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第三章:鬼の貌(かんばせ)、人の心
第五十四話:看病の日々
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古尾が帰った後も、おみつは玄庵の看病に付きっきりだった。
彼はまだ微熱が残っており、身体はだるそうで、起き上がるのも億劫そうだった。
しかし、彼の瞳に以前のような絶望の色は薄れ、わずかながらも安堵の色が浮かんでいるように見えた。
「先生、何か食べられますか? 古尾さんが、消化の良いものならと、お粥の作り方を教えてくれました」
おみつが声をかけると、玄庵はゆっくりと首を横に振った。
「いや、まだ……。食欲は、ない」
無理もない。あれほどの力を使い、身体が衰弱しきっているのだから。
おみつは、無理強いはせず、代わりに冷たい手拭いを玄庵の額に乗せてやった。ひんやりとした感触が、彼の表情を少しだけ和らげた。
静かな時間が流れる。
診療所には、時計の針が時を刻む音と、玄庵の穏やかな寝息だけが響いていた。
おみつは、ただ玄庵の傍に座り、彼の呼吸に合わせて静かに寄り添っていた。普段は活発なおみつも、この時ばかりは騒がず、じっと玄庵を見守っている。
そんなおみつの献身的な看病に、玄庵も気づいていたのだろう。ある日、彼はかすれた声で、ぽつりと呟いた。
「おみつ……もう、休んでいい。ずっと付きっきりで、疲れていよう」
おみつは、にこりと微笑んだ。
「いいえ、先生。私は大丈夫です。先生が元気になるまで、こうしてそばにいます」
その言葉に、玄庵は何も言わなかったが、彼の瞳の奥に、何か温かい光が灯ったように見えた。
彼は普段、感情を表に出さない。だが、その一瞬の表情の変化から、おみつは彼が感謝していることを感じ取った。
看病の日々は、ゆっくりと、しかし確実に二人の距離を縮めていった。
普段、玄庵は言葉数が少なく、自らの内面をほとんど語らない。しかし、身体が弱っている今は、わずかな言葉を交わすだけで、彼が何を考えているのか、どんな気持ちでいるのかが、おみつにも伝わるようになっていった。
ある日の午後、玄庵はぼんやりと天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あの力は……私にとって、いつか自分を滅ぼすものだと思っていた」
おみつは、彼の言葉を遮らず、静かに耳を傾けた。
「だが、あの夜、お前の声が……私を、引き戻してくれた」
玄庵の視線が、おみつに向けられた。その瞳には、感謝の念と共に、深い信頼が宿っていた。
「お前がいなければ……私は、本当に『鬼』になっていたかもしれない」
その言葉は、玄庵にとって、最大限の感謝と信頼の証だった。おみつは、その重みに、胸が熱くなるのを感じた。彼が抱える闇の深さを知れば知るほど、彼女は彼を支えたいと強く願うようになっていたのだ。
「私、先生が『鬼』なんかじゃないって、知ってますから」
おみつは、そう言って玄庵の手に自分の手を重ねた。温かいおみつの掌が、玄庵の冷たい指を包み込む。
「先生は、いつも誰かの痛みに寄り添って、誰かの命を救ってきた。そんな先生が、鬼であるはずがありません」
おみつの言葉は、玄庵の心の奥底に染み渡っていくようだった。彼の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「おみつ……」
彼はそう呟くと、静かに目を閉じた。
その顔には、これまで見たことのない、穏やかな安堵の色が浮かんでいた。
看病の間、おみつは玄庵の調薬も手伝った。
薬草の選別から煎じ方まで、玄庵は細かく指示を出し、おみつはそれを忠実にこなした。
時には、彼が持つ妖怪に関する知識や、奇病の治し方についても、ぽつりぽつりと話してくれることがあった。それは、普段の診察では聞けない、貴重な話だった。
「この薬草は、特定の妖気によって乱れた気を整える作用がある。だが、扱いを間違えれば、毒にもなる」
「妖怪の起こす奇病は、人間の心のありようと深く関わっていることが多い。病を治すには、まず心を救わねばならん」
玄庵の言葉は、おみつの知識欲を刺激し、彼女の視野を広げていった。おみつは、ただの助手としてではなく、玄庵の医療を深く理解しようと努めた。
数日後、玄庵は自力で起き上がれるほどに回復した。まだ完全に元通りというわけではないが、顔色も良くなり、体力も戻ってきている。
「もう、大丈夫だ。おみつ、本当にありがとう」
玄庵が、まっすぐに感謝の言葉を口にした。その言葉に、おみつは照れくさそうに笑った。
「いえ、これも、先生の助け合いの精神ですから!」
おみつは、そう言って玄庵に茶を淹れた。
湯気が立ち上る茶碗を手に、玄庵は窓の外に目をやった。鬼灯横丁には、いつもの賑やかな声が戻ってきている。
「……蝕組の動きが気になるが……」
玄庵はそう呟いたが、その表情には、以前のような切迫した様子はなかった。
あの夜の出来事を経て、玄庵とおみつの間には、確かな信頼と絆が生まれた。
そして、玄庵の心にも、あの「枷」への恐怖だけでなく、おみつの存在がもたらす温かな光が、宿り始めていたのだ。
穏やかな看病の日々は終わりを告げ、彼らの新たな日常が始まろうとしていた。
彼はまだ微熱が残っており、身体はだるそうで、起き上がるのも億劫そうだった。
しかし、彼の瞳に以前のような絶望の色は薄れ、わずかながらも安堵の色が浮かんでいるように見えた。
「先生、何か食べられますか? 古尾さんが、消化の良いものならと、お粥の作り方を教えてくれました」
おみつが声をかけると、玄庵はゆっくりと首を横に振った。
「いや、まだ……。食欲は、ない」
無理もない。あれほどの力を使い、身体が衰弱しきっているのだから。
おみつは、無理強いはせず、代わりに冷たい手拭いを玄庵の額に乗せてやった。ひんやりとした感触が、彼の表情を少しだけ和らげた。
静かな時間が流れる。
診療所には、時計の針が時を刻む音と、玄庵の穏やかな寝息だけが響いていた。
おみつは、ただ玄庵の傍に座り、彼の呼吸に合わせて静かに寄り添っていた。普段は活発なおみつも、この時ばかりは騒がず、じっと玄庵を見守っている。
そんなおみつの献身的な看病に、玄庵も気づいていたのだろう。ある日、彼はかすれた声で、ぽつりと呟いた。
「おみつ……もう、休んでいい。ずっと付きっきりで、疲れていよう」
おみつは、にこりと微笑んだ。
「いいえ、先生。私は大丈夫です。先生が元気になるまで、こうしてそばにいます」
その言葉に、玄庵は何も言わなかったが、彼の瞳の奥に、何か温かい光が灯ったように見えた。
彼は普段、感情を表に出さない。だが、その一瞬の表情の変化から、おみつは彼が感謝していることを感じ取った。
看病の日々は、ゆっくりと、しかし確実に二人の距離を縮めていった。
普段、玄庵は言葉数が少なく、自らの内面をほとんど語らない。しかし、身体が弱っている今は、わずかな言葉を交わすだけで、彼が何を考えているのか、どんな気持ちでいるのかが、おみつにも伝わるようになっていった。
ある日の午後、玄庵はぼんやりと天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あの力は……私にとって、いつか自分を滅ぼすものだと思っていた」
おみつは、彼の言葉を遮らず、静かに耳を傾けた。
「だが、あの夜、お前の声が……私を、引き戻してくれた」
玄庵の視線が、おみつに向けられた。その瞳には、感謝の念と共に、深い信頼が宿っていた。
「お前がいなければ……私は、本当に『鬼』になっていたかもしれない」
その言葉は、玄庵にとって、最大限の感謝と信頼の証だった。おみつは、その重みに、胸が熱くなるのを感じた。彼が抱える闇の深さを知れば知るほど、彼女は彼を支えたいと強く願うようになっていたのだ。
「私、先生が『鬼』なんかじゃないって、知ってますから」
おみつは、そう言って玄庵の手に自分の手を重ねた。温かいおみつの掌が、玄庵の冷たい指を包み込む。
「先生は、いつも誰かの痛みに寄り添って、誰かの命を救ってきた。そんな先生が、鬼であるはずがありません」
おみつの言葉は、玄庵の心の奥底に染み渡っていくようだった。彼の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「おみつ……」
彼はそう呟くと、静かに目を閉じた。
その顔には、これまで見たことのない、穏やかな安堵の色が浮かんでいた。
看病の間、おみつは玄庵の調薬も手伝った。
薬草の選別から煎じ方まで、玄庵は細かく指示を出し、おみつはそれを忠実にこなした。
時には、彼が持つ妖怪に関する知識や、奇病の治し方についても、ぽつりぽつりと話してくれることがあった。それは、普段の診察では聞けない、貴重な話だった。
「この薬草は、特定の妖気によって乱れた気を整える作用がある。だが、扱いを間違えれば、毒にもなる」
「妖怪の起こす奇病は、人間の心のありようと深く関わっていることが多い。病を治すには、まず心を救わねばならん」
玄庵の言葉は、おみつの知識欲を刺激し、彼女の視野を広げていった。おみつは、ただの助手としてではなく、玄庵の医療を深く理解しようと努めた。
数日後、玄庵は自力で起き上がれるほどに回復した。まだ完全に元通りというわけではないが、顔色も良くなり、体力も戻ってきている。
「もう、大丈夫だ。おみつ、本当にありがとう」
玄庵が、まっすぐに感謝の言葉を口にした。その言葉に、おみつは照れくさそうに笑った。
「いえ、これも、先生の助け合いの精神ですから!」
おみつは、そう言って玄庵に茶を淹れた。
湯気が立ち上る茶碗を手に、玄庵は窓の外に目をやった。鬼灯横丁には、いつもの賑やかな声が戻ってきている。
「……蝕組の動きが気になるが……」
玄庵はそう呟いたが、その表情には、以前のような切迫した様子はなかった。
あの夜の出来事を経て、玄庵とおみつの間には、確かな信頼と絆が生まれた。
そして、玄庵の心にも、あの「枷」への恐怖だけでなく、おみつの存在がもたらす温かな光が、宿り始めていたのだ。
穏やかな看病の日々は終わりを告げ、彼らの新たな日常が始まろうとしていた。
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