29 / 37
第3章:見届けられる未来
第29話:闇の主
しおりを挟む
重厚な扉を押し開き、宗次は越後屋本店の地下深くに隠された部屋へと足を踏み入れた。
内部は油皿の僅かな光で照らされており、湿気を含んだ重い空気が宗次の頬を撫でた。部屋はそれほど広くはないが、壁際には鉄で補強された木箱がいくつも積み上げられている。中央には、古びた机と椅子、そしてその上に分厚い帳簿が置かれているのが見えた。
これこそが、越後屋が血眼になって隠し、お梅の夫が命懸けで守ろうとした「何か」が収められている場所だ。積み上げられた木箱の中には、記録が示唆していた違法な品物や、不正な財産が入っているのだろう。そして、机の上の帳簿…これこそが、越後屋の悪事の全てを記録した、動かぬ証拠に違いない。
宗次が部屋の奥へと視線を移した、その時だった。
部屋の隅の影から、一人の人物がゆっくりと姿を現した。油皿の淡い光がその顔を照らし出す。見慣れた顔だった。
「…越後屋の、若旦那…」
宗次の声が、静寂に沈んだ部屋に響いた。なぜ、若旦那がここにいる? 取引現場だけでなく、この越後屋の最も重要な秘密の場所にも、彼が直接関わっているのか。
若旦那は宗次を見て、驚きよりも、冷たい計算を含んだ目をしていた。まるで、いつか誰かがここに辿り着くことを予期していたかのようだ。
「ほう…まさか、お前のような者がここまで来るとはな」
若旦那の声は静かだが、その響きには侮蔑と、そして底知れぬ冷酷さが含まれていた。
宗次は問うた。
「あなた方が、お梅殿を…そして、その夫を手にかけたのか」
若旦那は宗次の言葉に、僅かに口の端を上げた。
「お梅? ああ、あの問屋の女か。ずいぶんとしぶとい女だったが…勝手に落ちていっただけだ。我々が直接手を下したわけではない。追い込んだだけだ」
冷たい言葉だ。お梅の苦しみや悲劇を、一切の感情なく言い放つ。
「夫は、我々の邪魔になった。我々の商いに不要なものを知ってしまったからな。消えてもらうしかなかった」
「あなた方の『商い』とは、このような…幕府の禁を破る違法な取引のことか」
宗次は机の上の帳簿に視線を向けた。
若旦那は宗次の視線を追った。
「その帳簿は、我々の血と汗、そして知恵の結晶だ。江戸中の大名や高家が、我々から品物を買い求めている。この江戸は、清廉潔白な者だけでは回らぬのだよ。我々のような存在が、澱みを引き受け、富を動かしている」
傲慢な言葉だ。自分の悪事を、あたかも世のため人のためであるかのように語る。
「お前のような浪人が、このような場所に立ち入って良いと思うな。見ただろう? 我々の商いを。分かっただろう? 我々の力がどれほどのものか。賢く立ち去るならば、命だけは助けてやっても良いぞ。金もくれてやる。お前が必要としているだろう、浪人風情が」
金で宗次を買おうとする。越後屋がこれまで全てを金と力で解決してきたことが伺える。
宗次は若旦那の言葉に耳を貸さなかった。懐にある、お梅から託された迷子札の重みを感じていた。お梅の苦しみ、我が子への最後の願い。全てはこの越後屋の所為なのだ。
「私は、お梅殿から願いを託された見届け人だ。あなた方の悪事によって、全てを奪われた女の、最後の希望を見届ける者だ」
宗次は静かだが、確固たる声で言った。
「あなた方が隠している秘密を白日の下に晒し、二度と、お梅殿のような悲劇が生まれないようにする」
若旦那の顔から笑みが消えた。その目に、宗次への侮蔑が憎悪へと変わるのが見て取れた。
「見届け人? 下らん! そんな義侠心で、この越後屋に立ち向かうつもりか? 分からぬようだな…我々が、邪魔者をどう始末してきたか」
若旦那はゆっくりと宗次に近づいた。その手には、いつの間にか細身の刀が握られている。
「お梅の夫も、お前のような愚か者だった。余計な秘密を知り、正義を気取った。だから消えてもらったのだ。そして、あの女とお前、そしてあの赤子も…我々の秘密を知った者は、生かしておけぬ」
殺意が、部屋の中に満ちる。越後屋の真の姿。冷酷で、邪魔者は容赦なく排除する闇の顔。
「貴様だけではない。お前に関わった『あの人』とやらも、そしてあの赤子も、全て始末してやる!」
若旦那の声が、怒りに震えた。
宗次の目が鋭くなった。赤子にまで明確な殺意を向けられた。もはや言葉は不要だ。
「…来い」
宗次は静かに腰の刀を抜いた。夜闇に、刀身が鈍く光る。部屋の中央で、宗次と越後屋の若旦那が対峙した。積み上げられた木箱、机の上の帳簿が、二人の間の緊張を見守っている。
お梅の願い、赤子の未来、そして宗次自身の再生。全てを賭けた最後の戦いが、今、この地下深くの隠し部屋で始まろうとしていた。闇の主との最終対決──。
内部は油皿の僅かな光で照らされており、湿気を含んだ重い空気が宗次の頬を撫でた。部屋はそれほど広くはないが、壁際には鉄で補強された木箱がいくつも積み上げられている。中央には、古びた机と椅子、そしてその上に分厚い帳簿が置かれているのが見えた。
これこそが、越後屋が血眼になって隠し、お梅の夫が命懸けで守ろうとした「何か」が収められている場所だ。積み上げられた木箱の中には、記録が示唆していた違法な品物や、不正な財産が入っているのだろう。そして、机の上の帳簿…これこそが、越後屋の悪事の全てを記録した、動かぬ証拠に違いない。
宗次が部屋の奥へと視線を移した、その時だった。
部屋の隅の影から、一人の人物がゆっくりと姿を現した。油皿の淡い光がその顔を照らし出す。見慣れた顔だった。
「…越後屋の、若旦那…」
宗次の声が、静寂に沈んだ部屋に響いた。なぜ、若旦那がここにいる? 取引現場だけでなく、この越後屋の最も重要な秘密の場所にも、彼が直接関わっているのか。
若旦那は宗次を見て、驚きよりも、冷たい計算を含んだ目をしていた。まるで、いつか誰かがここに辿り着くことを予期していたかのようだ。
「ほう…まさか、お前のような者がここまで来るとはな」
若旦那の声は静かだが、その響きには侮蔑と、そして底知れぬ冷酷さが含まれていた。
宗次は問うた。
「あなた方が、お梅殿を…そして、その夫を手にかけたのか」
若旦那は宗次の言葉に、僅かに口の端を上げた。
「お梅? ああ、あの問屋の女か。ずいぶんとしぶとい女だったが…勝手に落ちていっただけだ。我々が直接手を下したわけではない。追い込んだだけだ」
冷たい言葉だ。お梅の苦しみや悲劇を、一切の感情なく言い放つ。
「夫は、我々の邪魔になった。我々の商いに不要なものを知ってしまったからな。消えてもらうしかなかった」
「あなた方の『商い』とは、このような…幕府の禁を破る違法な取引のことか」
宗次は机の上の帳簿に視線を向けた。
若旦那は宗次の視線を追った。
「その帳簿は、我々の血と汗、そして知恵の結晶だ。江戸中の大名や高家が、我々から品物を買い求めている。この江戸は、清廉潔白な者だけでは回らぬのだよ。我々のような存在が、澱みを引き受け、富を動かしている」
傲慢な言葉だ。自分の悪事を、あたかも世のため人のためであるかのように語る。
「お前のような浪人が、このような場所に立ち入って良いと思うな。見ただろう? 我々の商いを。分かっただろう? 我々の力がどれほどのものか。賢く立ち去るならば、命だけは助けてやっても良いぞ。金もくれてやる。お前が必要としているだろう、浪人風情が」
金で宗次を買おうとする。越後屋がこれまで全てを金と力で解決してきたことが伺える。
宗次は若旦那の言葉に耳を貸さなかった。懐にある、お梅から託された迷子札の重みを感じていた。お梅の苦しみ、我が子への最後の願い。全てはこの越後屋の所為なのだ。
「私は、お梅殿から願いを託された見届け人だ。あなた方の悪事によって、全てを奪われた女の、最後の希望を見届ける者だ」
宗次は静かだが、確固たる声で言った。
「あなた方が隠している秘密を白日の下に晒し、二度と、お梅殿のような悲劇が生まれないようにする」
若旦那の顔から笑みが消えた。その目に、宗次への侮蔑が憎悪へと変わるのが見て取れた。
「見届け人? 下らん! そんな義侠心で、この越後屋に立ち向かうつもりか? 分からぬようだな…我々が、邪魔者をどう始末してきたか」
若旦那はゆっくりと宗次に近づいた。その手には、いつの間にか細身の刀が握られている。
「お梅の夫も、お前のような愚か者だった。余計な秘密を知り、正義を気取った。だから消えてもらったのだ。そして、あの女とお前、そしてあの赤子も…我々の秘密を知った者は、生かしておけぬ」
殺意が、部屋の中に満ちる。越後屋の真の姿。冷酷で、邪魔者は容赦なく排除する闇の顔。
「貴様だけではない。お前に関わった『あの人』とやらも、そしてあの赤子も、全て始末してやる!」
若旦那の声が、怒りに震えた。
宗次の目が鋭くなった。赤子にまで明確な殺意を向けられた。もはや言葉は不要だ。
「…来い」
宗次は静かに腰の刀を抜いた。夜闇に、刀身が鈍く光る。部屋の中央で、宗次と越後屋の若旦那が対峙した。積み上げられた木箱、机の上の帳簿が、二人の間の緊張を見守っている。
お梅の願い、赤子の未来、そして宗次自身の再生。全てを賭けた最後の戦いが、今、この地下深くの隠し部屋で始まろうとしていた。闇の主との最終対決──。
10
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』
月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕!
自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。
料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。
正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道!
行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。
料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで――
お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!?
読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう!
香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない!
旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること?
二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。
笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕!
さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!
『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。
失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。
その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。
裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。
市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。
癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
【完結】『冥府の渡し守〜地獄絵師と黄泉返りの秘密〜』
月影 朔
歴史・時代
もし、あなたの描いた絵が、死者の魂を導く扉になるとしたら?
筆一本で地獄を描き続けた孤独な絵師、幻斎。
彼の鬱屈した日常は、現世と冥府を繋ぐ『渡し守』としての運命によって一変する。
謎の童子に導かれ、死者の魂を導く幻斎。
笑い、泣き、そして後悔を抱えた魂たちとの出会いは、冷え切った彼の心に人間味を取り戻していく。
罪と贖罪、そして魂の救済を描く、壮大な和風ファンタジー。
あなたの心を揺さぶる物語が、今、幕を開ける。
田楽屋のぶの店先日記~深川人情事件帖~
皐月なおみ
歴史・時代
旧題:田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜
わけあり夫婦のところに、わけあり子どもがやってきた!?
冨岡八幡宮の門前町で田楽屋を営む「のぶ」と亭主「安居晃之進」は、奇妙な駆け落ちをして一緒になったわけあり夫婦である。
あれから三年、子ができないこと以外は順調だ。
でもある日、晃之進が見知らぬ幼子「朔太郎」を、連れて帰ってきたからさあ、大変!
『これおかみ、わしに気安くさわるでない』
なんだか殿っぽい喋り方のこの子は何者?
もしかして、晃之進の…?
心穏やかではいられないながらも、一生懸命面倒をみるのぶに朔太郎も心を開くようになる。
『うふふ。わし、かかさまの抱っこだいすきじゃ』
そのうちにのぶは彼の尋常じゃない能力に気がついて…?
近所から『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになった朔太郎とともに、田楽屋の店先で次々に起こる事件を解決する。
亭主との関係
子どもたちを振り回す理不尽な出来事に対する怒り
友人への複雑な思い
たくさんの出来事を乗り越えた先に、のぶが辿り着いた答えは…?
※田楽屋を営む主人公が、わけありで預かることになった朔太郎と、次々と起こる事件を解決する物語です!
アルファポリス文庫より発売中です!
よろしくお願いします〜
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
2025.9〜
第二幕
『殿ちびちゃん寺子屋へ行く!の巻』の連載をスタートします〜!
七つになった朔太郎と、やんちゃな彼に振り回されながら母として成長するのぶの店先日記をよろしくお願いします!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる