【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

文字の大きさ
41 / 150
第三章:鬼の貌(かんばせ)、人の心

第四十一話:鬼の噂

しおりを挟む
 ある日の夕暮れ時、診療所の木戸が慌ただしく開け放たれた。

 飛び込んできたのは、息を切らした古尾だった。彼の顔はいつもの飄々とした様子とは違い、珍しく真剣な面持ちをしている。

「先生、おみつ嬢ちゃん! 大変なことですぜ!」

 古尾の声は、普段よりも緊迫していた。

「江戸の町で、最近妙な噂が広まってましてな。『鬼が出る』って話ですぜ」

 古尾の言葉に、おみつは思わず玄庵の顔を見た。玄庵は、いつものように静かに古尾の言葉に耳を傾けているが、その瞳の奥には、どこか警戒の色が宿っているように見えた。

「鬼が出る、とは、一体どのような?」

 おみつが問いかけると、古尾は声を潜めて語り始めた。

「なんでも、夜中に人気のない場所で、突然高熱を出して苦しむ者が続出してるって噂で。
そんで、その場所には、必ず異様な悪臭が残されてるって話だ。まるで、腐りかけた肉の匂いみたいで、そりゃあもうひどいもんですぜ」

 古尾の説明に、おみつはゾッとした。
悪臭を伴う高熱。それは、最近診療所に運び込まれてきた患者たちの症状と酷似している。

 数日前から、原因不明の高熱と体中に謎の発疹が現れる患者が、次々と玄庵の元を訪れていたのだ。
医者にも見放され、最後の望みを玄庵に託してやってくる者ばかりだった。

「その症状、最近診療所に運び込まれる患者のものと、よく似ています……」

 おみつが玄庵にそう言うと、玄庵は静かに頷いた。

「ええ。まさに穢れの熱です。そして、その悪臭は、穢れが凝り固まり、腐敗した証拠でしょう」

 玄庵の言葉に、古尾は顔をしかめた。

「穢れが、そんな熱を出すとは……ってことは、まさか、本当に『鬼』の仕業ってことですか?」

 古尾の問いに、玄庵は直接は答えなかった。しかし、その瞳には、何か深い思案が宿っているようだった。

「噂では、その『鬼』は、一晩で何人もの人間を襲うって話で。しかも、襲われた人間は、熱にうなされて意識が朦朧としてるってだけで、他に外傷はないってのが、また不気味でさあ……」

 古尾は、さらに情報を続けた。通常の妖怪による被害とは、少し様相が異なっているようだ。ただ単に襲うのではなく、人々に「熱」を与えている。

 玄庵は、腕を組み、静かに瞑目した。彼の心の中では、広がる穢れの気配と、それが引き起こす症状が結びついていく。

「この穢れは、かつて私が知っていたものとは、少し様相が異なる。より強く、そして広範囲に及んでいる……」

 玄庵の呟きは、ほとんど独り言のようだったが、おみつの耳にははっきりと届いた。

 彼の過去を知る夜叉丸が言っていた「この世の穢れは、貴様の想像以上に根深く、そして広がり続けている」という言葉が、脳裏をよぎる。

 その夜、玄庵は、診療所の奥の書斎で、古文書を読み漁っていた。普段はあまり見せない、焦りのようなものが、その表情に微かに浮かんでいるようにおみつには見えた。

 おみつは、そんな玄庵の傍で、自分にできることはないかと、薬草の整理を手伝っていた。

「先生……その鬼の噂と、患者さんの症状は、何か関係があるのですか?」

 おみつが尋ねると、玄庵はゆっくりと顔を上げた。

「恐らくは。この穢れは、人々の負の感情を糧にしている。それが、江戸の町で急速に広がり始めているようだ」

 玄庵の言葉に、おみつはハッとした。
 人々の負の感情。それは、以前、生霊の件で玄庵が語った、人間の情念の恐ろしさを思い出させる。

「そして……その穢れを意図的に広めている者がいる。それが、あの夜叉丸と、彼らが属する組織の仕業である可能性が高い」

 玄庵の瞳に、強い光が宿った。それは、怒りにも似た、しかし、確かな決意の光だった。

 玄庵の「癒やされぬ傷」と、そして彼が背負う運命が、新たな局面を迎えようとしていることを、おみつは感じ取った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

古書館に眠る手記

猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。 十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。 そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。 寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。 “読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

処理中です...