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第六章:古き神々の涙と因果の病
第百六話:水辺の奇病
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江戸の町に蔓延する因果の病は、土地を蝕むだけでなく、水辺の暮らしにも影を落とし始めていた。
玄庵診療所には、日ごとにその症状を悪化させる患者たちが運び込まれ、玄庵とおみつは、休む間もなく彼らの診察に当たっていた。
その日、診療所の戸が慌ただしく開かれ、二人の男が息を切らして駆け込んできた。
彼らが担ぎ込んできたのは、顔は青白く、唇は紫に変色し、全身が水膨れのように大きく膨れ上がった若い漁師だった。まるで、水底から引き上げられたかのように、彼の体からは、生臭い水の匂いが漂っていた。
「先生! 頼みます、この友を助けてくだせぇ! 今朝、漁に出てから戻ってこねぇと思ったら、こんな姿に……!」
男の一人が、玄庵に縋り付くように訴えた。漁師の体は、見る見るうちに水気を帯びていき、苦しげな呼吸を繰り返している。
その息遣いは、まるで水中で溺れているかのようだった。
玄庵は、漁師の体にそっと触れた。
その肌は冷たく、膨らんだ皮膚の奥から、不気味な脈動が伝わってくる。玄庵の脳裏には、先日の水神の因果を抱えた女の姿が蘇った。しかし、この漁師の症状は、それよりもはるかに深刻だった。
「これは……水神の因果の中でも、特に重い……」
玄庵の呟きに、おみつは顔色を変えた。彼女の鼻腔を、以前にも増して強烈な「悲しい水の匂い」と、「冷たい湿り気」が刺激した。それは、水神の、言いようのない深い悲しみが、この漁師の身に現れているかのようだった。
「おみつ、この者の心に、深く触れてみろ」
玄庵の言葉に、おみつは頷き、漁師の手にそっと触れた。
すると、彼女の指先から、温かい光が漁師の体へと流れ込み、水膨れがわずかに、しかし確かに引いていくのが見て取れた。しかし、その顔色は依然として青白いままだ。
おみつの心に、漁師の過去が、断片的に流れ込んできた。
彼は、常に大漁を願い、効率を追い求めていた。より多くの魚を獲るために、網を広げ、禁漁区にも平気で足を踏み入れ、小さな魚の群れまで根こそぎ獲り尽くす。獲りすぎた魚は、惜しげもなく川に捨て、汚水を流すことにも何の躊躇もなかった。
水神の恵みを、当然のように享受し、感謝することなく、ただ奪い尽くす行為を繰り返してきたのだ。
その記憶と共に、おみつの心に、冷たい悲しみが押し寄せた。それは、漁師の心に宿る「水への傲慢さ」であり、同時に、水神の「深い嘆き」だった。
まるで、水神が、自らの命を削り取られるかのような痛みを、この漁師の身に、病として現しているかのようだった。
「この方は……水を、ひどく汚してきました……。そして、水から、奪い尽くしてきた……」
おみつが、震える声で告げた。その言葉は、まるで水神の嘆きを代弁しているかのようだった。
そこへ、古尾が慌ただしく診療所に飛び込んできた。彼の顔色は、普段の飄々としたものとは異なり、青ざめていた。
「玄庵さん、おみつさん! 大変だ! 隅田川が……隅田川の水が、急に澱(よど)み始めたんだ! 魚も浮いてきて、とんでもねぇことになってるって噂だぜ!」
古尾の言葉に、玄庵とおみつは目を見開いた。隅田川は、江戸の町を流れる重要な水源であり、多くの人々の生活を支える大動脈だ。その水が澱むなど、これまで聞いたことがない。
「それは……水神の怒りが、顕れている証だ」
玄庵の言葉は、静かだが、その中に、有無を言わせぬ響きがあった。
「おいおい、玄庵さん、まさか、この病気と、隅田川の異変が関係あるってのか?」
古尾が、信じられないといった様子で問いかけた。
「関係ある、というより、同じ根源から生まれている。人々の水への無関心と、感謝の欠如。それが、水神の悲しみを呼び起こし、今、この漁師の身に、そして隅田川に、病として現れているのだ」
玄庵の言葉に、古尾は顔色をさらに悪くした。
「そんな馬鹿な……。俺たち妖怪にとっちゃ、水はただの水だ。だが、神様にとっちゃ、自分自身の体みてぇなもんだってか……?」
古尾の言葉は、核心を突いていた。神々にとって、自然とは、自らの存在そのものなのだ。人間が自然を汚し、破壊することは、すなわち神々を傷つけることに他ならない。
「この漁師の病は、水神の苦痛がそのまま形になったもの。水中で溺れるような息苦しさも、体が水膨れになるのも、水神が、人間によって奪われ、汚された水の中で、もがき苦しんでいる証なのだ」
玄庵の言葉に、おみつは胸を締め付けられた。この漁師が、単なる病に苦しんでいるのではない。水神の、途方もない悲しみと怒りが、その身に宿っているのだ。
「先生……この漁師を救うには、どうすれば……」
おみつは、玄庵に問いかけた。薬や術だけでは、この病を治すことはできない。それは、痛いほど理解していた。
玄庵は、静かに目を閉じた。彼の脳裏に、太古の儀式の光景が蘇る。人々が水辺に集い、水神に感謝を捧げ、その恵みを乞う姿。それは、現代の江戸では忘れ去られた、古き信仰の姿だった。
「彼を救うには、水神の悲しみを癒やす必要がある。彼自身の心に、水への畏敬と、奪い尽くしたことへの悔い改めを促すこと。そして、この江戸の町全体に、水への感謝の念を取り戻させることだ」
玄庵の言葉は、あまりにも途方もない響きを持っていた。個人の意識を変えるだけでも難しいのに、町全体の意識を変えるなど、並大抵のことではない。
その夜、玄庵診療所では、漁師の苦しげな呼吸が、静かな夜の闇に響き渡っていた。玄庵は、彼の枕元に座り、その体に微かな気を送り続けている。
おみつは、その隣で、漁師の手にそっと触れ、自身の共感の力で、彼の心に宿る罪悪感を和らげようと試みていた。彼女の浄化の光が、漁師の体を包み込み、水膨れが、わずかながらも引いていくのが見て取れた。
古尾は、診療所の隅で、そんな二人の様子を静かに見守っていた。普段の彼なら、こんな深刻な状況に顔を出すことはないだろう。だが、隅田川の異変は、彼にとっても看過できない事態だった。
「ったく、神様ってのも、怒らせると厄介だぜ……」
古尾は、そう呟くと、大きく息を吐いた。
この水辺の奇病は、単なる病ではない。それは、人々が忘れ去った水神への信仰と、水への感謝の念を取り戻すための、神々からの最後の警告なのかもしれない。玄庵とおみつは、この新たな試練に対し、いかに立ち向かうのか。
夜の帳が下りた鬼灯横丁には、重い、しかし確かな決意の灯が揺れていた。
玄庵診療所には、日ごとにその症状を悪化させる患者たちが運び込まれ、玄庵とおみつは、休む間もなく彼らの診察に当たっていた。
その日、診療所の戸が慌ただしく開かれ、二人の男が息を切らして駆け込んできた。
彼らが担ぎ込んできたのは、顔は青白く、唇は紫に変色し、全身が水膨れのように大きく膨れ上がった若い漁師だった。まるで、水底から引き上げられたかのように、彼の体からは、生臭い水の匂いが漂っていた。
「先生! 頼みます、この友を助けてくだせぇ! 今朝、漁に出てから戻ってこねぇと思ったら、こんな姿に……!」
男の一人が、玄庵に縋り付くように訴えた。漁師の体は、見る見るうちに水気を帯びていき、苦しげな呼吸を繰り返している。
その息遣いは、まるで水中で溺れているかのようだった。
玄庵は、漁師の体にそっと触れた。
その肌は冷たく、膨らんだ皮膚の奥から、不気味な脈動が伝わってくる。玄庵の脳裏には、先日の水神の因果を抱えた女の姿が蘇った。しかし、この漁師の症状は、それよりもはるかに深刻だった。
「これは……水神の因果の中でも、特に重い……」
玄庵の呟きに、おみつは顔色を変えた。彼女の鼻腔を、以前にも増して強烈な「悲しい水の匂い」と、「冷たい湿り気」が刺激した。それは、水神の、言いようのない深い悲しみが、この漁師の身に現れているかのようだった。
「おみつ、この者の心に、深く触れてみろ」
玄庵の言葉に、おみつは頷き、漁師の手にそっと触れた。
すると、彼女の指先から、温かい光が漁師の体へと流れ込み、水膨れがわずかに、しかし確かに引いていくのが見て取れた。しかし、その顔色は依然として青白いままだ。
おみつの心に、漁師の過去が、断片的に流れ込んできた。
彼は、常に大漁を願い、効率を追い求めていた。より多くの魚を獲るために、網を広げ、禁漁区にも平気で足を踏み入れ、小さな魚の群れまで根こそぎ獲り尽くす。獲りすぎた魚は、惜しげもなく川に捨て、汚水を流すことにも何の躊躇もなかった。
水神の恵みを、当然のように享受し、感謝することなく、ただ奪い尽くす行為を繰り返してきたのだ。
その記憶と共に、おみつの心に、冷たい悲しみが押し寄せた。それは、漁師の心に宿る「水への傲慢さ」であり、同時に、水神の「深い嘆き」だった。
まるで、水神が、自らの命を削り取られるかのような痛みを、この漁師の身に、病として現しているかのようだった。
「この方は……水を、ひどく汚してきました……。そして、水から、奪い尽くしてきた……」
おみつが、震える声で告げた。その言葉は、まるで水神の嘆きを代弁しているかのようだった。
そこへ、古尾が慌ただしく診療所に飛び込んできた。彼の顔色は、普段の飄々としたものとは異なり、青ざめていた。
「玄庵さん、おみつさん! 大変だ! 隅田川が……隅田川の水が、急に澱(よど)み始めたんだ! 魚も浮いてきて、とんでもねぇことになってるって噂だぜ!」
古尾の言葉に、玄庵とおみつは目を見開いた。隅田川は、江戸の町を流れる重要な水源であり、多くの人々の生活を支える大動脈だ。その水が澱むなど、これまで聞いたことがない。
「それは……水神の怒りが、顕れている証だ」
玄庵の言葉は、静かだが、その中に、有無を言わせぬ響きがあった。
「おいおい、玄庵さん、まさか、この病気と、隅田川の異変が関係あるってのか?」
古尾が、信じられないといった様子で問いかけた。
「関係ある、というより、同じ根源から生まれている。人々の水への無関心と、感謝の欠如。それが、水神の悲しみを呼び起こし、今、この漁師の身に、そして隅田川に、病として現れているのだ」
玄庵の言葉に、古尾は顔色をさらに悪くした。
「そんな馬鹿な……。俺たち妖怪にとっちゃ、水はただの水だ。だが、神様にとっちゃ、自分自身の体みてぇなもんだってか……?」
古尾の言葉は、核心を突いていた。神々にとって、自然とは、自らの存在そのものなのだ。人間が自然を汚し、破壊することは、すなわち神々を傷つけることに他ならない。
「この漁師の病は、水神の苦痛がそのまま形になったもの。水中で溺れるような息苦しさも、体が水膨れになるのも、水神が、人間によって奪われ、汚された水の中で、もがき苦しんでいる証なのだ」
玄庵の言葉に、おみつは胸を締め付けられた。この漁師が、単なる病に苦しんでいるのではない。水神の、途方もない悲しみと怒りが、その身に宿っているのだ。
「先生……この漁師を救うには、どうすれば……」
おみつは、玄庵に問いかけた。薬や術だけでは、この病を治すことはできない。それは、痛いほど理解していた。
玄庵は、静かに目を閉じた。彼の脳裏に、太古の儀式の光景が蘇る。人々が水辺に集い、水神に感謝を捧げ、その恵みを乞う姿。それは、現代の江戸では忘れ去られた、古き信仰の姿だった。
「彼を救うには、水神の悲しみを癒やす必要がある。彼自身の心に、水への畏敬と、奪い尽くしたことへの悔い改めを促すこと。そして、この江戸の町全体に、水への感謝の念を取り戻させることだ」
玄庵の言葉は、あまりにも途方もない響きを持っていた。個人の意識を変えるだけでも難しいのに、町全体の意識を変えるなど、並大抵のことではない。
その夜、玄庵診療所では、漁師の苦しげな呼吸が、静かな夜の闇に響き渡っていた。玄庵は、彼の枕元に座り、その体に微かな気を送り続けている。
おみつは、その隣で、漁師の手にそっと触れ、自身の共感の力で、彼の心に宿る罪悪感を和らげようと試みていた。彼女の浄化の光が、漁師の体を包み込み、水膨れが、わずかながらも引いていくのが見て取れた。
古尾は、診療所の隅で、そんな二人の様子を静かに見守っていた。普段の彼なら、こんな深刻な状況に顔を出すことはないだろう。だが、隅田川の異変は、彼にとっても看過できない事態だった。
「ったく、神様ってのも、怒らせると厄介だぜ……」
古尾は、そう呟くと、大きく息を吐いた。
この水辺の奇病は、単なる病ではない。それは、人々が忘れ去った水神への信仰と、水への感謝の念を取り戻すための、神々からの最後の警告なのかもしれない。玄庵とおみつは、この新たな試練に対し、いかに立ち向かうのか。
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