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第三部:転落と絶望の淵
第十三話:万策尽きて…工房での涙
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黒田屋が去ってからというもの、春告鳥の店は、死んだように静まり返っていた。
数日という猶予。黒田屋が置いていった、あの禍々しい権利譲渡契約書。それらが、おみえの視界全てを覆い尽くし、他の何も見えなくさせていた。父は病床に伏したまま、母も心労で倒れ、かろうじて息をしている状態だ。
善助さんは、相変わらず店の片付けをしてくれているが、その動きは力なく、まるで店の死体を弔っているかのようだった。
おみえには、何もできなかった。何をすれば良いのかも分からなかった。黒田屋の突きつけた圧倒的な力と、自分の嘘が招いた現実の重さに、おみえの心は完全に折れてしまっていた。
誰かに助けを求めようにも、悪評と失われた信用のせいで、誰も春告鳥には近づこうとしない。月見堂の源蔵さんの言葉が、頭の中で木霊する。「店を畳むか…真の職人になるか…」。
だが、今の自分には、どちらも不可能だった。真の職人になる道は、あまりにも遠く、そして、店を畳むという選択は、父と母の、そして春告鳥を愛してくれた人々の心を裏切ることになる。どちらを選んでも、地獄だ。
万策尽きた。文字通り、打つ手立てが何一つない状況だった。黒田屋が再び現れ、全てを奪い去るその時を、ただ怯えながら待つしかない。
(どうして…どうしてこんなことになったの…)
考えるほどに、おみえの心は深い闇へと沈んでいく。その闇の中で、幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。雪の降る寒い夜、店の前で震えていた自分。そして、温かい手で自分を抱き上げてくれた、父と母の優しい顔。美味しいお菓子。温かい布団。何の見返りも求めず、ただひたすらに注がれた愛情。
「この恩を、いつか必ず返そう。」
心に誓った、あの日の決意。そのために、父のような菓子職人になりたいと願った。父の店を守りたいと強く思った。そして、その思いが、あの最初の嘘へと繋がったのだ。「父から秘伝を教わっています!」。あの時、ほんの少しでも良い方に進めばと願った、あの小さな嘘が、全てを狂わせてしまった。
恩返しをするつもりが、結果として父と母を苦しめ、大切な店を破滅させようとしている。自分が、全ての元凶なのだ。拾われた子である自分が、この家に災いをもたらしてしまったのではないか。そんな、根拠のない自己否定感が、おみえの心を責め立てた。
誰にも見られたくなかった。誰にも、この情けない姿を知られたくなかった。おみえは、ふらつく足取りで、父の工房へと向かった。
工房の戸を開けると、冷たい空気がおみえを迎えた。いつもなら、父の温かい気配と、菓子の甘く香ばしい匂いで満ちているはずの場所が、今は静まり返っている。使い込まれた道具たちが、物言わぬ証人のように、静かに佇んでいる。
銅鍋に触れる。ひやりとした感触が、父の手の温もりを思い出させる。木べらを握る。父がこれを使い、愛情込めて餡子を練っていたのだ。
父の菓子作りの覚え書きが、作業台の上に置かれている。開く気力はなかった。
ここには、父との大切な思い出がたくさん詰まっている。父が菓子を作る姿。教えてもらった言葉。父が「菓子は心で作るものだ」と言った時の、真剣な眼差し。それらの思い出が、今の絶望的な状況とあまりにもかけ離れていて、おみえの心を引き裂いた。
堪えきれなかった。喉の奥から、抑えきれない嗚咽が込み上げてきた。
声を出して泣いてはいけない。そう思ったのに、一度込み上げてきた感情は、嵐のように全身を駆け巡り、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「う…うああああ…!」
おみえは、その場に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。しゃくり上げ、呼吸もままならないほど泣いた。頬を伝う熱い涙は、止まることを知らず、冷たい床に吸い込まれていく。
父や母を心配させたくない、強い娘でいなければ、そう思ってずっと我慢してきた感情が、今、全て溢れ出していた。
父の病気。母の心労。善助さんの苦悩。黒田屋の冷酷さ。源蔵さんの厳しい言葉。失われた信用。潰れる寸前の店。そして、自分のついた嘘。全てが、おみえの小さな肩に、重くのしかかる。
「ごめんなさい…お父さん…お母さん…ごめんなさい…」
謝罪の言葉が、嗚咽と共に途切れ途切れに漏れる。恩返しをするつもりが、ごめんなさいしか言えない。
どれくらいの時間、そうして泣き続けたのだろうか。やがて、声は枯れ、涙も枯れた。体は冷え切って、ひどい倦怠感が全身を襲う。工房の床に横たわったまま、おみえは天井を見つめていた。
もう、何も感じない。悲しみも、後悔も、恐怖も。ただ、虚無感だけが、おみえの心にぽっかりと穴を開けていた。
目の前にあるのは、父が使っていた菓子作りの道具。以前なら、これらを見るだけで心が躍ったのに、今は、ただ冷たい鉄や木の塊にしか見えない。菓子を作ろうなどという気力は、微塵も湧いてこなかった。
(もう…終わりだ…)
全てを諦めた。抵抗する力も、立ち向かう勇気も、もう何も残っていない。黒田屋が来る日を待つだけだ。全てを失い、江戸を追われる日を。
春告鳥の工房は、おみえの深い絶望と共に、静かに息を潜めていた。
おみえの心は、完全に打ち砕かれていた。
数日という猶予。黒田屋が置いていった、あの禍々しい権利譲渡契約書。それらが、おみえの視界全てを覆い尽くし、他の何も見えなくさせていた。父は病床に伏したまま、母も心労で倒れ、かろうじて息をしている状態だ。
善助さんは、相変わらず店の片付けをしてくれているが、その動きは力なく、まるで店の死体を弔っているかのようだった。
おみえには、何もできなかった。何をすれば良いのかも分からなかった。黒田屋の突きつけた圧倒的な力と、自分の嘘が招いた現実の重さに、おみえの心は完全に折れてしまっていた。
誰かに助けを求めようにも、悪評と失われた信用のせいで、誰も春告鳥には近づこうとしない。月見堂の源蔵さんの言葉が、頭の中で木霊する。「店を畳むか…真の職人になるか…」。
だが、今の自分には、どちらも不可能だった。真の職人になる道は、あまりにも遠く、そして、店を畳むという選択は、父と母の、そして春告鳥を愛してくれた人々の心を裏切ることになる。どちらを選んでも、地獄だ。
万策尽きた。文字通り、打つ手立てが何一つない状況だった。黒田屋が再び現れ、全てを奪い去るその時を、ただ怯えながら待つしかない。
(どうして…どうしてこんなことになったの…)
考えるほどに、おみえの心は深い闇へと沈んでいく。その闇の中で、幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。雪の降る寒い夜、店の前で震えていた自分。そして、温かい手で自分を抱き上げてくれた、父と母の優しい顔。美味しいお菓子。温かい布団。何の見返りも求めず、ただひたすらに注がれた愛情。
「この恩を、いつか必ず返そう。」
心に誓った、あの日の決意。そのために、父のような菓子職人になりたいと願った。父の店を守りたいと強く思った。そして、その思いが、あの最初の嘘へと繋がったのだ。「父から秘伝を教わっています!」。あの時、ほんの少しでも良い方に進めばと願った、あの小さな嘘が、全てを狂わせてしまった。
恩返しをするつもりが、結果として父と母を苦しめ、大切な店を破滅させようとしている。自分が、全ての元凶なのだ。拾われた子である自分が、この家に災いをもたらしてしまったのではないか。そんな、根拠のない自己否定感が、おみえの心を責め立てた。
誰にも見られたくなかった。誰にも、この情けない姿を知られたくなかった。おみえは、ふらつく足取りで、父の工房へと向かった。
工房の戸を開けると、冷たい空気がおみえを迎えた。いつもなら、父の温かい気配と、菓子の甘く香ばしい匂いで満ちているはずの場所が、今は静まり返っている。使い込まれた道具たちが、物言わぬ証人のように、静かに佇んでいる。
銅鍋に触れる。ひやりとした感触が、父の手の温もりを思い出させる。木べらを握る。父がこれを使い、愛情込めて餡子を練っていたのだ。
父の菓子作りの覚え書きが、作業台の上に置かれている。開く気力はなかった。
ここには、父との大切な思い出がたくさん詰まっている。父が菓子を作る姿。教えてもらった言葉。父が「菓子は心で作るものだ」と言った時の、真剣な眼差し。それらの思い出が、今の絶望的な状況とあまりにもかけ離れていて、おみえの心を引き裂いた。
堪えきれなかった。喉の奥から、抑えきれない嗚咽が込み上げてきた。
声を出して泣いてはいけない。そう思ったのに、一度込み上げてきた感情は、嵐のように全身を駆け巡り、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「う…うああああ…!」
おみえは、その場に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。しゃくり上げ、呼吸もままならないほど泣いた。頬を伝う熱い涙は、止まることを知らず、冷たい床に吸い込まれていく。
父や母を心配させたくない、強い娘でいなければ、そう思ってずっと我慢してきた感情が、今、全て溢れ出していた。
父の病気。母の心労。善助さんの苦悩。黒田屋の冷酷さ。源蔵さんの厳しい言葉。失われた信用。潰れる寸前の店。そして、自分のついた嘘。全てが、おみえの小さな肩に、重くのしかかる。
「ごめんなさい…お父さん…お母さん…ごめんなさい…」
謝罪の言葉が、嗚咽と共に途切れ途切れに漏れる。恩返しをするつもりが、ごめんなさいしか言えない。
どれくらいの時間、そうして泣き続けたのだろうか。やがて、声は枯れ、涙も枯れた。体は冷え切って、ひどい倦怠感が全身を襲う。工房の床に横たわったまま、おみえは天井を見つめていた。
もう、何も感じない。悲しみも、後悔も、恐怖も。ただ、虚無感だけが、おみえの心にぽっかりと穴を開けていた。
目の前にあるのは、父が使っていた菓子作りの道具。以前なら、これらを見るだけで心が躍ったのに、今は、ただ冷たい鉄や木の塊にしか見えない。菓子を作ろうなどという気力は、微塵も湧いてこなかった。
(もう…終わりだ…)
全てを諦めた。抵抗する力も、立ち向かう勇気も、もう何も残っていない。黒田屋が来る日を待つだけだ。全てを失い、江戸を追われる日を。
春告鳥の工房は、おみえの深い絶望と共に、静かに息を潜めていた。
おみえの心は、完全に打ち砕かれていた。
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