『土の記憶〜左官 龍吉捕物控〜』

月影 朔

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第一章:不穏な依頼

第四話:依頼の受諾

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 堀田屋敷からの帰り道も、龍吉の心は晴れなかった。蔵で感じた不穏な空気、壁に残された不自然な痕跡、そして番頭の隠し事。それらすべてが、単なる火事騒ぎではないことを物語っていた。

 危険な匂いがする。関われば、職人として積み上げてきた静かな日常が壊されるかもしれない。

 しかし、同時に、龍吉の胸には抑えきれない衝動が湧き上がっていた。「秘密を守れる堅牢な壁」。その言葉が、彼の心の奥底にある扉を叩いたのだ。

 幼い頃、あの炎の中で、何もかもが崩れ去るのを見た記憶。助けを求める家族の声が、燃え盛る家の中に消えていくのを聞いた絶望。あの時、もし壁がもっと強かったら。

 もし、炎を防ぎ、人々を守れる壁があったなら――。

 あのトラウマから、龍吉は「燃えない壁」「人を守る壁」を追求してきた。それは単なる技術の習得ではなかった。それは、二度とあのような悲劇を起こさせないという、彼自身の魂に刻まれた誓いだった。そして、堀田屋敷の蔵の壁は、まさにその誓いを試す、巨大な「壁」のように感じられたのだ。

 不審火、建物の構造を知り尽くした侵入者、隠された秘密。この依頼の裏には、間違いなく「影」が潜んでいる。その「影」は、かつて龍吉からすべてを奪った炎のように、大切なものを無残に焼き尽くすかもしれない。

 ならば、それを防ぐ「壁」を、自分の手で作り上げるべきではないのか。

 職人としての探求心も、龍吉を突き動かしていた。壁の検分で見た、不自然な亀裂や塗り替え跡。それらは、彼が知らない壁の技術、あるいは壁を破る技術が存在することを示唆していた。左官として、壁のすべてを知りたい。壁に潜む謎を解き明かし、誰も作り得ない究極の壁を創り上げたい。その探求心は、龍吉にとって生きる糧だった。

 夜遅くまで、龍吉は仕事場で一人、静かに考えを巡らせた。油単(ゆたん)に包まれた愛用の鏝を撫でる。この手で、どれだけの壁を作ってきただろう。人々の暮らしを守る壁、大切なものを包み込む壁、そして、秘密を隠す壁。

 壁は、時に人々の希望となり、時に過去を封じ込める蓋となる。

 そして、龍吉は決断した。この依頼を受ける。不穏な「影」が潜んでいようとも、危険が伴おうとも、彼はこの「壁」に挑む。それは、職人としての矜持であり、過去の自分への決別であり、そして、見知らぬ誰かを「壁」で守るための、新たな始まりだった。

 翌朝、龍吉は堀田屋敷に使いを送り、依頼を受ける旨を簡潔に伝えた。返事はすぐに来た。屋敷側は安堵した様子で、改めて詳細な打ち合わせをしたいと伝えてきた。

 数日後、龍吉は再び堀田屋敷を訪れた。今度は、蔵の改修に関する具体的な話を詰めるためだ。応対したのは、前回と同じ番頭の吾平と、痩身で目つきの鋭い家老だった。家老は、龍吉を一瞥すると、有無を言わせぬ口調で言った。

「龍吉殿。将監様は、この蔵の改修には並々ならぬ期待を寄せておられる。『何者も容易には破れぬ壁』、それを貴殿の腕で作っていただきたいのだ」

「は。承知いたしました」

 龍吉は短く答えた。家老は満足げに頷いたが、その目は龍吉の顔の奥を探るように動いていた。吾平は、相変わらず落ち着かない様子で、しきりに龍吉の顔色を窺っている。

 改修の範囲、必要な材料、工期などが話し合われた。蔵の内部だけでなく、基礎部分や屋根との接合部にも、より強固な補強を施してほしいという要望が出された。特に、以前火元となった角の部分は、徹底的に堅牢にしてほしいと念押しされた。

「壁の厚みは、通常よりも倍ほどに。そして、使用する土は、特に質の良い、粘り気のあるものを。藁すさも、通常の倍量混ぜてくれ」

 家老の指示は具体的だった。それは単に丈夫な壁を作るためだけではない、何か特別な意図があるように感じられた。龍吉は彼らの言葉を聞きながら、蔵の壁を検分した際に感じた不自然な痕跡を思い出していた。

 あの壁の傷は、もしかすると、壁を破るための「型」のようなものだったのかもしれない。

(…ならば、それを逆手に取るか)

 龍吉の脳裏に、改修の構想が浮かび上がった。単に堅牢にするだけでは駄目だ。もし再び同じ手口で侵入しようとする者がいるならば、その手口を封じ、あるいは逆に利用するような「壁」を作らねばならない。

 「人を守る壁」とは、単なる物理的な強さだけではない。それは、敵の攻撃を予測し、それを凌駕する知恵と工夫が込められた、生きた壁でなければならない。

 打ち合わせが進むにつれて、龍吉は屋敷側の焦りが増しているのを感じ取った。彼らは改修を急いでおり、何かから逃れるように、あるいは何かを守るために、必死に「堅牢な壁」を求めている。その「秘密」が何なのかは分からない。だが、それが彼らをここまで追い詰めていることだけは確かだった。

 打ち合わせが終わり、屋敷を後にする龍吉の足取りは、来た時よりも確かなものになっていた。不穏な依頼ではある。だが、その不穏さこそが、龍吉の職人としての血を沸き立たせていた。

 仕事場に戻ると、龍吉はすぐに改修に必要な材料の手配に取り掛かった。特別な土を求めて、江戸近郊の土場(つちば)を訪ねる。選び抜かれた、粘り気があり、火にも強い土。それを自らの手で練り上げ、最高の状態にする。

 道具の手入れにも余念がない。大小様々な鏝、槌(つち)、篩(ふるい)。これらの道具が、彼の腕となり、知恵となり、そして壁となるのだ。

 特に、叩き鏝は入念に磨き上げた。この鏝で、土と壁を一体化させ、堅牢な壁を作り上げていく。そして、この鏝が、来るべき「影」との対峙において、彼の唯一の武器となるのかもしれない。

 蔵の構造図を広げ、龍吉は鉛筆で何やら書き込みを始めた。壁の厚み、土の配合、竹小舞の組み方。そして、特定の箇所に施す、龍吉にしか分からない特別な工夫。

 それは、壁の裏側から侵入しようとする者を阻むための仕掛けであり、同時に、壁の構造に隠された秘密を暴くための鍵ともなりうるものだった。

 夜が更け、仕事場に灯る明かりは、龍吉の集中力を映し出している。

 明日から、いよいよ蔵の改修が始まる。それは単なる壁塗りではない。それは、土と漆喰を武器に、見えない「影」と戦う、職人・龍吉の新たな闘いの始まりだった。

 彼の作る壁は、果たして「土の記憶」に刻まれた謎を解き明かし、大切なものを守り切ることができるのか。

 物語は、職人の意地と知恵がぶつかり合う、壁の攻防戦へと進んでいく。
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