【完結】『迷子札の子守唄 ~見届けられた命たち~』

月影 朔

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第3章:見届けられる未来

第33話:夜明けの帰還

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 冷たい川の水から這い上がった宗次は、ずぶ濡れの体を震わせながら、夜明け前の江戸を歩いていた。懐には、越後屋の不正の全てを記した分厚い帳簿がしっかりと収まっている。

 若旦那を仕留め、精鋭の用心棒たちを撒き、宗次は生き延びた。しかし、その体は鉛のように重く、疲労困憊していた。

 夜の闇が徐々に薄れ、東の空が淡い紫色に染まり始める。街はまだ眠りの中だが、宗次の耳には、遠くで朝市へ向かう商人の声や、井戸端で水を汲む音が微かに聞こえ始めた。日常の営みが、また始まろうとしている。

 宗次は、越後屋からの追っ手が水路の出口を見つけ出していないか、何度も背後を振り返った。幸い、今のところ追跡の気配はない。しかし、越後屋がこれほどの損失を被って黙っているはずがない。日が昇れば、街中の至る所に宗次の人相書きが貼られ、捜索の手が伸びるだろう。

(急がねば…)

 宗次が向かう先はただ一つ。「あの人」の家だ。共に練り上げた作戦の最終段階、そして得られた証拠をどう使うか。

 道中、宗次の脳裏には、若旦那との死闘が蘇った。あの冷酷な目、命を奪うことへの何の躊躇もない剣。越後屋という巨大な闇の片鱗を、宗次はまざまざと見せつけられた。だが、宗次は勝った。お梅の願い、赤子の未来、そして彼自身が再び手に入れた護るべきもののために、宗次は打ち勝ったのだ。

「あの人」の家の前に辿り着いた時、宗次の体は限界に達していた。戸に手をかけようとしたその時、戸がゆっくりと内側から開いた。「あの人」が、夜通し宗次の帰りを待っていたのだ。その顔には、深い疲労と、しかしそれ以上の安堵が浮かんでいた。

 宗次のずぶ濡れの姿と、しかし確かな光を宿した瞳を見て、「あの人」は全てを察した。

「…無事でしたか!」

 宗次は力なく頷き、懐から血痕や泥で汚れた帳簿を取り出した。

「…これです」

「あの人」は帳簿を受け取ると、その重みに目を見張った。紙の表面に微かに残る血の匂いが、宗次の潜入がいかに苛烈なものだったかを物語る。
「よくぞ…よくぞこれほど危険なものを…!」

 宗次は玄関でへたり込みそうになる体を「あの人」に支えられ、家の中へと入った。熱い湯が用意され、宗次は冷え切った体を温めた。着替えを済ませると、再び「あの人」と向き合った。
「若旦那は…」
「あの人」が問うた。

 宗次は静かに頷いた。
「斬りました」

「あの人」は息を呑んだ。越後屋の若旦那を討ち取ったとなれば、越後屋は宗次に対して、もはや私怨をもって報復を仕掛けてくるだろう。これまでの比ではない、苛烈な追撃が予想される。

「赤子は…」
 宗次が尋ねた。

「無事です。夜明け前、手配した者たちが村へと連れて行きました」

「あの人」の言葉に、宗次の胸から重いものが降りた。最も懸念していた命が、ひとまず安全な場所へと移されたのだ。これで、越後屋が赤子に直接手を出すことは難しくなった。

 宗次は、地下の隠し部屋での若旦那との対峙、そして帳簿を手に入れてからの壮絶な脱出劇を語った。五人もの用心棒の追撃を振り切り、水路を使って脱出したこと。その全てを、宗次の静かな声は物語っていた。

「あの人」は、宗次の話に耳を傾けながら、帳簿を丁寧に開き始めた。中はびっしりと文字と数字で埋め尽くされている。符丁や隠語も多いが、「あの人」が今まで読み解いてきた記録の知識があれば、解読は可能だろう。

「この帳簿さえあれば…越後屋の悪事は、もはや隠し通せません。これほどの証拠があれば、さすがの奉行所も…」

「あの人」は眉間に皺を寄せながらも、確かな手応えを感じていた。しかし、その顔に、まだ安堵の色は薄い。

「問題は、この帳簿を、誰に、どう渡すかです」

 越後屋の力が江戸中に及んでいることを考えれば、迂闊に動けば、帳簿ごと揉み消される可能性も否めない。彼らには、越後屋に真正面から立ち向かえるような後ろ盾は無いのだ。

「これだけのものを手に入れ、貴方の身は、もはや江戸に留めておくことはできません」

「あの人」は宗次を見た。

「越後屋は、血眼になって貴方を捜すでしょう。若旦那を斬ったとなれば、その報復は苛烈を極めるはずです」

 宗次も、そのことは理解していた。ここから先の宗次の命は、越後屋との終わりなき追撃戦となるだろう。しかし、それでいい。お梅の願いは果たされた。赤子は安全な場所へ移された。そして、宗次自身も、失った過去から解放され、新たな道を見つけた。

「帳簿は…あなたに託します」

 宗次は言った。

「この帳簿を、最も安全で、かつ越後屋に通用する場所へと届けてください。それが、お梅殿の最後の願いを、完全に叶える道です」

「あの人」は宗次の言葉に、深い覚悟を感じ取った。宗次は、この帳簿を届けた後、自ら越後屋の追撃を引き受けるつもりなのだ。

「…承知いたしました。命に代えても、この帳簿を届けます。貴方と、お梅の夫が命を懸けた証を、無駄にはしません」

「あの人」は深く頭を下げた。

 夜が明け、太陽が東の空に顔を出す。その光は、越後屋の闇を暴く希望の光であり、同時に、宗次を追う残酷な追撃の始まりを告げる光でもあった。

 宗次は、熱い湯を浴びたばかりの体を奮い立たせ、再び立ち上がった。休んでいる暇はない。越後屋が動き出す前に、宗次もまた、この江戸を離れなければならない。

 隠し財産を手に入れたわけではない。しかし、越後屋の悪事を暴く、何よりの証拠はここにある。そして、宗次自身もまた、その証拠を手に入れたことで、失われた魂を取り戻したのだ。

 宗次は「あの人」に別れを告げた。その顔に迷いはなく、ただ、未来を見据える者の静かな決意があった。彼は、迷子札に込められた願いの、真の見届け人となったのだ。
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