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第一部:春告鳥の日常と最初の試練
第三話:父、倒れる。店の灯火揺らぐ
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穏やかな日常は、音もなく崩れていくものなのかもしれない。
父、卯之助の体調がすぐれないことは、おみえの小さな心配の種だった。時折出る咳や、以前より疲れやすい様子に、母のおたきも気づいていたはずだ。
しかし、二人とも、父が大丈夫だと言えば、それ以上深くは追及しなかった。江戸一番の菓子職人として、常に気を張り詰めている父を、これ以上心配させたくないという思いもあったのかもしれない。
だが、その日は、いつもと違った。
朝早くから工房に入った父が、いつまで経っても出てこない。いつもなら、開店までにはその日の菓子の仕込みを終えているはずなのに、工房からは何の音も聞こえてこないのだ。
心配になったおみえがおそるおそる戸を開けると、父は、銅鍋にもたれかかるようにして座り込み、苦しそうに呼吸をしていた。顔色は真っ青で、額には冷たい汗が滲んでいた。
「お父さん!」
おみえは慌てて駆け寄った。おたきも、ただならぬ気配に気づき、駆けつけてくる。
「あなた!どうしたの!」
おたきは父の体を支え、優しく問いかけた。父は、かすれた声で「大丈夫だ…少し、眩暈が…」と呟いたが、その手は震え、とても大丈夫そうには見えなかった。
すぐに医者を呼んだ。医者は父の脈を取り、顔色をじっと見つめた後、難しい顔で首を振った。
「これは…長年無理を重ねてきたお疲れが、一気に噴き出したのでしょう。心臓に大きな負担がかかっています。すぐに菓子作りなどはおやめなさい。しばらくは、安静にして養生する他ありません。」
医者の言葉に、おみえもおたきも息を呑んだ。菓子作りをやめる? それは、父にとって生きがいそのものだ。そして、春告鳥にとって、命綱だ。
「先生…どれくらいで、また、仕事に…」
おたきが震える声で尋ねた。医者は再び首を振る。
「分かりません。良くなるには、かなりの時間がかかるでしょう。もしかしたら…」
医者はそこまで言って言葉を濁したが、その表情から、事態の深刻さはおみえたちにも十分伝わった。父が、もう以前のように菓子を作れなくなるかもしれない。その現実が、おみえの頭を真っ白にさせた。
その日から、春告鳥の日常は一変した。
父は、床に伏せることが多くなった。時折、工房の方を見ては、何かをこらえるような、寂しそうな表情をする。おたきは、父の看病と店の切り盛りに追われ、休む暇もなくなった。
そして、店の最も大切な部分が、静かに止まってしまった。卯之助にしか作れない、あの特別な餡子だ。
父が倒れてから、春告鳥の棚に並ぶ菓子は、日を追うごとに減っていった。
今まで当たり前のようにあった、艶やかな餡子の豆大福、ふっくらとした団子、香ばしい最中…それらが姿を消していく。代わりに並ぶのは、おたきが手伝いながら作った、形は似ていても、どこか精彩を欠いた菓子ばかりだ。
おみえも手伝ったが、まだ父から基本的なことしか教わっておらず、あの味を再現することなど、到底できなかった。
店の雰囲気も変わってしまった。以前は、活気があり、甘い香りと客たちの笑顔で満ち溢れていた店内が、今はどこかひっそりとしている。甘い香りも薄れ、寂しげな空気が漂っている。
その変化に、客たちも気づいた。
「おや、今日は豆大福がないのかい?」
「旦那さんの具合はどうなんだい?」
「どうしたんだい、春告鳥さん。なんだか元気がないじゃないか。」
常連客は心配して声をかけてくれたが、彼らの表情にも戸惑いが見えた。そして、新しい客は、店の前を通り過ぎていくだけになった。活気を失った店に、誰も引き寄せられないのだ。
客足は目に見えて減っていった。
一日に売れる菓子の数は、以前の半分以下になった。店の売上は激減し、仕入れに回せる金も心許なくなってくる。
母のおたきは、夜遅くまで帳簿をつけながら、ため息をつくことが増えた。
おみえは、そんな店の様子を見ているのが、つらくて仕方がなかった。自分が、何もできないことが、歯がゆくて、情けなくて、悔しかった。父に恩返しをするどころか、自分はただ、この温かい家に居候しているだけで、何の役にも立てていないのではないか。むしろ、足手まといになっているのではないか。そんな思いが、おみえの心を蝕んでいく。
夜、父の寝息を聞きながら、おみえは一人、父の工房に忍び込んだ。昼間とは違う、ひっそりとした工房。使い慣れた道具たちが、静かに佇んでいる。いつもなら、父の情熱と、菓子作りの温かい熱気に満ちているはずの場所が、今は冷たい空気に包まれているかのようだ。
銅鍋に触れる。ひやりとしている。ここに、父の温かい手が触れることは、もうないのだろうか。おみえは、鍋に額をつけ、ぎゅっと目を閉じた。
(どうしよう…お父さん…お母さん…この店が…)
恩返しをしたいと願っていた。父のような菓子職人になりたいと誓っていた。でも、その願いは、父が倒れてしまった今、叶えられない夢になってしまったのかもしれない。
店は、このまま廃れていってしまうのだろうか。父と母が、大切に守ってきた春告鳥は、このまま灯火が消えてしまうのだろうか。
おみえの心に、真っ暗な絶望が忍び寄ってきた。今まで感じたことのない、深い無力感と、どうすることもできない悲しみ。
物語は、おみえの意志とは関係なく、困難な坂道を転がり落ち始めた。
春告鳥の灯火は、今、大きく揺らいでいた。
父、卯之助の体調がすぐれないことは、おみえの小さな心配の種だった。時折出る咳や、以前より疲れやすい様子に、母のおたきも気づいていたはずだ。
しかし、二人とも、父が大丈夫だと言えば、それ以上深くは追及しなかった。江戸一番の菓子職人として、常に気を張り詰めている父を、これ以上心配させたくないという思いもあったのかもしれない。
だが、その日は、いつもと違った。
朝早くから工房に入った父が、いつまで経っても出てこない。いつもなら、開店までにはその日の菓子の仕込みを終えているはずなのに、工房からは何の音も聞こえてこないのだ。
心配になったおみえがおそるおそる戸を開けると、父は、銅鍋にもたれかかるようにして座り込み、苦しそうに呼吸をしていた。顔色は真っ青で、額には冷たい汗が滲んでいた。
「お父さん!」
おみえは慌てて駆け寄った。おたきも、ただならぬ気配に気づき、駆けつけてくる。
「あなた!どうしたの!」
おたきは父の体を支え、優しく問いかけた。父は、かすれた声で「大丈夫だ…少し、眩暈が…」と呟いたが、その手は震え、とても大丈夫そうには見えなかった。
すぐに医者を呼んだ。医者は父の脈を取り、顔色をじっと見つめた後、難しい顔で首を振った。
「これは…長年無理を重ねてきたお疲れが、一気に噴き出したのでしょう。心臓に大きな負担がかかっています。すぐに菓子作りなどはおやめなさい。しばらくは、安静にして養生する他ありません。」
医者の言葉に、おみえもおたきも息を呑んだ。菓子作りをやめる? それは、父にとって生きがいそのものだ。そして、春告鳥にとって、命綱だ。
「先生…どれくらいで、また、仕事に…」
おたきが震える声で尋ねた。医者は再び首を振る。
「分かりません。良くなるには、かなりの時間がかかるでしょう。もしかしたら…」
医者はそこまで言って言葉を濁したが、その表情から、事態の深刻さはおみえたちにも十分伝わった。父が、もう以前のように菓子を作れなくなるかもしれない。その現実が、おみえの頭を真っ白にさせた。
その日から、春告鳥の日常は一変した。
父は、床に伏せることが多くなった。時折、工房の方を見ては、何かをこらえるような、寂しそうな表情をする。おたきは、父の看病と店の切り盛りに追われ、休む暇もなくなった。
そして、店の最も大切な部分が、静かに止まってしまった。卯之助にしか作れない、あの特別な餡子だ。
父が倒れてから、春告鳥の棚に並ぶ菓子は、日を追うごとに減っていった。
今まで当たり前のようにあった、艶やかな餡子の豆大福、ふっくらとした団子、香ばしい最中…それらが姿を消していく。代わりに並ぶのは、おたきが手伝いながら作った、形は似ていても、どこか精彩を欠いた菓子ばかりだ。
おみえも手伝ったが、まだ父から基本的なことしか教わっておらず、あの味を再現することなど、到底できなかった。
店の雰囲気も変わってしまった。以前は、活気があり、甘い香りと客たちの笑顔で満ち溢れていた店内が、今はどこかひっそりとしている。甘い香りも薄れ、寂しげな空気が漂っている。
その変化に、客たちも気づいた。
「おや、今日は豆大福がないのかい?」
「旦那さんの具合はどうなんだい?」
「どうしたんだい、春告鳥さん。なんだか元気がないじゃないか。」
常連客は心配して声をかけてくれたが、彼らの表情にも戸惑いが見えた。そして、新しい客は、店の前を通り過ぎていくだけになった。活気を失った店に、誰も引き寄せられないのだ。
客足は目に見えて減っていった。
一日に売れる菓子の数は、以前の半分以下になった。店の売上は激減し、仕入れに回せる金も心許なくなってくる。
母のおたきは、夜遅くまで帳簿をつけながら、ため息をつくことが増えた。
おみえは、そんな店の様子を見ているのが、つらくて仕方がなかった。自分が、何もできないことが、歯がゆくて、情けなくて、悔しかった。父に恩返しをするどころか、自分はただ、この温かい家に居候しているだけで、何の役にも立てていないのではないか。むしろ、足手まといになっているのではないか。そんな思いが、おみえの心を蝕んでいく。
夜、父の寝息を聞きながら、おみえは一人、父の工房に忍び込んだ。昼間とは違う、ひっそりとした工房。使い慣れた道具たちが、静かに佇んでいる。いつもなら、父の情熱と、菓子作りの温かい熱気に満ちているはずの場所が、今は冷たい空気に包まれているかのようだ。
銅鍋に触れる。ひやりとしている。ここに、父の温かい手が触れることは、もうないのだろうか。おみえは、鍋に額をつけ、ぎゅっと目を閉じた。
(どうしよう…お父さん…お母さん…この店が…)
恩返しをしたいと願っていた。父のような菓子職人になりたいと誓っていた。でも、その願いは、父が倒れてしまった今、叶えられない夢になってしまったのかもしれない。
店は、このまま廃れていってしまうのだろうか。父と母が、大切に守ってきた春告鳥は、このまま灯火が消えてしまうのだろうか。
おみえの心に、真っ暗な絶望が忍び寄ってきた。今まで感じたことのない、深い無力感と、どうすることもできない悲しみ。
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春告鳥の灯火は、今、大きく揺らいでいた。
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