【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

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第五章:暁光~明日の灯火(ともしび)~

第九十五話:小さな芽生えと、忘れられた祭事

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 蝕組との戦いが終わり、江戸の町には少しずつ日常が戻りつつあった。

 玄庵診療所は、心と体に傷を負った人々と妖怪たちの拠り所として、忙しい日々を送っていた。玄庵は、相変わらず黙々と患者と向き合い、おみつは彼の右腕として、その隣で懸命に働いていた。

 そんな中、江戸のあちこちで、人間と妖怪が互いに助け合い、理解しようとする小さな動きが、静かに芽生え始めていた。

 それは、診療所を訪れる患者たちの変化からも見て取れた。以前なら、妖怪と目が合うことすら恐れた人間が、今では傷ついた妖怪を診療所まで連れてくる。

 また、人間を信用しなかった妖怪が、玄庵とおみつの働きを見て、人間への警戒心を解き始めている。

 ある日、診療所に、足をくじいた小さな河童が運び込まれた。連れてきたのは、近くの漁師だった。

「先生、こいつが井戸に落ちちまって……。可哀想で見てられなくてねぇ」

 漁師は、そう言って、河童を玄庵の診察台にそっと置いた。河童は、怯えたように身を震わせている。

「よく連れてきてくださいました。この子が、怪我を治して、また元気に川で泳げるようにしてあげましょう」

 おみつは、河童に優しく声をかけ、頭をそっと撫でた。河童は、おみつの温かい手に、わずかに身体の震えを止めた。

 玄庵は、手際よく河童の足の処置を終えると、漁師に礼を言った。

「ありがとうございました。この子は、きっと貴方に感謝していることでしょう」
 漁師は、照れたように頭を掻いた。

「いやいや、先生もおみつさんも、妖怪を治すなんて、あんたらくらいなもんだ。おかげで、俺も、妖怪が悪い奴ばかりじゃねぇって、少しはわかったよ」
 漁師はそう言って、診療所を後にした。

 おみつは、こうした光景を目にするたびに、心が温かくなるのを感じた。彼女は、玄庵の「人間と妖怪が共存する世」という夢が、少しずつだが、現実のものになりつつあることを実感していた。

「先生……。こういう小さな繋がりが、きっと、大きな流れになるんでしょうね」

 おみつが、感慨深げに呟くと、玄庵は珍しく優しい眼差しでおみつを見つめた。

「ああ、おみつ。君の力が、多くの人々の心を変えているのだ。君は、人間と妖怪の橋渡し役として、かけがえのない存在だ」
 玄庵の言葉に、おみつは頬を赤らめた。

 おみつは、診療所の仕事の傍ら、人間と妖怪が互いのことを知るための、小さな集いの場を設けることを考え始めていた。

 それは、寺子屋のような堅苦しいものではなく、それぞれの暮らしや文化を語り合う、気軽な茶会のようなものだった。
彼女は、その橋渡し役として、積極的に人々と妖怪の間に入っていく。

 そんな穏やかな日々の中で、おみつは、人々の会話の中に、ある共通の話題が頻繁に出てくることに気づいた。それは、かつてこの地で盛んに行われていたはずの「水源の神を祀る祭り」が廃れて久しいという話だった。

「そういや、今年は、水の祭りもねぇのかねぇ」

「ああ、もう何十年もやってねぇな。昔は、この町一番の賑わいだったんだが……」

 町の古老たちが、寂しそうに語り合っているのを、おみつは耳にした。

「水の祭り、ですか?」
 おみつは、興味を惹かれて尋ねた。

「ああ、そうだ。この辺りの水の恵みに感謝して、水源の神様を祀る祭りだよ。昔は、どの家も水を大切にして、毎年、盛大にやってたもんだが……」
 古老は、遠い目をしながら語った。

 おみつは、その話を聞いて、以前、玄庵診療所の近くにある、荒れ果てた小さな祠のことを思い出した。あの祠は、水神を祀る祠だと、玄庵が言っていた。そして、竜胆が巡回中に見つけた、枯れた井戸や、生育の悪い作物の異変。それら全てが、おみつの頭の中で、一本の線で繋がっていくような気がした。

(水の神様……。あの祠が荒れ果てたことと、何か関係があるのだろうか……?)

 おみつは、心の中で疑問を抱いた。そして、玄庵に、この「水の祭り」について尋ねてみた。

「先生、この辺りでは、昔、水源の神を祀るお祭りがあったそうですね。今では、すっかり廃れてしまったそうですが……」

 おみつの言葉に、玄庵の顔から、わずかに笑みが消えた。彼は、遠い昔を思い出すように、静かに語り始めた。

「ああ……。それは、随分昔の話だが、鬼灯横丁の裏山にある『忘れられた祠』が、同じように荒れ果てていた時も、似たようなことがあったのだ」

 玄庵の言葉に、おみつはハッとした。彼女の脳裏に、玄庵と古尾と共に、裏山の祠を浄化した時の記憶が蘇った。

 玄庵は、当時、子供たちが原因不明の高熱を出し、奇妙な悪夢にうなされているという訴えを聞き、その原因が「穢れ」にあると突き止めた。
古尾の情報から、子供たちが裏山の奥にある「忘れられた祠」に忍び込んで肝試しをしていたことが判明する。
その祠は、長年手入れされず、穢れが溜まり、子供たちがそれに触れたことで病を発症していたのだ。
玄庵は、おみつと古尾と共に祠を清め、穢れを浄化することで、子供たちを救った。
その時、玄庵は、祠の神体が穢れに飲まれかけていることも察知していた。

「あの時も、祠が荒れ果てて、穢れが溜まっていた。そして、穢れが溜まることで、その土地の気の巡りが悪くなり、人々の健康にも影響を及ぼしたのだ。奇病とは異なる、微かな不調が、町全体に広がり始めていた……。まるで、土地そのものが、悲鳴を上げているかのようだった……」

 玄庵は、遠い目をしながら語った。彼は、あの時の経験から、土地の異変と、人々の信仰が深く結びついていることを知っていた。

「そして、今、また同じように、水源の神を祀る祭りが廃れ、祠が荒れている……。
竜胆が言っていた井戸の枯渇や、作物の生育の異変も、これと無関係ではないのかもしれないな」

 玄庵は、そう呟くと、再び遠くの空を見上げた。彼の瞳には、かすかな不安の色が浮かんでいた。しかし、それは、蝕組の穢れのような、禍々しい気配ではなかった。もっと深く、もっと根源的な、土地そのものが抱える悲しみのような、言いようのない感覚だった。

 おみつは、玄庵の言葉に、深く頷いた。
彼女が感じ取っていた「悲しい水の匂い」が、この古き信仰の荒廃と、そして土地の異変に繋がっているのではないかと、強く感じ始めた。

 人間と妖怪の共存という新たな芽生えの裏で、忘れ去られた神々と、土地の悲鳴が、静かに、しかし確実に、新たな脅威の兆候として現れ始めていたのだ。

 玄庵はまだ確信には至っていないが、おみつの感性には、その予兆がはっきりと感じ取られていた。
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