【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

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第二章:絡み合う糸、深まる謎

第二十六話:井戸の底の約束

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 古井戸の底から聞こえる悲しき呼び声。

 その正体を探るべく、玄庵は自ら危険を冒し、井戸の底へと降り立つ決意をした。
彼の「癒やされぬ傷」との関連を予感させるその行動に、おみつは胸騒ぎを覚える。

 夜の帳が下り、診療所の裏庭に張り詰めた空気が漂う中、玄庵は静かに、しかし確かな足取りで古井戸へと向かった。

 縄梯子が、漆黒の井戸の闇へと垂らされる。
井戸の底からは、相変わらず女のすすり泣く声が聞こえてくるが、その声は、どこか苦しげで、助けを求める響きを帯びているように感じられた。

「先生、どうか、お気をつけて……!」

 おみつは、不安を押し殺して玄庵に声をかけた。古尾もまた、珍しく神妙な面持ちで、井戸の縁に立つ玄庵を見守っていた。

「心配ない。この井戸の底に、私が向き合うべきものがある」

 玄庵はそう言うと、縄梯子に手をかけ、ゆっくりと井戸の底へと降りていった。
暗闇が玄庵の姿を飲み込み、やがて、その姿は完全に井戸の闇に消えた。

 井戸の底から聞こえるすすり泣く声は、玄庵が降りていくにつれて、より鮮明に、そして悲痛に響き渡る。

 おみつと古尾は、地上でただ玄庵の帰りを待つしかなかった。不安が募る中、井戸の底から、水の跳ねる音と、何かと争うような激しい音が響いてきた。

 しばらくして、井戸の底から微かな光が漏れ、玄庵の姿がゆっくりと浮かび上がってきた。
彼は、片手に何かを抱え、もう一方の手で縄梯子を掴んでいた。

 その顔は、水滴に濡れ、普段は冷静なその表情にも、微かな疲労と、そして複雑な感情が浮かんでいるように見えた。

 玄庵が井戸から上がると、その手に抱えられていたものの正体が明らかになった。

 それは、半透明の体を持つ、水の妖怪だった。その妖怪は、人魚のような姿をしており、美しい顔には、深い悲しみと、そしてどこか憤りにも似た感情が宿っていた。

「この者が、井戸の底に縛られていた念の正体だ」

 玄庵は、そう言って水の妖怪をそっと地面に横たえた。おみつは、その妖怪のあまりの美しさと、同時にその悲しげな瞳に、言葉を失った。

「この者は、かつてこの井戸の主として、この地を清め、豊かにしてきた水の精霊だった。しかし、ある時、人間に裏切られ、井戸の底に封じられてしまったのだ」

 玄庵の言葉に、おみつと古尾は息を呑んだ。

「人間との間に、約束を交わしていたのだな。この井戸の水は、枯れることなく、この地の豊かな恵みとなる。その代わり、人間はこの精霊を祀り、井戸を清める。だが、人間はその約束を破り、精霊の力を利用した挙句、用済みとなれば井戸の底に封じ込めた」

 玄庵の言葉は、静かでありながら、痛々しいほどに重かった。おみつは、人間が犯した業の深さに、胸が締め付けられる思いがした。

「永きにわたり、井戸の底で苦しめられてきたこの者の悲しみと怒りが、あのすすり泣く声となり、周囲に穢れをもたらしていたのだ」

 玄庵はそう言うと、水の妖怪の額にそっと手をかざした。すると、玄庵の掌から、温かい光が放たれ、水の妖怪の体を包み込む。水の妖怪は、苦しげに身悶えながらも、やがてその表情が、次第に穏やかなものへと変わっていった。

「先生……あなたは、この妖怪と、以前から面識があったのですか?」

 おみつは、玄庵の行動から、彼がこの水の妖怪と、何らかの縁があるのではないかと感じ、恐る恐る尋ねた。

 玄庵は、おみつの問いに、静かに頷いた。
その瞳は、遠い過去を見つめているかのようだった。

「ええ。遥か昔、この精霊が人間に裏切られた時、私はその場に居合わせた。しかし、私には、その精霊を救う力がなかった……」

 玄庵の言葉は、微かに震えていた。
その言葉の奥に、「癒やされぬ傷」という言葉の、具体的な過去の出来事が隠されているのではないか、とおみつは直感した。

 玄庵が、深い悲しみを帯びていたのは、かつて、このような無力感を味わったからなのだろうか。

「私は、この者との約束を、今、果たしたかった」

 玄庵は、そう言って水の妖怪を見つめた。水の妖怪は、玄庵の光に包まれながら、その体が徐々に薄れていく。それは、悲しみから解放され、安らかに昇天していく姿だった。

 水の妖怪が消え去ると、古井戸からは、先ほどまでの重苦しい気配が消え、清らかな水の流れの音が聞こえてきた。そして、夜空には、満月が皓皓(こうこう)と輝き、辺りを優しく照らしていた。

 この古井戸の件は、おみつにとって、玄庵の過去に触れる、決定的な出来事となった。
彼が背負う「癒やされぬ傷」とは、単なる個人の悲しみではない。それは、人間が犯した過ちによって生まれた、この世界の「穢れ」と深く結びついている。

 そして、玄庵が医者を営む真の理由が、その「癒やされぬ傷」を癒やし、過去の約束を果たすことにあるのではないか、とおみつは感じ始めたのだった。
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