【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

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第六章:古き神々の涙と因果の病

第百三話:山の叫び

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 江戸の町は、因果の病にざわめき始めていた。玄庵診療所には、連日、奇妙な症状を訴える者が後を絶たない。

 その日もまた、新たな患者が運び込まれた。その男は、顔色は蒼白で、耳を両手で強く塞ぎ、まるで何かから逃れるかのように全身を震わせていた。
診察台に横たわる彼の口からは、うわ言のように、意味不明な鳴き声が漏れ続けている。

 「うああ……うるさい……静かにしろ……鳥が……獣が……わめいている……」

 男の言葉は、まるで森の中で迷い込んだ子供のようだった。おみつは、その尋常ならざる様子に、思わず息を呑んだ。

 「先生、これは一体……?」

 玄庵は、男の顔を覗き込み、その瞳の奥に広がる怯えの色を読み取っていた。そして、静かに男の耳元に手をかざす。その瞬間、玄庵の顔に、微かな苦痛の表情が浮かんだ。

 「この男には……森の声が聞こえている」

 玄庵の言葉に、おみつは驚きに目を見開いた。森の声? 
そんなものが、なぜ病の原因となるのか。

 「この者は、山に入り、木を伐る仕事をしていました。しかし、彼が伐ったのは、単なる木ではなかった。そこに宿る、山の神の営みを、無残にも断ち切ってしまったのだ」

 玄庵の言葉は、まるで男の過去を全て見通しているかのようだった。男の症状は、まさにその言葉を裏付けるように、うわ言の合間に、鳥のさえずりや獣の咆哮のような声が混じる。

 「山の神の、怒りと悲しみ……」

 おみつは、静かに呟いた。土地神の涙が、大地を蝕む病を引き起こしたのと同じように、山の神の悲しみが、この男に奇妙な症状をもたらしているのだろうか。

 そこへ、いつものように古尾がひょっこり顔を出した。その手に、今度は山菜がどっさり抱えられている。

 「よお、玄庵さん、おみつさん。今朝も変な病人が運び込まれたってな。山に入ったって奴が、森の動物の声が頭から離れねぇってんで、気が触れちまったって噂だぜ」

 古尾は、山菜を台所に置きながら、そう告げた。その話もまた、玄庵が語る「因果の病」と合致している。

 「古尾。お前は山の事情にも詳しいのだろう。人々の行いが、いかに山神の怒りと悲しみを招いたのか、おみつに話してやれ」

 玄庵の言葉に、古尾は鼻を鳴らした。
 「へいへい。ったく、俺ぁ情報屋だぜ? 山の神の機嫌取りまでしなきゃならねぇとは、世も末だ」

 古尾は、そう言いながら、診療所の隅に座り込み、腕を組んだ。

 「おみつさんよ、山ってのはな、人間にとっちゃ宝の山だ。木材は建材になり、薪にもなる。山菜や獣は食料になり、薬草なんかも豊富に採れる。だがな、山ってのは、ただの資源の塊じゃねぇんだ」

 古尾は、指を立てて語り始めた。
その表情は、普段の飄々としたものとは異なり、どこか真剣な面持ちだった。

 「山には、山神ってやつが宿ってる。山神は、山の全ての生き物、草木、岩に至るまで、その営みを見守り、山の均衡を保つ神様だ。人間が山に入って恵みをいただく時、昔の人はちゃんと山神に感謝を捧げたもんだ。木を一本伐るにも、山の恵みをいただくにも、きちんと作法があったんだ」

 古尾は、そこで一旦言葉を切ると、深く息を吐いた。

 「だがな、近頃の人間ときたら、どうだい? 山に入りゃ、好き勝手に木を伐り倒し、珍しい獣を見つけりゃ、捕まえ放題。己の欲のためだけに、山の掟を破り、山神の領域を荒らしている。そんなことをしてりゃ、山神だって黙っちゃいねぇよ」

 古尾の声には、怒りが混じっているようだった。

 「山神は、人間の無慈悲な行いに悲しみ、怒りを募らせる。その悲しみと怒りが、山の叫びとなって、病として現れるんだ。この目の前の男は、山神の叫びをその身に受けてしまった。森の動物たちの鳴き声が聞こえるのは、山神が、人間が奪い去った命の叫びを、男に聞かせているんだ」

 古尾の言葉は、おみつの心に、すとんと落ちていった。それは、大地を病ませる土地神の涙と同じく、人間の業が、神々の悲しみを呼び起こし、それが病となって現れるという真実だった。

 「では、どうすればこの病を治せるのですか? この叫びを、止めるには……」

 おみつは、不安げに男の震える体を見つめた。玄庵は、ゆっくりと立ち上がると、おみつに視線を向けた。

 「薬だけでは、根本的な治療にはならぬ。この男は、山神の悲しみをその身に負っている。彼に、そして人々に対し、山への畏敬と、奪い去った命への悔い改めを促すこと。それが、治療の第一歩となる」

 玄庵の言葉は、単なる治療を超えて、人々の心そのものに問いかけるようだった。

 「どうやって……? 山に入ったこともない人に、山の神の悲しみを理解させるなんて……」

 おみつの言葉に、古尾が小さくため息をついた。
 「簡単なこたぁねぇな。だが、昔はちゃんとやり方があった。山には、山の神を祀る祠があったんだ。そこで祈りを捧げ、山の恵みに感謝し、掟を守ることを誓う。そうやって、人間と山神は共存してたんだ。まぁ、今となっては、廃れた祠も多いがな」

 古尾の言葉に、玄庵は静かに頷いた。
 「失われた信仰を取り戻すこと。それが、この因果の病を治す鍵となる。そして、それは、人間と妖怪、全ての存在が真に共存できる世界を築く上で、避けては通れぬ道なのだ」

 玄庵の瞳には、遥か遠くを見据えるような光が宿っていた。
この因果の病は、単なる奇病ではない。それは、人間と神々、そしてこの世界そのものが抱える、深い因果の始まり。
玄庵は、その因果の根源へと、足を踏み入れようとしていたのだ。

 おみつは、診察台の男と、その横に立つ玄庵を交互に見つめた。彼らがこれから挑む道は、決して平坦ではないだろう。

 しかし、彼女の心には、不思議と恐れはなかった。玄庵と共に、この「因果の病」の謎を解き明かし、人々が神々との絆を取り戻す手助けをしたい。そう強く願った。

 その夜、玄庵は、患者の男の枕元に座り、静かに目を閉じていた。
男の耳からは、相変わらず、森の叫びが聞こえているようだったが、玄庵の存在が、その苦しみをわずかに和らげているようにも見えた。

 玄庵の脳裏には、かつて夢で見た、悲しみに満ちた顔の古き神々の姿が鮮やかに蘇る。この病は、始まりに過ぎない。
この先、どのような試練が待ち受けているのか、玄庵にはまだ計り知れない。

 しかし、彼の心には、確かな覚悟が宿っていた。この因果の病を治すこと。それが、彼に課せられた新たな使命だと。

 夜の帳が下りた鬼灯横丁には、静かな決意の灯が揺れていた。
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