【完結】『迷子札の子守唄 ~見届けられた命たち~』

月影 朔

文字の大きさ
4 / 37
第1章:凍てつく心

第4話:隠された涙

しおりを挟む
 祠の傍で見つけた木片は、見た目にもくたびれていたが、宗次の手の中では、図らずも希望の重さを宿していた。

 あの迷子札だけでは、あまりにも手掛かりが少ない。挫折しそうになった心に、この木片が新たな活路を見出したかのように思えた。しかし、同時に、この木片が語るかもしれない物語への畏れもあった。

 それは、この赤子がここに置き去りにされた理由、つまりは「悲劇」そのものへと繋がるのだろうから。

 部屋に戻り、眠る赤子の顔を見る。無邪気な寝顔が、これから自分が知るかもしれない過酷な真実との対比で、宗次の胸を締め付けた。

 木片を清め、刻まれた文字のようなものをじっと見つめる。掠れて判読は難しいが、特定の店の屋号の一部か、人の名の一文字か、あるいは何か別の符号か。一人では分からない。再びあの界隈へ戻るしかない。

 今度は、物乞いをする者や、日雇いの労働者など、街の底辺に根差した人々に、この木片を見せて回ることにした。彼らなら、この街の裏側や、そこに生きる人々の事情に詳しいかもしれない。

 警戒心は増していたが、探求心、そしてこの子の親の「真実」を知りたいという衝動が、恐怖を上回った。

 何人かに見せ、冷たくあしらわれ、あるいは無関心な視線を向けられた後、橋の近くで古物を扱っているらしい老爺に声をかけた。

 木片を見せると、老爺の目が僅かに見開かれる。

 すぐにいつものけだるい表情に戻ったが、宗次には見逃せなかった。彼は何かを知っている。しつこく食い下がる宗次に、老爺は嫌々ながら、近くの寂れた飲み屋へ宗次を誘った。他の客には聞かせたくない話らしい。酒を勧められたが、宗次は断り、老爺が口を開くのを待った。

 老爺の目は濁っているが、その奥には深い疲労と、何かを封じ込めているような影があった。

 老爺は、ゆっくりと、しかし澱みなく語り始めた。

 この界隈に住んでいた若い女のこと。身寄りもなく、細々と内職をして暮らしていたが、重い病にかかり、働くことができなくなったこと。薬代も、食い扶持もなく、日一日と弱っていく姿。近隣の者たちも貧しく、助けられるのは僅かな施しだけだったこと。頼れる人もなく、行き詰まり、食べるものもなく、衰弱しきった女が、最後に何を考えたか──。

 老爺はそこで言葉を切った。

 語られるのは、この街にありふれた「悲劇」だった。貧困、病気、借金、病気。それは、宗次自身が妻子を失った原因の一部でもあった。胸が締め付けられる。他人事ではない。この女も、自分と同じように、どうすることもできない現実に絶望したのだ。

 老爺の話を聞きながら、宗次は女の絶望が手に取るように分かった。

 愛する者を、自分自身の無力さゆえに救えない苦しみ。それは、今も宗次を苛む最大の痛みだった。女は、最後の最後に、せめて我が子だけでも生きてほしいと願い、この場所に赤子を置いたのだ。

 あの迷子札の「これしか、できません」という言葉が、老爺の話と重なり、深い悲哀となって宗次の心を貫いた。

 あの言葉は、親の最後の愛情と、そして底知れない絶望の叫びだったのだ。涙が、勝手に零れ落ちそうになるのを宗次は必死に堪えた。他人の悲劇が、これほどまでに自分の過去の痛みと結びつくとは。女の隠された涙。それが、宗次の凍てついた心に、熱い鉄のように焼き付いた。

 自分が救えなかった命。そして、今、救われたかもしれないこの命。この子は、あの女の、最後の、最後の希望なのだ。

 老爺は、女がその後どうなったかは知らないと言った。しかし、その表情から、宗次には推測できた。おそらく、女は赤子を置いて、すぐに息絶えたのだろう。迷子札と木片は、女が最後に通った道筋、あるいは最後の願いを示すものだったのかもしれない。

 この木片に刻まれたものは、女のささやかな「印」か、彼女の最後のメッセージなのだろうか。

 宗次は老爺に礼を言い、飲み屋を出た。外はもう薄暗い。手に握られた木片が、ずっしりと重く感じられた。この子は、もう親には会えない。その事実が、宗次の中に改めて重くのしかかる。

 だが、同時に、親の「見届けてほしい」という最後の願いを、自分が引き受けたのだという、新たな責任感が生まれた。迷子札と木片。これらは、単なる手掛かりではない。それは、宗次が「見届ける」べき、一つの悲劇の物語そのものなのだ。次は何をすべきか。

 親はもういない。だが、この子の未来はある。そして、この子の過去を知った自分自身も。

 夜の闇の中、宗次は、新たな決意と共に立ち尽くしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。 失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。 その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。 裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。 市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。 癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』 ――新感覚時代ミステリー開幕!

【完結】『冥府の渡し守〜地獄絵師と黄泉返りの秘密〜』

月影 朔
歴史・時代
もし、あなたの描いた絵が、死者の魂を導く扉になるとしたら? 筆一本で地獄を描き続けた孤独な絵師、幻斎。 彼の鬱屈した日常は、現世と冥府を繋ぐ『渡し守』としての運命によって一変する。 謎の童子に導かれ、死者の魂を導く幻斎。 笑い、泣き、そして後悔を抱えた魂たちとの出会いは、冷え切った彼の心に人間味を取り戻していく。 罪と贖罪、そして魂の救済を描く、壮大な和風ファンタジー。 あなたの心を揺さぶる物語が、今、幕を開ける。

田楽屋のぶの店先日記~深川人情事件帖~

皐月なおみ
歴史・時代
旧題:田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜 わけあり夫婦のところに、わけあり子どもがやってきた!? 冨岡八幡宮の門前町で田楽屋を営む「のぶ」と亭主「安居晃之進」は、奇妙な駆け落ちをして一緒になったわけあり夫婦である。 あれから三年、子ができないこと以外は順調だ。 でもある日、晃之進が見知らぬ幼子「朔太郎」を、連れて帰ってきたからさあ、大変! 『これおかみ、わしに気安くさわるでない』 なんだか殿っぽい喋り方のこの子は何者? もしかして、晃之進の…? 心穏やかではいられないながらも、一生懸命面倒をみるのぶに朔太郎も心を開くようになる。 『うふふ。わし、かかさまの抱っこだいすきじゃ』 そのうちにのぶは彼の尋常じゃない能力に気がついて…? 近所から『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになった朔太郎とともに、田楽屋の店先で次々に起こる事件を解決する。 亭主との関係 子どもたちを振り回す理不尽な出来事に対する怒り 友人への複雑な思い たくさんの出来事を乗り越えた先に、のぶが辿り着いた答えは…? ※田楽屋を営む主人公が、わけありで預かることになった朔太郎と、次々と起こる事件を解決する物語です! アルファポリス文庫より発売中です! よろしくお願いします〜 ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ 2025.9〜 第二幕 『殿ちびちゃん寺子屋へ行く!の巻』の連載をスタートします〜! 七つになった朔太郎と、やんちゃな彼に振り回されながら母として成長するのぶの店先日記をよろしくお願いします!

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

処理中です...