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第三部:転落と絶望の淵
第八話:黒田屋の巧妙な罠と深まる泥沼
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黒田屋が春告鳥から去った後も、その場にへたり込んだおみえは、しばらく立ち上がることができなかった。全身から力が抜け、手足が震える。心臓は警鐘を打ち鳴らし続け、耳の奥で黒田屋の冷たい声が反響しているかのようだった。
「本当に、そうかな?」。あの言葉は、おみえのついた嘘を見透かしているようだった。そして、その後の「楽しみに待たせてもらうとしよう」という言葉には、父の回復も、おみえの菓子作りも、全てを嘲笑うような響きがあった。
母のおたきと善助さんが、心配そうにおみえに駆け寄ってくる。二人の顔を見上げることもできず、おみえはただ俯いていた。自分が、また嘘をついてしまったこと。それも、最初の嘘よりもずっと危険で、取り返しのつかないような嘘を。その事実が、おみえの心を深くえぐった。母にも、善助さんにも、本当のことは言えない。この秘密が、自分と大切な人たちの間に、見えない壁を作っていくような、苦しい感覚だった。
黒田屋は、去り際に「楽しみに待つ」と言った。あの男が、このまま何もしないはずがない。きっと、何か企んでいる。あの冷たい視線は、春告鳥という獲物を定めた獣のそれだった。おみえの心は、恐怖と不安でがんじがらめになった。束の間の安堵は、砂のように指の間から零れ落ちてしまった。
黒田屋が動き出すのに、時間はかからなかった。
数日も経たないうちに、江戸の町に、春告鳥に関する悪い噂が流れ始めた。
「聞いたかい?あの春告鳥さんよ。旦那さん、もう駄目らしいじゃないか。」
「なんでも、娘さんが店を継いだなんて言ってるが、あれ、嘘らしいぜ。」
「味が落ちたって話は本当だったんだ。娘さん、旦那さんから秘伝なんて何も教わってないんだと。」
悪評は、まるで伝染病のように、あっという間に広がっていった。黒田屋が、裏で手を回して流していることは明白だった。彼の巧妙な点は、おみえのついた「秘伝を教わっている」という嘘を逆手にとったことだ。おみえが嘘をついている、という悪評は、おみえのついた嘘そのものによって、説得力を持ってしまった。
悪評は、春告鳥の店に、目に見える形で影響を与え始めた。以前、おみえや善助さんが作った菓子を褒めてくれた常連客たちも、どこか不審そうな眼差しを向けるようになった。中には、「本当に、旦那さんから秘伝を教わってるのかい?」「あの味は、旦那さんの味とは違うようだが…」と、直接問い詰めてくる客もいた。
そのたびに、おみえは胸を突き刺されるような痛みを感じた。彼らは、悪意があるわけではない。ただ、長年愛してきた春告鳥の味、そしておみえの言葉の真偽を確かめたいだけなのだろう。
だが、おみえには、本当のことを言う勇気がなかった。一度ついた嘘は、雪だるま式に大きくなり、おみえの良心を押し潰していく。
客足は再び減り始めた。一度は戻りかけた店の活気は失われ、再び沈滞した空気が店を包み込む。母のおたきは、悪評に心を痛め、日ごとに痩せていく。
父は、病床で店の様子を案じているが、真実を伝えるわけにはいかない。善助さんも、何も言わずに黙々と働いてくれるが、その顔には苦悩の色が浮かんでいた。
(私のせいで…私のついた嘘のせいで、店が…お父さんやお母さんが…)
罪悪感と後悔の念が、おみえの心を責め立てる。恩返しをしたかっただけなのに。店を守りたかっただけなのに。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
このままではいけない。何とかしなければ。悪評を打ち消し、店の信用を取り戻すためには、ただ父の菓子作りの覚え書きを見ながら作るだけでは駄目だ。もっと、もっと凄いものが必要だ。
人々に、「やはり春告鳥だ」「おみえは本当に秘伝を受け継いだのだ」と思わせるような、何か。
おみえは、焦りにも似た感情に突き動かされ、夜遅くまで工房に籠もった。
父の覚え書きを何度も読み返し、特別な材料について書かれていないか、何か見落としていることはないか、必死に探した。父が「菓子は心で作るものだ」と言った言葉も、今は遠い。技術が、秘伝が、特別な何かが、この状況を打破するために必要だと、おみえは思い込んでいた。
だが、覚え書きには、ありふれた材料と、丁寧な手順が記されているだけだった。特別な材料など、何も書かれていない。途方に暮れたおみえは、工房の隅にうずくまりそうになった。
やはり、自分には無理なのか。父の偉大さには、到底及ばないのか。
その時、おみえの頭の中に、黒田屋の言葉が蘇った。「秘伝の作り方を、寝る前に少しずつ教えてもらっています!」。そして、それを聞いた黒田屋が探りを入れた、あの冷たい視線。「秘伝の材料のありか」…。
(材料…そうだ。もし、父しか知らない特別な材料があれば…それを手に入れられれば、きっと、父の味を再現できる!悪評も覆せる!黒田屋にも、もう何も言わせない…!)
追い詰められたおみえの心に、危険な考えが芽生えた。そして、その考えは、焦りと絶望の中で、あっという間に大きくなった。
次に常連客から「本当に秘伝があるのか」と問い詰められた時、おみえは迷うことなく、さらに大きな嘘をついた。それは、最初の嘘をさらに深く、そして逃げ場のないものにする嘘だった。
「は、はい!実は…父から、特別な材料のことを教えてもらっているのです!その材料を使えば、父のような餡子ができると…!今、その材料を…探し求めているところで…!」
特別な材料。存在しない、架空の材料だ。それを「探し求めている」と嘘をつくことで、なぜ父の味が再現できないのかという疑問を、一時的にでもかわそうとしたのだ。
嘘をついた後、おみえは、まるで泥沼に足を踏み入れてしまったかのような感覚に襲われた。最初の嘘は、まだ小さな石だったかもしれない。しかし、黒田屋の悪評と、それに伴う焦り、そして店を守りたい一心からついたこの二度目の嘘は、おみえの足をしっかりと泥沼に引きずり込んだ。
(もう…引き返せない…)
嘘が嘘を呼び、泥沼は深まっていく。黒田屋の巧妙な罠は、おみえのついた嘘によって、完璧に機能し始めていた。春告鳥は、そしておみえ自身は、転落と絶望の淵へと、確実に近づいていっていた。
おみえの心は、罪悪感と恐怖、そして、この先どうなるのかという深い不安で、真っ暗だった。
「本当に、そうかな?」。あの言葉は、おみえのついた嘘を見透かしているようだった。そして、その後の「楽しみに待たせてもらうとしよう」という言葉には、父の回復も、おみえの菓子作りも、全てを嘲笑うような響きがあった。
母のおたきと善助さんが、心配そうにおみえに駆け寄ってくる。二人の顔を見上げることもできず、おみえはただ俯いていた。自分が、また嘘をついてしまったこと。それも、最初の嘘よりもずっと危険で、取り返しのつかないような嘘を。その事実が、おみえの心を深くえぐった。母にも、善助さんにも、本当のことは言えない。この秘密が、自分と大切な人たちの間に、見えない壁を作っていくような、苦しい感覚だった。
黒田屋は、去り際に「楽しみに待つ」と言った。あの男が、このまま何もしないはずがない。きっと、何か企んでいる。あの冷たい視線は、春告鳥という獲物を定めた獣のそれだった。おみえの心は、恐怖と不安でがんじがらめになった。束の間の安堵は、砂のように指の間から零れ落ちてしまった。
黒田屋が動き出すのに、時間はかからなかった。
数日も経たないうちに、江戸の町に、春告鳥に関する悪い噂が流れ始めた。
「聞いたかい?あの春告鳥さんよ。旦那さん、もう駄目らしいじゃないか。」
「なんでも、娘さんが店を継いだなんて言ってるが、あれ、嘘らしいぜ。」
「味が落ちたって話は本当だったんだ。娘さん、旦那さんから秘伝なんて何も教わってないんだと。」
悪評は、まるで伝染病のように、あっという間に広がっていった。黒田屋が、裏で手を回して流していることは明白だった。彼の巧妙な点は、おみえのついた「秘伝を教わっている」という嘘を逆手にとったことだ。おみえが嘘をついている、という悪評は、おみえのついた嘘そのものによって、説得力を持ってしまった。
悪評は、春告鳥の店に、目に見える形で影響を与え始めた。以前、おみえや善助さんが作った菓子を褒めてくれた常連客たちも、どこか不審そうな眼差しを向けるようになった。中には、「本当に、旦那さんから秘伝を教わってるのかい?」「あの味は、旦那さんの味とは違うようだが…」と、直接問い詰めてくる客もいた。
そのたびに、おみえは胸を突き刺されるような痛みを感じた。彼らは、悪意があるわけではない。ただ、長年愛してきた春告鳥の味、そしておみえの言葉の真偽を確かめたいだけなのだろう。
だが、おみえには、本当のことを言う勇気がなかった。一度ついた嘘は、雪だるま式に大きくなり、おみえの良心を押し潰していく。
客足は再び減り始めた。一度は戻りかけた店の活気は失われ、再び沈滞した空気が店を包み込む。母のおたきは、悪評に心を痛め、日ごとに痩せていく。
父は、病床で店の様子を案じているが、真実を伝えるわけにはいかない。善助さんも、何も言わずに黙々と働いてくれるが、その顔には苦悩の色が浮かんでいた。
(私のせいで…私のついた嘘のせいで、店が…お父さんやお母さんが…)
罪悪感と後悔の念が、おみえの心を責め立てる。恩返しをしたかっただけなのに。店を守りたかっただけなのに。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
このままではいけない。何とかしなければ。悪評を打ち消し、店の信用を取り戻すためには、ただ父の菓子作りの覚え書きを見ながら作るだけでは駄目だ。もっと、もっと凄いものが必要だ。
人々に、「やはり春告鳥だ」「おみえは本当に秘伝を受け継いだのだ」と思わせるような、何か。
おみえは、焦りにも似た感情に突き動かされ、夜遅くまで工房に籠もった。
父の覚え書きを何度も読み返し、特別な材料について書かれていないか、何か見落としていることはないか、必死に探した。父が「菓子は心で作るものだ」と言った言葉も、今は遠い。技術が、秘伝が、特別な何かが、この状況を打破するために必要だと、おみえは思い込んでいた。
だが、覚え書きには、ありふれた材料と、丁寧な手順が記されているだけだった。特別な材料など、何も書かれていない。途方に暮れたおみえは、工房の隅にうずくまりそうになった。
やはり、自分には無理なのか。父の偉大さには、到底及ばないのか。
その時、おみえの頭の中に、黒田屋の言葉が蘇った。「秘伝の作り方を、寝る前に少しずつ教えてもらっています!」。そして、それを聞いた黒田屋が探りを入れた、あの冷たい視線。「秘伝の材料のありか」…。
(材料…そうだ。もし、父しか知らない特別な材料があれば…それを手に入れられれば、きっと、父の味を再現できる!悪評も覆せる!黒田屋にも、もう何も言わせない…!)
追い詰められたおみえの心に、危険な考えが芽生えた。そして、その考えは、焦りと絶望の中で、あっという間に大きくなった。
次に常連客から「本当に秘伝があるのか」と問い詰められた時、おみえは迷うことなく、さらに大きな嘘をついた。それは、最初の嘘をさらに深く、そして逃げ場のないものにする嘘だった。
「は、はい!実は…父から、特別な材料のことを教えてもらっているのです!その材料を使えば、父のような餡子ができると…!今、その材料を…探し求めているところで…!」
特別な材料。存在しない、架空の材料だ。それを「探し求めている」と嘘をつくことで、なぜ父の味が再現できないのかという疑問を、一時的にでもかわそうとしたのだ。
嘘をついた後、おみえは、まるで泥沼に足を踏み入れてしまったかのような感覚に襲われた。最初の嘘は、まだ小さな石だったかもしれない。しかし、黒田屋の悪評と、それに伴う焦り、そして店を守りたい一心からついたこの二度目の嘘は、おみえの足をしっかりと泥沼に引きずり込んだ。
(もう…引き返せない…)
嘘が嘘を呼び、泥沼は深まっていく。黒田屋の巧妙な罠は、おみえのついた嘘によって、完璧に機能し始めていた。春告鳥は、そしておみえ自身は、転落と絶望の淵へと、確実に近づいていっていた。
おみえの心は、罪悪感と恐怖、そして、この先どうなるのかという深い不安で、真っ暗だった。
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