閉ざされたが、排水路という、予想外の「抜け道」を見つけたのだ。ここが、地上へ繋がっているかは分からない。さらに危険な場所へ出る可能性もある。しかし、地下迷宮で捕まるよりはましだ。

 闇の中、二人は手を取り合い、冷たい水の中を這うように進んでいく。背後からは、まだ追跡者が諦めていない気配がする。出口はどこか。地上へ無事に戻れるのか。

 新たな、そして未知の脱出劇が始まった。地下要塞からの生還をかけた戦いは、排水路という、より深く暗い闇へと続いていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

高遠の翁の物語

本広 昌
歴史・時代
時は戦国、信州諏方郡を支配する諏方惣領家が敵に滅ぼされた。 伊那郡高遠の主、諏方頼継は惣領家家族のうち、齢十一歳の姫君を、ひょんなことから保護できた。 頼継は豪傑でもなければ知将でもない。その辺の凡将だろう。 それでも若き姫を守りながら、滅びた惣領家の再興を叶えるため、死に物狂いで強大な敵に立ち向かっていく歴史物語。

十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)
歴史・時代
天明三年――浅間山が火を噴いた。 神の怒りに触れたかのように、黒い灰は空を塞ぎ、郷も田畑も人の営みも、容赦なく呑み込んでいく。噴火と飢饉が藩を蝕み、救いを求める声の裏で、名もなき影が蠢いた。灰の夜を踏むのは、血も温もりも失った“黒屍人”。誰が、何のために――。 その災厄に呼応するように、忍びの郷に封じられていた「十二輝の干支の珠」が、ひとつ、またひとつと眠りから解かれる。 珠は器を選び、器は力に喰われ、力は人を裏返す。 伊賀と甲賀の長い因縁、奪われる珠、引き裂かれる同胞。 そして、灰の国で拾い集められていく十二の輝きが揃う時、世界の秩序そのものが――動き出す。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

江戸情話 てる吉の女観音道

藤原 てるてる 
歴史・時代
この物語の主人公は、越後の百姓の倅である。 本当は跡を継いで百姓をするところ、父の後釜に邪険にされ家を出たのであった。 江戸に出て、深川で飛脚をして渡世を送っている。 歳は十九、取り柄はすけべ魂である。女体道から女観音道へ至る物語である。 慶応元年五月、あと何年かしたら明治という激動期である。 その頃は、奇妙な踊りが流行るは、辻斬りがあるはで庶民はてんやわんや。 これは、次に来る、新しい世を感じていたのではないのか。 日本の性文化が、最も乱れ咲きしていたと思われるころの話。 このてる吉は、飛脚であちこち街中をまわって、女を見ては喜んでいる。 生来の女好きではあるが、遊び狂っているうちに、ある思いに至ったのである。 女は観音様なのに、救われていない女衆が多すぎるのではないのか。 遊女たちの流した涙、流せなかった涙、声に出せない叫びを知った。 これは、なんとかならないものか。何か、出来ないかと。 ……(オラが、遊女屋をやればええでねえか) てる吉は、そう思ったのである。 生きるのに、本当に困窮しとる女から来てもらう。 歳、容姿、人となり、借金の過多、子連れなど、なんちゃない。 いつまでも、居てくれていい。みんなが付いているから。 女衆が、安寧に過ごせる場を作ろうと思った。 そこで置屋で知り合った土佐の女衒に弟子入りし、女体道のイロハを教わる。  あてがって来る闇の女らに、研がれまくられるという、ありがた修行を重ねる。 相模の国に女仕入れに行かされ、三人連れ帰り、褒美に小判を頂き元手を得る。 四ツ谷の岡場所の外れに、掘っ立て小屋みたいな置屋を作る。  なんとか四人集めて来て、さあ、これからだという時に…… てる吉は、闇に消えたのであった。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...