【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

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第三章:鬼の貌(かんばせ)、人の心

第六十一話:隠れ里の異変

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 蝕組の頭領・影との対峙は、まさしく宣戦布告であった。

 影は自らの目的を語り、玄庵の過去を抉り、その上で姿を消した。
村に蔓延した穢れは玄庵と竜胆の共闘によって浄化され、村人たちも回復に向かっているものの、影の存在と、彼が玄庵の過去に深く関わる人物であるという事実は、玄庵の心に深い影を落としていた。

 玄庵と一行は、一旦鬼灯横丁の診療所へと戻っていた。

 診療所の奥で、玄庵は静かに薬草を調合していた。その手つきは普段と変わらないものの、彼の周りにはどこか重い空気が漂っている。おみつは、そんな玄庵を心配そうに見守っていた。

「先生、本当に大丈夫ですか? あの……影という人は……」

 おみつが問いかけると、玄庵はゆっくりと手を止めた。

「……今は、何も言えぬ」

 彼の言葉には、深い葛藤が滲んでいた。おそらく、影の存在は、玄庵にとって最も触れたくない過去と直結しているのだろう。
影が告げた「裏切り」の言葉の意味も、玄庵の心に重くのしかかっている。

 その時、診療所の戸が激しく叩かれた。古尾が慌てた様子で飛び込んできた。

「玄庵先生! おみつさん! また、厄介な知らせでさぁ!」

 古尾の顔は、いつになく真剣だった。普段の彼からは想像できないほどの緊迫した様子に、玄庵とおみつは顔を見合わせた。

「どうした、古尾。慌てるな」

 玄庵が冷静に促すも、古尾は息を切らしながら続けた。

「蝕組のやつらが、新たな動きを見せているんでさぁ! 先生と縁の深い、山奥の妖怪たちの隠れ里で……異変が起きているそうでさぁ!」

 古尾の言葉に、玄庵の瞳が大きく見開かれた。
隠れ里とは、人間界から隔絶された、妖怪たちが平和に暮らす秘境だ。そこは、玄庵がかつて身を寄せていた場所でもあると、古尾から聞いたことがあった。

「異変だと? 詳しく話せ」

 玄庵の声に、焦りの色が混じった。彼の表情が、一瞬にして険しくなる。

「里に、原因不明の病が蔓延しているそうでさぁ。妖怪たちが次々と衰弱し、中には消滅してしまう者までいるとか……」

 古尾の報告は、さらに衝撃的なものだった。妖怪が「病」にかかり、消滅する。それは、通常の妖怪の世界ではありえないことだ。

「そして……その病の原因が、どうやら『穢れ』の類らしいんでさぁ。蝕組の魔の手が、ついに隠れ里にも伸びてきたんでさぁ!」

 古尾の言葉に、おみつは息を呑んだ。蝕組は、玄庵の力を狙うだけでなく、人間界の秩序を乱し、さらには妖怪たちの世界までも侵食しようとしているのか。

 玄庵は、その場で深く考え込んだ。彼の眉間には、深い皺が刻まれている。

 隠れ里は、彼にとって大切な場所だった。そこは、彼が「鬼」の力に苦しみ、居場所を失いかけていた時に、暖かく迎え入れてくれた場所だ。そこに暮らす妖怪たちは、彼にとって家族のような存在だった。

「……蝕組の狙いは、私だけではない。この世の全ての均衡を破壊しようとしているのか」

 玄庵は、低い声で呟いた。彼の言葉には、怒りと、そして深い決意が滲んでいた。

「先生、どうするんですか?」

 おみつが問いかけると、玄庵はまっすぐにおみつの目を見つめた。

「行く。隠れ里へ」

 彼の言葉には、一切の迷いがなかった。隠れ里の異変は、もはや他人事ではない。蝕組の野望を止めるため、そして大切な仲間たちを守るため、彼は自ら隠れ里へと赴くことを決意したのだ。

「しかし先生……あの影との対峙で、まだあの力を使いすぎた後の回復途中で……」

 古尾が心配そうに言った。あの夜の激しい戦いで、玄庵の身体にはまだ大きな負担が残っているはずだ。

「悠長に構えている暇はない。奴らは、私が動けないと見て、一気に隠れ里を狙ったのだろう。今行かねば、手遅れになる」

 玄庵の決断は固かった。彼の表情には、これまで以上に強い覚悟が宿っている。

「では、私も行きます!」

 おみつが迷うことなく言った。玄庵を一人で行かせることなど、彼女にはできなかった。彼の傍にいて、彼を支えたいという思いが、彼女を突き動かす。

 玄庵は、おみつのその言葉に、静かに頷いた。彼の表情には、おみつの決意に対する感謝と、確かな信頼が浮かんでいた。

「おみつさんは、まだ人間界の知識しか持ち合わせていないから、隠れ里は危険でさぁ。せめて、拙者が案内を……」

 古尾は、おみつを心配し、同行を申し出た。
「古尾、お前がいてくれると助かる。里までの道のりは、私も久しく通っていないからな」

 玄庵も古尾の同行を認めた。彼らは、隠れ里への旅立ちの準備を始める。

 玉藻は、玄庵の足元に擦り寄ると、にゃあ、と鳴いた。その瞳には、強い意志が宿っている。

「玉藻もか。……わかった。お前も来るか」

 玄庵は、玉藻の意思を汲み取った。玉藻は、彼らの古くからの仲間であり、この旅には欠かせない存在になるだろう。

 江戸の町に残された診療所は、一時的に閉鎖されることになる。だが、彼らが戻ってくるまで、町の人々が混乱に陥らないよう、楓やおみつの家族には、信頼できる知人を介して玄庵からの伝言が届けられた。

 夜が明け、朝焼けが空を染め始める頃、玄庵とおみつ、古尾、そして玉藻の一行は、鬼灯横丁の診療所を後にした。彼らの顔には、それぞれ異なる思いが浮かんでいた。

 玄庵の瞳には、友を救い、蝕組の野望を打ち砕くという、揺るぎない決意が宿っている。
 
 おみつの瞳には、彼を支え、共に戦い抜くという、確かな覚悟が輝いている。

 古尾の表情には、一抹の不安と、しかし玄庵への深い信頼が混じり合っている。

 そして玉藻は、静かに彼らを見守り、その行く末を案じているようだった。

 彼らが向かうのは、穢れに侵された妖怪たちの隠れ里。

 それは、玄庵の過去に深く関わる場所であり、蝕組との最終決戦へと繋がる、新たな旅の始まりだった。
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