【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

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第二章:絡み合う糸、深まる謎

第二十一話:黒衣の来訪者

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 「癒やされぬ傷もある」――玄庵の言葉は、おみつの心に深い問いを残した。

 彼の過去に何があったのか、そして、それが彼をこれほどまでに謎めいた存在にしたのか。おみつは、玄庵の真の姿に近づきたいと強く願い始めていた。

 そんなある日、玄庵診療所に、不穏な気配を漂わせる黒衣の男が訪れる。

 その日の午後、診療所はいつものように静まり返っていた。おみつは薬草の整理をしながら、ふと玄庵の背中に目をやった。

 彼は縁側で、黙って庭を眺めている。その姿は、まるで絵画のようだったが、どこか遠くを見ているような寂しげな雰囲気を纏っていた。

 その時、カラリ、と診療所の木戸が音を立てて開いた。現れたのは、一人の男だった。
全身を漆黒の衣に包み、顔の半分は深い笠で隠されている。しかし、その隙間から覗く目は、まるで獲物を狙う猛禽類のように鋭く、冷たい光を放っていた。

 その男から放たれる気配は、これまでおみつが出会ったどんな妖怪よりも、はるかに重く、そして悪意に満ちているように感じられた。

 おみつは思わず息を呑み、身構えた。
男は、おみつを一瞥すると、何の言葉も発さずに玄庵の元へと真っ直ぐに進んでいく。

「まさか、貴殿がこのような場所で、医者など営んでいるとはな」

 男の声は、低く、しかし感情のこもらない、氷のような響きだった。

 玄庵は、男の声に微かに反応した。
その表情は、いつもの冷静さを保っているが、その瞳の奥には、一瞬にして警戒の色が宿ったようにおみつには見えた。

「何の用だ、夜叉丸(やしゃまる)」

 玄庵が発した名に、おみつは驚いた。
玄庵が、これほどまでに感情を乗せて誰かの名を呼ぶのは、珍しいことだった。
男と玄庵の間には、何か深い因縁があることを感じさせた。

 夜叉丸と呼ばれた男は、フッと冷笑した。
「相変わらず、薄情な男だ。昔のよしみで訪ねてやったというのに」

 夜叉丸の言葉に、おみつはますます混乱した。玄庵とこの男は、知り合いなのだろうか。しかし、その雰囲気は、決して親しい間柄のそれではない。

「貴様と、よしみなどない」
 玄庵の言葉は、氷のように冷たかった。

 夜叉丸は、玄庵の言葉に動じることなく、ゆっくりと玄庵の周囲を回り始めた。その視線は、玄庵の全身を値踏みするかのように、じっと見つめている。

「しかし、随分と落ちぶれたものだ。かつては、あの忌まわしき穢れを屠る『鬼』と恐れられた貴様が、今ではこのような薄汚い横丁で、人の真似事か」

 夜叉丸の言葉に、おみつはハッとした。
穢れを屠る『鬼』。
以前、玄庵の正体について古尾が漏らした言葉と重なる。

 そして、その『鬼』という言葉が、玄庵の口から漏れた「癒やされぬ傷」とどう繋がるのか、おみつにはまだ理解できなかった。

 玄庵は、夜叉丸の挑発的な言葉にも、表情一つ変えなかった。しかし、その拳は、微かに握り締められているように見えた。

「貴様には関係ないことだ」

「フン。そうか。だが、貴様が隠しているもの、そう長くは隠し通せまい。『贄(にえ)』の時間は、刻一刻と近づいているぞ」

 夜叉丸は、意味深な言葉を残した。
贄、という言葉におみつは胸騒ぎを覚えた。それは、決して良い意味の言葉ではない。

 夜叉丸は、玄庵にそれ以上何も言わず、踵を返した。そして、おみつの横を通り過ぎる際、冷たい視線をおみつに向けた。
その視線は、おみつの体の奥底まで見透かされているかのような、不快なものだった。

「この娘も、貴様の弱点となりかねんな。注意しろ、玄庵」

 夜叉丸はそう言い残し、音もなく診療所を去っていった。

 夜叉丸が去った後も、診療所には重苦しい空気が残っていた。おみつは、その場に立ち尽くしたまま、全身から力が抜けていくのを感じていた。
彼は一体、何者なのだろう。そして、彼が言っていた「贄」とは。

 玄庵は、静かに目を閉じ、そして深く息を吐いた。その顔には、普段は決して見せない、深い疲労の色が浮かんでいた。

 おみつは、玄庵の元へと駆け寄りそうになったが、彼の背中から発せられる、近寄りがたい雰囲気に、思わず足を止めてしまった。

 この夜叉丸という男の来訪は、玄庵の過去に、新たな、そして非常に不穏な扉が開かれたことを意味していた。

 おみつは、玄庵が背負う「癒やされぬ傷」が、想像以上に深く、そして危険なものであることを悟ったのだった。
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