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第1章:凍てつく心
第1話︰雪の朝、拾われた命
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江戸の冬は、芯まで冷えた。
雪が降り積もるほどではないが、朝な夕なちらつく粉雪は容赦なく肌を刺し、乾いた風が容赦なく体温を奪っていく。
宗次にとって、その寒さは外の空気だけではなかった。肺腑の奥、心臓のさらに内側からくるような、凍てつくような孤独が、常に彼を支配していた。
武士を捨て、江戸へ流れてきて幾年になるか。数える気にもなれなかった。妻子を失ったあの日の地獄が、鮮明なまま彼の時間だけを凍らせているかのようだった。
日々の糧を得るために体を動かす。それだけの、何の感情も伴わない営み。寺の片隅に借りた狭い部屋は、外界からの音や匂いを遮断してくれる代わりに、彼の内に籠る冷たい空気を一層濃くするだけだった。朝、目を覚ます。いや、正確には眠りから浮上する。目覚めても何も変わらない、希望も絶望もない、ただの空白が待っているだけだ。
思考は澱み、過去の痛みさえ、今は遠い霞のようになりつつあった。それすらも、彼にとっては恐ろしいことだった。痛みだけが、繋がっていた証だったから。
いつものように、感情の伴わない動作で身支度を整え、寺の外へ出ようとした、その時だった。
本堂へと続く石段の脇、観音様の像の影に、何やら小さな包みが置かれているのが目に入った。
不審ではあったが、関わる気にはなれなかった。今の宗次にとって、日常から外れる出来事は、全てが億劫だった。新しい感情の波風が立つのが嫌だった。そのまま視線を逸らし、石段を下りようとした、まさにその一歩を踏み出そうとした時──
「ひゃあ……ひゃあ……」
か細い、それでいて確かに生命の存在を主張する泣き声が、張り詰めた朝の空気に響いた。
宗次の足が、ぴたりと止まる。凍り付いていたはずの肺が、急に締め付けられるように苦しくなった。あの、忘れようとしても纏わりつく、幼い命の叫び声。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。関わるな。逃げろ。そう本能が警鐘を鳴らした。
だが、体は意思とは関係なく、その声の方へ引き寄せられていた。
包みを開ける。現れたのは、真っ赤な顔をした、生まれたばかりと思しき赤子だった。
小さな口を懸命に開き、しわくちゃな手足を震わせている。寒いだろうに、それでも必死に泣いている。その、純粋なまでの「生きよう」とする力強さが、宗次には痛ましかった。
そして、包みの中に、丁寧に書きつけられた和紙があるのを見つける。触れると、冷たくなっていた。
――迷子札。
そこに書かれていたのは、わずかな文字。名らしきもの、そして「これしか、できません」という、短い、しかし深い絶望と愛憎がないまぜになったような言葉。
その文字を見た瞬間、宗次の心の奥底で何かが弾けた。それは怒りか、悲しみか、あるいは自分自身の無力さへの嫌悪か。ごちゃ混ぜになった感情が胸に込み上げ、呼吸が浅くなる。
この小さな命を、こんな雪の降る朝に、置き去りにしていく親の心境。そして、それを拾ってしまった自分。
何故。
何故、今、こんな形で「命」と再び向き合わねばならないのだ。逃げきれない。
頭の中で、いくつもの選択肢が駆け巡る。
役所に届ける? しかし、その後のこの子の人生がどうなるかなど、分かりきっている。飢え、病、人買い……。寺に預ける? 住職は高齢で、寺も裕福ではない。長屋の誰かに頼む? 皆、自分の暮らしで手一杯だ。そして何より、こんな厄介事を誰が快く引き受けるというのか。
「……住職」
結局、思いついたのはそれだけだった。石段を数段上がり、本堂へと向かう。赤子を抱いたままでは不格好で、体温を分け与えようとしても、自分の体すら凍えている心地がした。
住職は、宗次を見ても驚いた様子はなかった。まるで、いつか宗次が何かを抱えてこの石段を上ってくることを予期していたかのように、ただ静かにその小さな命を見つめた。
「またか……可哀想に」
ぽつりと、寂しげに呟く。宗次は赤子を差し出そうとする。
「住職、これを…」
「わしに、どうしろというのだ」
厳しい、しかし憐れみを含んだ眼差し。
「役所へ届けたところで、あの者たちにろくな世話はできまい。人手に渡るのが関の山だ。わしには、この寺と、細々と生きる自分を保つだけで精一杯。抱えてやることはできんよ」
現実を突きつける言葉。それは、宗次が薄々感じていたこと、そして自分自身の無力さへの追認だった。住職の言葉は、宗次を再び絶望の底へ引きずり込もうとするかのように響く。
そうだ。自分に何ができる? 妻子すら守れなかったこの手に、この小さな命を守れるはずがない。関われば、また失うだけだ。この子も、自分自身も、傷つくだけだ。
心が折れそうになる。いや、既に折れていたはずの心が、さらに粉々になるような痛み。これが、この現実が、自分が逃げてきたものなのだ。どれだけ目を逸らそうとしても、悲劇は、弱い命は、こうして現れる。そして、自分は何もできない。
宗次は、世界の冷たさと、自分自身の決定的な無力感を突きつけられていた。
だが。
住職に背を向け、石段を下りようとした宗次の腕の中で、赤子が小さく身じろいだ。か細い声が、彼の胸元に響く。
その、あまりにも頼りない体温が、冷え切った宗次の皮膚を通して、直接心臓に触れたような気がした。
そうだ。この子には、自分しかいない。少なくとも、今は。
理性ではない。過去の後悔でもない。ただ、目の前の「命」が、宗次の内に残された、ごくわずかな「情」を掴んで離さなかった。
宗次は踵を返し、寺の門を出た。どこへ行くべきか、何をするべきか、皆目見当もつかない。ただ、この小さな温もりを、寒風に晒すわけにはいかない、それだけだった。
借りている部屋へ戻り、赤子を布団の上にそっと寝かせる。改めて顔を見る。
まだ何も分からない、ただ生きているだけの小さな存在。そして、横に置かれた迷子札を手に取った。汚れてはいるが、丁寧に書かれている。
「……ひゃあ…ひゃあ…」
赤子の泣き声が、先ほどよりも少し落ち着いたように聞こえた。宗次は迷子札に目を落とす。そこに書かれた文字。そして、その裏に、何か小さく絵が描かれているのに気づく。崩れた絵だが、何かの「印」か、あるいは場所を示す「絵図」のようにも見える。
その絵を見つめながら、宗次の内に、微かな火が灯るのを感じた。それは希望ではない。目的でもない。ただ、この迷子札に隠された物語を、この小さな命が何故ここにいるのかを、「知りたい」という、ごく個人的な、静かな衝動だった。
それは彼を絶望から救い出す力はまだない。しかし、止まっていた宗次の時間が、ほんの僅かだが、再び動き出した瞬間だった。
この迷子札が、どこへ繋がるのか。そして、この小さな命の物語の、「その先」を──見てみよう。そう、静かに、固く心に誓った。
雪が降り積もるほどではないが、朝な夕なちらつく粉雪は容赦なく肌を刺し、乾いた風が容赦なく体温を奪っていく。
宗次にとって、その寒さは外の空気だけではなかった。肺腑の奥、心臓のさらに内側からくるような、凍てつくような孤独が、常に彼を支配していた。
武士を捨て、江戸へ流れてきて幾年になるか。数える気にもなれなかった。妻子を失ったあの日の地獄が、鮮明なまま彼の時間だけを凍らせているかのようだった。
日々の糧を得るために体を動かす。それだけの、何の感情も伴わない営み。寺の片隅に借りた狭い部屋は、外界からの音や匂いを遮断してくれる代わりに、彼の内に籠る冷たい空気を一層濃くするだけだった。朝、目を覚ます。いや、正確には眠りから浮上する。目覚めても何も変わらない、希望も絶望もない、ただの空白が待っているだけだ。
思考は澱み、過去の痛みさえ、今は遠い霞のようになりつつあった。それすらも、彼にとっては恐ろしいことだった。痛みだけが、繋がっていた証だったから。
いつものように、感情の伴わない動作で身支度を整え、寺の外へ出ようとした、その時だった。
本堂へと続く石段の脇、観音様の像の影に、何やら小さな包みが置かれているのが目に入った。
不審ではあったが、関わる気にはなれなかった。今の宗次にとって、日常から外れる出来事は、全てが億劫だった。新しい感情の波風が立つのが嫌だった。そのまま視線を逸らし、石段を下りようとした、まさにその一歩を踏み出そうとした時──
「ひゃあ……ひゃあ……」
か細い、それでいて確かに生命の存在を主張する泣き声が、張り詰めた朝の空気に響いた。
宗次の足が、ぴたりと止まる。凍り付いていたはずの肺が、急に締め付けられるように苦しくなった。あの、忘れようとしても纏わりつく、幼い命の叫び声。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。関わるな。逃げろ。そう本能が警鐘を鳴らした。
だが、体は意思とは関係なく、その声の方へ引き寄せられていた。
包みを開ける。現れたのは、真っ赤な顔をした、生まれたばかりと思しき赤子だった。
小さな口を懸命に開き、しわくちゃな手足を震わせている。寒いだろうに、それでも必死に泣いている。その、純粋なまでの「生きよう」とする力強さが、宗次には痛ましかった。
そして、包みの中に、丁寧に書きつけられた和紙があるのを見つける。触れると、冷たくなっていた。
――迷子札。
そこに書かれていたのは、わずかな文字。名らしきもの、そして「これしか、できません」という、短い、しかし深い絶望と愛憎がないまぜになったような言葉。
その文字を見た瞬間、宗次の心の奥底で何かが弾けた。それは怒りか、悲しみか、あるいは自分自身の無力さへの嫌悪か。ごちゃ混ぜになった感情が胸に込み上げ、呼吸が浅くなる。
この小さな命を、こんな雪の降る朝に、置き去りにしていく親の心境。そして、それを拾ってしまった自分。
何故。
何故、今、こんな形で「命」と再び向き合わねばならないのだ。逃げきれない。
頭の中で、いくつもの選択肢が駆け巡る。
役所に届ける? しかし、その後のこの子の人生がどうなるかなど、分かりきっている。飢え、病、人買い……。寺に預ける? 住職は高齢で、寺も裕福ではない。長屋の誰かに頼む? 皆、自分の暮らしで手一杯だ。そして何より、こんな厄介事を誰が快く引き受けるというのか。
「……住職」
結局、思いついたのはそれだけだった。石段を数段上がり、本堂へと向かう。赤子を抱いたままでは不格好で、体温を分け与えようとしても、自分の体すら凍えている心地がした。
住職は、宗次を見ても驚いた様子はなかった。まるで、いつか宗次が何かを抱えてこの石段を上ってくることを予期していたかのように、ただ静かにその小さな命を見つめた。
「またか……可哀想に」
ぽつりと、寂しげに呟く。宗次は赤子を差し出そうとする。
「住職、これを…」
「わしに、どうしろというのだ」
厳しい、しかし憐れみを含んだ眼差し。
「役所へ届けたところで、あの者たちにろくな世話はできまい。人手に渡るのが関の山だ。わしには、この寺と、細々と生きる自分を保つだけで精一杯。抱えてやることはできんよ」
現実を突きつける言葉。それは、宗次が薄々感じていたこと、そして自分自身の無力さへの追認だった。住職の言葉は、宗次を再び絶望の底へ引きずり込もうとするかのように響く。
そうだ。自分に何ができる? 妻子すら守れなかったこの手に、この小さな命を守れるはずがない。関われば、また失うだけだ。この子も、自分自身も、傷つくだけだ。
心が折れそうになる。いや、既に折れていたはずの心が、さらに粉々になるような痛み。これが、この現実が、自分が逃げてきたものなのだ。どれだけ目を逸らそうとしても、悲劇は、弱い命は、こうして現れる。そして、自分は何もできない。
宗次は、世界の冷たさと、自分自身の決定的な無力感を突きつけられていた。
だが。
住職に背を向け、石段を下りようとした宗次の腕の中で、赤子が小さく身じろいだ。か細い声が、彼の胸元に響く。
その、あまりにも頼りない体温が、冷え切った宗次の皮膚を通して、直接心臓に触れたような気がした。
そうだ。この子には、自分しかいない。少なくとも、今は。
理性ではない。過去の後悔でもない。ただ、目の前の「命」が、宗次の内に残された、ごくわずかな「情」を掴んで離さなかった。
宗次は踵を返し、寺の門を出た。どこへ行くべきか、何をするべきか、皆目見当もつかない。ただ、この小さな温もりを、寒風に晒すわけにはいかない、それだけだった。
借りている部屋へ戻り、赤子を布団の上にそっと寝かせる。改めて顔を見る。
まだ何も分からない、ただ生きているだけの小さな存在。そして、横に置かれた迷子札を手に取った。汚れてはいるが、丁寧に書かれている。
「……ひゃあ…ひゃあ…」
赤子の泣き声が、先ほどよりも少し落ち着いたように聞こえた。宗次は迷子札に目を落とす。そこに書かれた文字。そして、その裏に、何か小さく絵が描かれているのに気づく。崩れた絵だが、何かの「印」か、あるいは場所を示す「絵図」のようにも見える。
その絵を見つめながら、宗次の内に、微かな火が灯るのを感じた。それは希望ではない。目的でもない。ただ、この迷子札に隠された物語を、この小さな命が何故ここにいるのかを、「知りたい」という、ごく個人的な、静かな衝動だった。
それは彼を絶望から救い出す力はまだない。しかし、止まっていた宗次の時間が、ほんの僅かだが、再び動き出した瞬間だった。
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