【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

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第三章:鬼の貌(かんばせ)、人の心

第六十二話:旅立ちの準備

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 隠れ里への旅立ちを決めた玄庵たちは、鬼灯横丁の診療所で最後の準備を進めていた。

 診療所は、これまで通り患者を迎え入れられるよう、最低限の薬や道具を残し、残りは旅に必要なものへと厳選していく。

「先生、これで荷物は全てでしょうか?」

 おみつが、慣れない手つきで包帯や薬瓶を風呂敷に包みながら尋ねた。玄庵は、いつもの診察着ではなく、動きやすい藍色の旅装束を身につけていた。その姿は、普段の落ち着いた医師のそれとは異なり、どこか武人のような精悍さを感じさせた。

「ああ。これだけあれば、問題はないだろう」

 玄庵は、旅路で役立つであろう薬草や、もしもの時に使うための特殊な道具を吟味していた。彼の表情は真剣そのものだ。隠れ里での異変が、ただ事ではないことを物語っている。

「それにしても、こんなに長く診療所を空けるのは初めてですね」

 おみつが少し寂しそうに呟いた。鬼灯横丁の診療所は、彼女にとって、もはや故郷のような場所だった。

「仕方あるまい。だが、この旅は、決して無駄にはならん」

 玄庵の言葉は、おみつの不安を少しだけ和らげた。

 古尾は、診療所の帳簿を閉じながら、ちらりと二人を見た。

「江戸のことは、拙者の知り合いに任せてありやすんで、ご心配なく。先生が戻るまで、留守はしっかり守りやしょう」

 古尾の言葉に、玄庵は小さく頷いた。古尾の情報網と人脈は、こんな時にも頼りになる。

 玉藻は、玄庵の足元で、旅の準備をしている彼らの様子をじっと見上げていた。その大きな瞳には、どこか決意の光が宿っている。

「にゃあ」

 玉藻が一声鳴くと、玄庵の肩にひらりと飛び乗った。普段は気ままな玉藻だが、この旅には必ずついていく、という強い意思を示しているようだ。

「玉藻も、まさかそんな場所へ行くのかい?」

 おみつが驚いて問いかけると、古尾が苦笑した。

「先生とは古い付き合いですからねぇ、玉藻様は。放っておけないのでしょう」

 玄庵は、肩に乗った玉藻の頭をそっと撫でた。玉藻が同行してくれることは、玄庵にとって、精神的な支えになるだろう。彼の傍に玉藻がいることで、張り詰めた状況の中でも、わずかな安らぎがもたらされる。

「さて、準備は整いやしたな。明日には、日の出と共に発ちやしょう」

 古尾が告げた。明日の早朝には、隠れ里へ向けて出発だ。

 その夜、おみつは眠れなかった。
これまで、妖怪との関わりはあったものの、本格的な旅に出るのは初めてだ。しかも、向かう先は穢れに侵された妖怪の隠れ里。危険と隣り合わせの旅になることは分かりきっている。

(でも……先生を一人にはできない)

 あの時、あの廃寺で、理性を失いかけた玄庵を目の当たりにして以来、おみつは玄庵の傍にいることの重要性を強く感じていた。

 彼の抱える過去の闇、そして「鬼」の力への恐怖を、彼女は独りで抱え込ませたくなかった。彼女の存在が、彼を人間として繋ぎ止める「枷」となるのなら、どんな危険も厭わない。

 翌朝、夜明け前の薄明かりの中、玄庵、おみつ、古尾、そして玉藻の一行は、静かに鬼灯横丁を出発した。診療所の戸は固く閉ざされ、その上には「しばらく休業いたします」と書かれた札がかけられている。

 江戸の町は、まだ深い眠りについている。わずかに聞こえるのは、彼らの足音と、遠くで犬が吠える声だけだ。

「さあ、まずは山道に入りやしょう。隠れ里へは、人の目から隠された道を通らねばなりやせんからね」

 古尾が先導して、裏通りの細い道へと入っていく。そこは、普段、人間が足を踏み入れないような、うっそうとした木々が立ち並ぶ場所だった。

「こんなところに道が……」

 おみつが驚くと、玄庵が静かに説明した。

「隠れ里は、人間から完全に隔絶された場所だ。そこへ至る道もまた、簡単には見つからぬようになっている」

 道なき道を、一行は進む。
足元はぬかるんでおり、時折、木の枝が顔に当たる。普段の生活では味わうことのない、厳しい道のりだった。しかし、おみつの顔には、不安だけでなく、どこか期待に似た光が宿っていた。

 この旅は、単なる移動ではない。
それは、玄庵の過去に深く踏み込み、蝕組の野望を阻止するための、新たな始まりだ。そして、おみつ自身の成長にとっても、重要な意味を持つことになるだろう。

 彼らは、未知の場所へと足を踏み入れた。その先には、どんな困難が待ち受けているのだろうか。
しかし、彼らの心には、共にこの困難を乗り越えようという、確かな絆が宿っていた。

 鬼灯横丁の明かりが遠ざかり、一行は深い森の中へと消えていった。
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