『土の記憶〜左官 龍吉捕物控〜』

月影 朔

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第一章:不穏な依頼

第三話:壁の検分

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 翌朝、龍吉は定刻通り、堀田将監の屋敷の前に立っていた。

 大身旗本とあって、その門構えは威風堂々としている。しかし、門を潜る前に、龍吉はわずかに立ち止まった。どこか、空気が張り詰めているように感じられたのだ。

 まるで、これから中に足を踏み入れる者が、常に何者かの視線に晒されているような、抑圧された空気だった。

 門番に名を告げると、すぐに通された。案内役は、昨日の侍とは違う、恰幅の良い初老の男だった。屋敷の番頭を務めているという。番頭は愛想笑いを浮かべているが、その目は忙しなく動き、どこか落ち着かない。

「お待ちしておりました、龍吉殿。番頭の吾平と申します。どうぞ、こちらへ」

 吾平に促され、屋敷の中を進む。広大な庭園、手入れの行き届いた廊下。しかし、そこに漂うのは閑静さではなく、ひしひしとした緊張感だった。行き交う侍たちの足音はどこか急ぎ足で、その表情には硬さが浮かんでいる。普段の武家屋敷とは、明らかに雰囲気が違った。

(…何かが違う)

 龍吉は、言葉には出さずとも、五感を研ぎ澄ませて周囲の様子を探った。壁の色、柱の木目、畳の匂い、そして聞こえてくる微かな物音。左官として、建物の細部にまで意識を向ける彼の感覚は、些細な違和感も見逃さなかった。

 目的の蔵は、屋敷の奥まった場所に位置していた。近づくにつれて、焦げ付いたような匂いが濃くなる。蔵の外観は、一部が黒く煤け、壁が剥がれ落ちている箇所もあった。火事の爪痕が生々しく残っている。

「ここが、その蔵でございます」

 吾平は蔵の前に立ち、神妙な面持ちで言った。
「ご覧の通り、一部がひどく焼けてしまいまして。中の品は無事でしたが、壁を堅牢に改修せねば、将監様もご心配で…」

 龍吉は吾平の言葉には答えず、蔵全体を見渡した。そして、ゆっくりと蔵の周囲を回り始めた。焼け焦げた壁に触れ、その感触を確かめる。煤の付き方、土壁の崩れ方、木材の炭化の具合…。左官としての知識と経験が、その痕跡から火災の状況を読み解いていく。

「火元は…このあたりですか」

 龍吉が指差したのは、蔵の角、地面からさほど高くない位置だった。吾平は目を見張り、頷いた。

「ええ、まさしく。そこから火の手が上がったようで。しかし、不思議なことに、その一点だけが激しく燃え上がり、あとは比較的軽微で済んだのです。まるで、狙われたかのようで…」

 吾平はそこまで言いかけて口を噤んだ。龍吉は言葉の続きを促さず、蔵の壁にさらに近づいた。剥がれ落ちた壁の断面、露出した竹小舞。そこにも、龍吉の目は止まる。竹の焼け方、藁すさの炭化具合。単なる自然発火や失火ではありえない、不自然な熱の集中を感じる。

 次に、龍吉は蔵の内部に入った。焼け焦げた匂いが鼻腔を衝く。内部もまた、壁の一部が黒く焼け焦げていた。龍吉は壁の前に立ち、じっと壁を見つめた。指先で煤を撫で、壁土の質感を確かめる。古い土、新しい土。塗り重ねられた歴史が、壁には刻まれている。

(これは…)

 龍吉の眉間に皺が寄った。壁の一部に、他の箇所とは異なる、微細な亀裂が入っているのを見つけたのだ。それは、火災による熱で生じたものとは違う、何か鋭利なもので引っ掻かれたような、あるいは特定の圧力が加えられたような痕跡だった。しかも、その亀裂は、規則的に、特定のパターンを描いているように見えた。

 さらに龍吉は、壁の別の箇所を注意深く検分した。天井近くの壁。そこには、火災による煤だけでなく、何かが擦れたような、あるいは滑り落ちたような微かな痕跡があった。しかも、それは壁の上部から下に向かって、一直線に続いているように見えた。

(ここから…侵入した?)

 龍吉の中に、一つの推測が生まれる。火元はあくまで陽動で、本当の目的は別の場所から侵入し、蔵の中の何かを奪うことだったのではないか。壁に残された痕跡は、侵入者が壁や建物の構造を熟知しており、巧みにそれを利用した証拠のように思えた。

「吾平殿、この蔵の壁は、これまで何度か改修されておりますな?」

 龍吉が問うと、吾平は少し驚いた顔をした。
「お、お分かりになりますか。ええ、将監様がこの屋敷を継がれた際に、一度大掛かりな改修をいたしましたので」

「その際に、蔵にも何か手を加えられましたか?」

 龍吉は、特定の箇所に、明らかに新しい土が塗り重ねられている痕跡を見つけていた。吾平は一瞬口ごもった後、小さく頷いた。

「ええ、まあ…。少しばかり、手を加えました。将監様の特別なご要望で…」

「特別なご要望、とは?」

 龍吉の問いに、吾平は言葉を濁し、目を泳がせた。その態度から、これ以上は話せない、あるいは話したくないという意思が明確に伝わってきた。

 龍吉は深追いはせず、再び壁に向き直った。壁に残された微細な傷、不自然な塗り替えの跡、そして火災の奇妙な痕跡。それらは、屋敷全体に漂う緊張した空気と、吾平のぎこちない態度と結びつき、一つの絵を描き始めていた。

 これは、単なる火事ではない。何者かが意図的に仕掛けた事件であり、その犯人は建物の構造を熟知した、常人ならざる者である可能性が高い。そして、その目的は、この蔵に隠された「秘密」にあるのだろう。

 検分を終え、蔵を出る龍吉の顔は、来た時よりもさらに厳しくなっていた。吾平は、龍吉の様子を見て、何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。

 堀田屋敷からの帰り道、龍吉は再び空を見上げた。抜けるような青空の下、江戸の町は活気に満ちている。しかし、龍吉の目には、あの蔵の壁に張り付いた煤と、そこに潜む「影」の気配が焼き付いていた。

「秘密を守れる堅牢な壁…」

 龍吉は心の中で繰り返した。その言葉は、彼の職人としての矜持と、「人を守る壁」への想いを強く刺激していた。この依頼には、危険な匂いがする。だが同時に、彼のすべてを賭けて挑むに値する、大きな壁があると感じたのだ。

 龍吉は、依頼を引き受けることを心に決めた。この蔵の壁に塗り込められた謎を解き明かし、そして、もしそこに守るべきものがあるのなら、今度こそ、何者にも破られない、真に「人を守れる壁」を築くために。

 物語は、壁の向こう側へ、さらなる深みへと進んでいく。
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