【完結】『大江戸妖怪診療所～奇病を治すは鬼の医者～』

第八章：敵の帰還、最終決戦

第百三十六話：絶体絶命、その時現れたのは…

　戒が巨大な影と化し、祭祀場全体を覆い尽くすほどの禍々しい霊気を放った時、玄庵は全身に激痛が走るのを感じた。

　覚醒しかけている真の依代の力が、戒の圧倒的な力に押し潰されそうになっている。

「ぐぅっ……！」

　玄庵の口から、苦悶の呻きが漏れる。彼の体を覆う青い光が、まるで今にも消え入りそうに揺らいでいた。戒の放つ霊波は、ただの攻撃ではない。それは、魂そのものを蝕むような、底知れぬ重圧であった。

「先生！」

　おみつが、玄庵の名を叫んだ。彼女の浄化の言霊が、かろうじて周囲の瘴気を押しとどめているものの、戒の力の前にあっては、まるでそよ風のようであった。彼女の瞳には、不安と恐怖の色が滲む。

　古尾が、歯を食いしばりながら、玄庵を援護しようと狐火を放つ。しかし、その炎は、巨大な影の力を前に、あっけなく掻き消されてしまう。

　「ちくしょう！　こんなの、ありかよ！」

　竜胆もまた、破魔の札を幾重にも重ねて放ったが、戒の影は、それをものともせずに玄庵に迫る。

　「退け、玄庵！　このままでは、貴様が……！」

　しかし、玄庵は退かなかった。彼の眼差しは、依然として戒をまっすぐに見据えている。諦めではない。そこには、ただ、この世界を護るという、揺るぎない覚悟が宿っていた。

「無駄だ。貴様の力など、もはや我が世界を創造するための糧に過ぎぬ」

　戒の巨大な影が、玄庵の頭上へと迫る。その手からは、闇色の雷のようなものがほとばしり、玄庵を呑み込もうとしていた。万事休す。誰もがそう思った、その時であった。

　祭祀場の広間に、突如として黒い風が吹き荒れた。その風は、戒の放つ瘴気を一瞬にして吹き飛ばし、広間の一部に、わずかながら清浄な空間を作り出した。

　そして、その風の中から、一人の男が姿を現した。漆黒の衣を纏い、その顔の半分は布で隠されている。しかし、その鋭い眼光は、決して見間違うことはない。

「影……！」

　竜胆が、驚愕に声を上げた。かつて、彼らと敵対し、幾度となくその命を狙った、蝕組の頭領。憎むべき仇敵であったはずの男が、今、彼らの目の前に立っていたのだ。

　影は、戒の放つ闇色の雷を、その身ひとつで受け止めた。雷は彼の体を打ち据えたが、影は微動だにしない。その体からは、黒い瘴気とは異なる、しかし力強い妖気が立ち上っていた。

「貴様……なぜここにいる」

　戒の声に、わずかな動揺が混じった。影の出現は、戒にとって、完全に予想外の出来事であったようだった。

　影は、ゆっくりと戒に視線を向けた。その瞳の奥には、憎悪ではなく、どこか諦めにも似た、しかし確固たる意志が宿っている。

　「貴様の戯言を聞きに来たわけではない。ただ……借りがある」

　その言葉は、玄庵に向けられたものであった。生命の泉での戦い。あの時、玄庵は影に勝利しながらも、その命を奪うことはしなかった。その借り。そして、影自身の魂が、深い闇から抜け出そうと、もがき苦しんだ末に辿り着いた、一つの答え。

　影は、玄庵の隣に、静かに立った。かつての敵が、今、友のように背中を合わせる。その光景は、おみつたちにとって、信じられないものであった。

「影……お前、なぜ……」

　古尾が、呆然と呟いた。彼にとって、影は、玄庵と同じくらい謎めいた存在であった。

　玉藻は、影の足元に擦り寄ると、にゃあ、と一声鳴いた。その瞳には、強い意志が宿っている。まるで、影の心の変化を、猫の鋭い感性で感じ取っているかのようであった。

「余計なことをするな、影！　貴様もまた、この世界の穢れの一部。浄化されるべき存在だ！」

　戒は、影の介入に激怒し、さらに巨大な闇色の雷を放った。しかし、影はそれを冷静に見切り、玄庵の前に立ちはだかった。

「貴様の歪んだ理など、この世には不要だ。この男が、真の依代の光ならば、私はそれを護る」

　影の言葉には、確固たる決意が宿っていた。生命の泉での敗北を経て、影は己の過ちを悟り、長い時間をかけて、自らの魂を浄化してきたのだ。憎しみや怨嗟ではなく、ただ、真の贖罪のために、彼は今ここに立っている。

　玄庵は、影の背中を見つめた。彼の表情には、驚きと同時に、深い理解の色が浮かんでいる。

　「影……」

　かつての最大の敵が、今、己を護る盾となる。この奇妙な巡り合わせが、彼らの運命を、そしてこの世界の未来を、大きく変えることになるだろう。戒の怒りが、祭祀場全体を揺るがし、歪んだ神の依代の力が、さらに暴走を始めた。

　しかし、玄庵の心には、影という新たな希望の光が灯っていた。