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第六章:古き神々の涙と因果の病
第百七話:水神の嘆き
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江戸の町を覆う異様な湿気は、日に日にその濃度を増し、人々の暮らしに不穏な影を落としていた。
玄庵診療所に運び込まれた漁師の病状は、一向に回復の兆しを見せず、全身の水膨れは、まるで体内に濁った水を溜め込んでいるかのようだった。
彼の苦しげな息遣いは、水底の藻屑となった魚たちの断末魔にも似て、おみつの心を締め付けた。
「先生……この漁師さん、本当に苦しそうです……」
おみつは、漁師の枕元で、その冷たい手にそっと触れた。彼女の浄化の光が、漁師の体にわずかながら暖かさを与えるが、病の根源を癒やすには至らない。
彼女の鼻腔を突く「悲しい水の匂い」は、もはや耐え難いほどに強くなっていた。それは、水神の嘆きが、この診療所に満ちているかのようだった。
玄庵は、漁師の脈を測りながら、その顔に深い思索の表情を浮かべていた。
隅田川の異変は、日を追うごとに悪化しているという。魚たちは大量に浮き上がり、川岸には腐敗した水の匂いが充満している。このままでは、江戸の町そのものが、病に沈んでしまうだろう。
「これは、水神の、因果の涙だ。そして、その嘆きは、この漁師の身に、そして隅田川に、そのまま顕れている」
玄庵の言葉は、静かだが、その重みに、おみつは息を呑んだ。
「水神が、なぜこれほどまでに嘆いているのでしょう……?」
おみつの問いに、玄庵はゆっくりと頷いた。
「古尾が言った通り、神々は、自らの恵みを無慈悲に奪い、感謝の心を忘れた人々に、悲しみと怒りを抱く。この漁師は、水神の恵みを貪り、その営みを破壊してきた。隅田川の異変もまた、人々が川を汚し、水神の領域を侵してきた結果だ」
その時、診療所の戸が、勢いよく開かれた。息を切らせて駆け込んできたのは、古尾だった。彼の顔は、普段の飄々とした表情を失い、焦燥の色に染まっていた。
「玄庵さん! おみつさん! 大変だ! 川筋に住む連中が、次々と倒れてるって噂だぜ! みんな、この漁師みてぇに、体が水膨れになって、溺れるような息苦しさを訴えてるってよ!」
古尾の報告は、玄庵の予感を裏付けるものだった。因果の病は、もはや特定の個人に留まらず、水辺の暮らしを営む人々へと、広がりを見せている。
「やはり、水神の嘆きは、江戸全体へと広がっているのだな」
玄庵は、そう呟くと、静かに立ち上がった。
「おいおい、玄庵さん、どうするってんだい? こりゃ、薬で治るような病じゃねぇだろ?」
古尾が、不安げに玄庵を見上げた。玄庵は、ゆっくりと首を横に振った。
「ああ、薬だけでは、根本的な解決にはならぬ。人々の心を変え、水神への償いを促す必要がある」
その言葉に、おみつは改めて自身の力を思い出した。彼女の「浄化の力」は、人々の心に宿る罪悪感を和らげ、神々の悲しみを癒やすことができる。しかし、広範囲に広がるこの病を前に、彼女一人の力で何ができるというのか。
「先生……私に、何ができるでしょう?」
おみつは、不安と焦燥に駆られながら、玄庵に問いかけた。
玄庵は、おみつの瞳をじっと見つめた。
「おみつ、お前の浄化の力は、単なる穢れを清めるだけではない。その力は、因果の根源に触れ、人々の心に宿る罪悪感を、視覚化し、そして和らげる。この病を癒やすには、水神への償いと、感謝の念を取り戻す必要がある。そのためには、お前の力が不可欠だ」
玄庵の言葉は、おみつの心に、確かな希望の光を灯した。視覚化。その言葉に、おみつはハッとした。
玄庵は、古尾に一つの指示を出した。
「古尾、川筋の穢れが溜まっている場所を探し、私に知らせろ。そして、この漁師の家族を、ここに呼べ」
古尾は、玄庵の言葉に、訝しげな表情を浮かべたが、その瞳の奥には、確かな信頼が宿っていた。
「へいへい、承知したぜ、玄庵さん。だが、あんまり無理はするんじゃねぇぞ」
古尾は、そう言い残して診療所を飛び出していった。
しばらくして漁師の家族が集まると、玄庵は、おみつに指示を出した。
「おみつ。お前の力で、この漁師の心に宿る、水神への罪悪感を、視覚化してみろ」
おみつは、不安な面持ちで頷き、改めて漁師の手に触れた。目を閉じ、集中する。すると、彼女の心の中に、濁った水が広がる光景が、鮮明に浮かび上がってきた。
それは、漁師が捨てた魚の死骸、流した汚水、そして、根こそぎ獲り尽くされた水中の命たちの姿だった。そして、その濁った水の中に、悲しみに顔を歪ませる、水神の姿が、ぼんやりと見えた。
「見えます……! 濁った水が……魚の死骸が……そして、水神様が……悲しんでいらっしゃる……!」
おみつの言葉は、まるで彼女自身が、その光景を体験しているかのようだった。その光景が、漁師の心に、そして彼の家族の心にも、微かながら伝わっていく。彼らは、おみつの言葉に、ハッと目を見開いた。
「そんな……私たちが、水神様を……」
漁師の妻が、震える声で呟いた。その目に、後悔と懺悔の念が浮かぶ。
玄庵は、その様子を静かに見守っていた。おみつの「浄化の力」は、人々の心に潜む「罪悪感」を視覚化し、それを認識させることで、悔い改めと感謝の心を芽生えさせる。それが、水神の嘆きを癒やし、因果の病を根本から治す道なのだ。
おみつは、漁師の手に触れ続け、水神の悲しみを、彼の心に、そして彼を囲む家族の心に、伝え続けた。濁った水の光景は、彼らの心の中で、徐々に清らかな水へと変わっていく。それは、彼らの罪悪感が浄化され、水神への感謝と畏敬の念が芽生えている証だった。
その夜、漁師の熱は、微かながら引いていった。全身の水膨れも、わずかにだが小さくなったように見えた。それは、完全に治癒したわけではない。しかし、病の根源である「因果」が、浄化され始めた確かな兆候だった。
夜の帳が下りた鬼灯横丁には、静かな祈りの声が響いていた。水神の嘆きは、依然として江戸の町を覆っている。しかし、おみつの浄化の力と、玄庵の導きによって、人々は、忘れ去られた信仰と、神々への感謝の念を、ゆっくりと取り戻し始めていた。
この水辺の奇病は、単なる病ではない。それは、人々が忘れ去った水神への信仰と、水への感謝の念を取り戻すための、神々からの最後の警告なのかもしれない。玄庵とおみつは、この新たな試練に対し、いかに立ち向かうのか。
夜の帳が下りた鬼灯横丁には、重い、しかし確かな決意の灯が揺れていた。
玄庵診療所に運び込まれた漁師の病状は、一向に回復の兆しを見せず、全身の水膨れは、まるで体内に濁った水を溜め込んでいるかのようだった。
彼の苦しげな息遣いは、水底の藻屑となった魚たちの断末魔にも似て、おみつの心を締め付けた。
「先生……この漁師さん、本当に苦しそうです……」
おみつは、漁師の枕元で、その冷たい手にそっと触れた。彼女の浄化の光が、漁師の体にわずかながら暖かさを与えるが、病の根源を癒やすには至らない。
彼女の鼻腔を突く「悲しい水の匂い」は、もはや耐え難いほどに強くなっていた。それは、水神の嘆きが、この診療所に満ちているかのようだった。
玄庵は、漁師の脈を測りながら、その顔に深い思索の表情を浮かべていた。
隅田川の異変は、日を追うごとに悪化しているという。魚たちは大量に浮き上がり、川岸には腐敗した水の匂いが充満している。このままでは、江戸の町そのものが、病に沈んでしまうだろう。
「これは、水神の、因果の涙だ。そして、その嘆きは、この漁師の身に、そして隅田川に、そのまま顕れている」
玄庵の言葉は、静かだが、その重みに、おみつは息を呑んだ。
「水神が、なぜこれほどまでに嘆いているのでしょう……?」
おみつの問いに、玄庵はゆっくりと頷いた。
「古尾が言った通り、神々は、自らの恵みを無慈悲に奪い、感謝の心を忘れた人々に、悲しみと怒りを抱く。この漁師は、水神の恵みを貪り、その営みを破壊してきた。隅田川の異変もまた、人々が川を汚し、水神の領域を侵してきた結果だ」
その時、診療所の戸が、勢いよく開かれた。息を切らせて駆け込んできたのは、古尾だった。彼の顔は、普段の飄々とした表情を失い、焦燥の色に染まっていた。
「玄庵さん! おみつさん! 大変だ! 川筋に住む連中が、次々と倒れてるって噂だぜ! みんな、この漁師みてぇに、体が水膨れになって、溺れるような息苦しさを訴えてるってよ!」
古尾の報告は、玄庵の予感を裏付けるものだった。因果の病は、もはや特定の個人に留まらず、水辺の暮らしを営む人々へと、広がりを見せている。
「やはり、水神の嘆きは、江戸全体へと広がっているのだな」
玄庵は、そう呟くと、静かに立ち上がった。
「おいおい、玄庵さん、どうするってんだい? こりゃ、薬で治るような病じゃねぇだろ?」
古尾が、不安げに玄庵を見上げた。玄庵は、ゆっくりと首を横に振った。
「ああ、薬だけでは、根本的な解決にはならぬ。人々の心を変え、水神への償いを促す必要がある」
その言葉に、おみつは改めて自身の力を思い出した。彼女の「浄化の力」は、人々の心に宿る罪悪感を和らげ、神々の悲しみを癒やすことができる。しかし、広範囲に広がるこの病を前に、彼女一人の力で何ができるというのか。
「先生……私に、何ができるでしょう?」
おみつは、不安と焦燥に駆られながら、玄庵に問いかけた。
玄庵は、おみつの瞳をじっと見つめた。
「おみつ、お前の浄化の力は、単なる穢れを清めるだけではない。その力は、因果の根源に触れ、人々の心に宿る罪悪感を、視覚化し、そして和らげる。この病を癒やすには、水神への償いと、感謝の念を取り戻す必要がある。そのためには、お前の力が不可欠だ」
玄庵の言葉は、おみつの心に、確かな希望の光を灯した。視覚化。その言葉に、おみつはハッとした。
玄庵は、古尾に一つの指示を出した。
「古尾、川筋の穢れが溜まっている場所を探し、私に知らせろ。そして、この漁師の家族を、ここに呼べ」
古尾は、玄庵の言葉に、訝しげな表情を浮かべたが、その瞳の奥には、確かな信頼が宿っていた。
「へいへい、承知したぜ、玄庵さん。だが、あんまり無理はするんじゃねぇぞ」
古尾は、そう言い残して診療所を飛び出していった。
しばらくして漁師の家族が集まると、玄庵は、おみつに指示を出した。
「おみつ。お前の力で、この漁師の心に宿る、水神への罪悪感を、視覚化してみろ」
おみつは、不安な面持ちで頷き、改めて漁師の手に触れた。目を閉じ、集中する。すると、彼女の心の中に、濁った水が広がる光景が、鮮明に浮かび上がってきた。
それは、漁師が捨てた魚の死骸、流した汚水、そして、根こそぎ獲り尽くされた水中の命たちの姿だった。そして、その濁った水の中に、悲しみに顔を歪ませる、水神の姿が、ぼんやりと見えた。
「見えます……! 濁った水が……魚の死骸が……そして、水神様が……悲しんでいらっしゃる……!」
おみつの言葉は、まるで彼女自身が、その光景を体験しているかのようだった。その光景が、漁師の心に、そして彼の家族の心にも、微かながら伝わっていく。彼らは、おみつの言葉に、ハッと目を見開いた。
「そんな……私たちが、水神様を……」
漁師の妻が、震える声で呟いた。その目に、後悔と懺悔の念が浮かぶ。
玄庵は、その様子を静かに見守っていた。おみつの「浄化の力」は、人々の心に潜む「罪悪感」を視覚化し、それを認識させることで、悔い改めと感謝の心を芽生えさせる。それが、水神の嘆きを癒やし、因果の病を根本から治す道なのだ。
おみつは、漁師の手に触れ続け、水神の悲しみを、彼の心に、そして彼を囲む家族の心に、伝え続けた。濁った水の光景は、彼らの心の中で、徐々に清らかな水へと変わっていく。それは、彼らの罪悪感が浄化され、水神への感謝と畏敬の念が芽生えている証だった。
その夜、漁師の熱は、微かながら引いていった。全身の水膨れも、わずかにだが小さくなったように見えた。それは、完全に治癒したわけではない。しかし、病の根源である「因果」が、浄化され始めた確かな兆候だった。
夜の帳が下りた鬼灯横丁には、静かな祈りの声が響いていた。水神の嘆きは、依然として江戸の町を覆っている。しかし、おみつの浄化の力と、玄庵の導きによって、人々は、忘れ去られた信仰と、神々への感謝の念を、ゆっくりと取り戻し始めていた。
この水辺の奇病は、単なる病ではない。それは、人々が忘れ去った水神への信仰と、水への感謝の念を取り戻すための、神々からの最後の警告なのかもしれない。玄庵とおみつは、この新たな試練に対し、いかに立ち向かうのか。
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