【完結】『江戸一番の菓子屋と嘘つき娘』

月影 朔

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第一部:春告鳥の日常と最初の試練

第二話:江戸一番の餡と父の教え

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 春告鳥の朝は早い。まだ町が静けさに包まれているうちから、父、卯之助は工房に籠もり、菓子作りの準備を始める。

 火を起こし、釜に小豆を入れ、水加減を調整する。その一連の動きには、寸分の迷いもない。長年培われた職人の技と、小豆という素材への深い理解、そして何よりも菓子に対する真摯な心が宿っているかのようだ。

 おみえは、父の仕事ぶりを傍らで見守るのが好きだった。工房から聞こえてくる、火がぜぜっと燃える音、小豆が煮えるぽつぽつという音、そして父が静かに餡を練る時の、しゃり、しゃりという音。 それらは、おみえにとって子守唄のような、安心できる音だった。

 中でも、父が餡子を練る姿は、何度見ても見飽きることがなかった。湯気の立ち込める工房で、大きな銅鍋に向き合い、木べらで餡子を練り続ける父の背中。その背中からは、単なる作業ではない、何か尊いものを作り上げているかのような気迫が伝わってきた。 

 父は、まるで生き物と対話するかのように、餡子の状態を確かめ、根気強く練り上げていく。

 「餡子はな、機嫌があるんだ。」
 父はそう言ったことがある。

 「その日の天気、小豆の具合、火の強さ…少しでも油断すると、すぐに拗ねちまう。だから、いつも心を込めて、声をかけてやらんと、美味い餡子にはなってくれねぇんだ。」

 その言葉を聞いた時、幼いおみえには難しくてよく分からなかった。だが、父の真剣な眼差しと、出来上がった餡子の、吸い込まれるような美しい艶と、優しい甘さを知るにつれて、「機嫌」や「声」というのは、きっと父の「心」のことなのだろうと思うようになった。

 卯之助の作る餡子は、江戸中で評判だった。雑味がなく、小豆本来の風味が生きているのに、舌触りは驚くほどなめらか。甘さは上品で、一つ食べるともう一つ、と手が伸びてしまう。その餡子を使った大福や団子、最中などは、どれも絶品だった。

 店の開店時間になると、すぐに客が押し寄せてくる。皆、口々に卯之助の菓子を褒め称えた。

 「旦那さん、今日の豆大福も最高だね!この餡子、どうやったらこんな味が出るんだい?」

 「春告鳥さんの最中を食べると、嫌なことも忘れちまう。魔法みたいだねぇ。」

 「この季節の桜餅も格別だよ。餡子の甘さと桜葉の塩梅が、見事なもんだ。」

 客たちの笑顔と感謝の言葉を聞くたびに、おみえは誇らしい気持ちになった。そして、自分を育ててくれた父の、菓子職人としての偉大さを改めて感じた。

 おみえは、店の仕事を手伝う傍ら、父に菓子作りを教えてもらうこともあった。父は、普段は寡黙だが、菓子作りのこととなると、一つ一つの工程の意味や、素材への敬意を丁寧に教えてくれた。

 「おみえ、餡子を練る時は、焦っちゃいけねぇ。火が強すぎてもいけねぇし、弱すぎてもいけねぇ。鍋の底に餡子がくっつかないように、優しく、でもしっかりと練るんだ。」

 父は、おみえの手を取り、木べらの動かし方を教えてくれた。父の手は、大きな節くれだった職人の手だったが、餡子に触れる時は驚くほど優しかった。

 ある日、おみえが餡子を練っていると、少し焦げ付かせてしまった。失敗してしまい、しょんぼりするおみえに、父は怒るでもなく、静かに言った。

 「失敗は誰にでもある。大事なのは、失敗から何を学ぶかだ。そして…」

 父は、おみえの顔をまっすぐ見て、続けた。

 「そして、何よりも、食べる人のことを思う心だ。」

 おみえは、はっとした。

 父は、技術的なことだけでなく、「心」の大切さを常に語っていた。それは、単なる精神論ではない。客に喜んでもらいたい、美味しいと思ってもらいたいという強い願いが、素材への向き合い方や、丁寧な仕事ぶりに繋がるのだと、父の背中が教えてくれていた。

 「菓子は、ただ甘ければ良いってもんじゃない。腹を満たすだけのものでもない。食べた人の心が、ほんの少しでも温かくなるような、笑顔になるような、そんな菓子を作りなさい。」

 父の言葉が、おみえの心に深く染み込んだ。

 (そうか…お父さんの菓子が、どうしてこんなに人の心を打つのか、少し分かった気がする。)

 父の菓子は、技術だけではない。そこには、父の温かい心、人を思いやる気持ちが、たっぷりと込められていたのだ。

 おみえは、自分が拾われた子であるという秘密を知ってから、この家に、この両親に、そしてこの春告鳥という店に、どれほど恩があるかを常に意識してきた。その恩に報いるためには、何ができるだろうか。金銭的なことだけでなく、何かもっと大切なことで、両親を幸せにしたい。

 父の菓子作りを間近で見、その教えを聞くにつれて、おみえの恩返しへの想いは、具体的な形を帯びてきた。父が命を懸けて守ってきたこの春告鳥を、自分が守り抜くこと。

 そして、父のように、食べる人の心を温かくする菓子を作れる一人前の職人になること。それが、おみえにとって、何よりも大切な恩返しなのだと確信するようになった。

 (お父さん、お母さん…私が、この春告鳥を守る。そして、いつかお父さんみたいな、心のある菓子職人になって、たくさんの人を笑顔にしてみせる。)

 心の中で、おみえは改めて誓いを立てた。

 しかし、そんな穏やかな日常の中に、おみえはかすかな影を感じ取っていた。それは、父の体調のことだ。以前よりも疲れやすい様子や、時折出る深い咳。父は大丈夫だと言うが、おみえには心配でならなかった。江戸一番の菓子職人である父が、もしこのまま病に倒れてしまったら…。 

 春告鳥は、一体どうなってしまうのだろうか。

 まだ具体的な危機は訪れていない。春告鳥の日常は、穏やかに流れている。

 だが、おみえの心には、父への深い愛情と尊敬、恩返しへの強い願い、そして、いつか来るかもしれない別れや店の危機への、漠然とした不安が混じり合っていた。
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