【完結】『迷子札の子守唄 ~見届けられた命たち~』

月影 朔

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第1章:凍てつく心

第3話:迷子札の示す街

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 あの朝、お春からもらった小さな温もりと、腕の中の命の重さ。
それだけが、宗次を再び江戸の街へ送り出した。

 迷子札の裏に描かれた、粗末ながらも意図を感じさせる絵図。

 どう見ても、橋と、その傍らの祠を示している。それは、彼の住む寺から少し離れた、下町の、あまり良い評判を聞かない界隈だった。危険な気配も漂う場所に、何の当てもなく足を踏み入れるなど、以前の宗次なら考えもしなかっただろう。だが、今は行くべき理由がある。部屋に残してきた赤子を、住職は渋々ながらも一時預かってくれた。その間の時間は限られている。迷っている暇はなかった。

 雪は止んでいたが、凍てつくような寒さは変わらない。人通りの少ない裏道を早足に進む。

 武士としての癖だろうか、無意識に周囲を警戒してしまう。しかし、刀を持たぬ今の自分に、何かあったとして何ができる? 守るべきはこの身一つではないというのに。

 心臓の鼓動が、僅かに早まるのを感じた。それは恐怖か、それとも、久しぶりに明確な目的を持てたことへの、かすかな高揚感か。自分でも分からなかった。ただ、一歩踏み出すごとに、あの空白だった時間が埋まっていくような感覚だけがあった。

 絵図が示すと思しき界隈にたどり着く。

 そこは、宗次の知っている江戸とは雰囲気が全く違った。狭い路地に長屋がひしめき合い、洗濯物や布団が乱雑に干されている。どこからか怒鳴り声が響き、子供たちのけたたましい遊び声が重なる。臭い。人の、生活の、そして澱んだ水の臭いが混じり合って鼻をつく。人々は行き交うが、その目には余裕がなく、ぎらついているか、あるいは諦念の色が濃い。

 見慣れない浪人風の宗次には、容赦ない好奇心と、警戒の視線が突き刺さる。

 迷子札の絵図と見比べながら歩き、やがてそれらしき橋と、その袂にある小さな祠を見つけた。

 絵図通りだ。ここに、赤子の親がいたのだろうか。あるいは、何か関わりのある人物が? 宗次は、祠の周囲を注意深く観察した。特別なものはない。古びた石造りの祠に、いくつかの供え物がされているだけだ。

 意を決して、近くで立ち話をしていた男たちに声をかけようとする。

 だが、宗次が近づくと、彼らはぴたりと話を止め、疑わしげな目で宗次を見た。

 「何だ、てめえ」

 敵意を剥き出しにした声に、宗次は懐から迷子札を取り出し、事情を説明しようとした。

 しかし、迷子札を見たとたん、男たちの表情が一変する。同情ではない。嘲りや、あるいはもっと陰湿な、知っているが関わりたくないといった類の、複雑な、しかし明確に拒絶の感情だった。

 「迷子札? 冗談じゃねえ。ここいらに、そんなモン置いとくような殊勝な奴がいるかよ。大体、そんなもん持ってうろついてるあんたさんの方が怪しいぜ。人探しなら、他所を当たりな!」

 男たちは宗次を無視し、再び話し始めるが、その話題が宗次に向けられているのは明らかだった。詮索は無駄だ。この街の人々は、自分たちの内に秘密を閉じ込めている。それをこじ開けるのは、生半可なことではない。宗次は、再び壁にぶつかった思いだった。

 探求の始まりに立ったはずなのに、もう行き止まりだ。心の中に、早くも諦めの気持ちが忍び寄る。やはり、自分には無理なことなのだ。

 橋の欄干にもたれかかり、川の流れを見つめる。濁った水が、街の喧騒を映している。

 その時、橋の下の川べりに、身を寄せ合って寒さをしのいでいる親子連れがいるのを見つける。母親だろう女が、幼い子供を抱きしめ、古びた布で覆っている。その顔色は悪く、飢えているのは明らかだった。子供も痩せ細り、力なく母親に寄り添っている。

 彼らの姿に、宗次の胸が締め付けられた。赤子と、その親。もしかしたら、あの赤子の親も、こんな風に、この街のどこかで寒さに震えているのかもしれない。あるいは、もうそれすら叶わず、この濁流のように、どこかへ流されてしまったのかもしれない。彼らは自分と同じだ。いや、自分以上に、この世界で迷子になっているのだ。

 彼らの「悲劇」は、宗次の過去と重なり、探求の困難さとは異なる、重い感情として彼の心にのしかかった。この街には、表通りには見えない、多くの悲しみと絶望が隠されている。迷子札の赤子も、彼らと同じ「迷子」なのだ。そして、自分もまた、大きな世界の中で迷子になっている。

 捜索は完全に暗礁に乗り上げていた。迷子札はここを示したが、それ以上の情報は何も得られない。諦めて寺へ戻るべきか。赤子を、この街の現実から遠ざけるべきか。

 ふと、祠の影に、誰かが置いたらしき、小さな花と、くたびれた木片があるのに気づく。新しいものではないが、手入れされているようにも見える。迷子札とは違う。しかし、なぜここに? 何か意味があるのだろうか。

 木片には、何か刻み込まれているが、風雨に晒され、掠れてほとんど読めない。

 宗次は木片を拾い上げた。冷たく、乾いている。これは、この迷子札の物語と何か繋がっているのだろうか。それとも、全く無関係な、この街の別の誰かの、別の悲しみの痕跡なのだろうか。答えは分からない。だが、その木片は、完全に途絶えかけたかに見えた探求に、再び微かな光を灯した。

 行く手は依然として暗く、困難に満ちている。それでも、この小さな手掛かりが、宗次を次の一歩へと誘うのだった。

 夜の帳が降り始め、江戸の街は、また別の顔を見せようとしていた。
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