ロストパートナーズ

篠宮璃紅

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第4話「憧レノ記憶」

3.欲しいもの

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耳鳴りが止まない。痛いくらいの高い音。脳内が圧迫される。

逃げるように目を開けてみた。ここは、滅多に入れない部屋。

城の中でもごく一部の人間しか立ち入りを許されない。深翠の絨毯は価値がわからない者でも踏むだけで足が震えるほどの上質さ。それに比べて本棚や長机などは年季があるだけでそれほどのもの。部屋の持ち主の質素さが伝わる。

唯一目立つのは工芸品とも呼べるような美しいガラス細工の棚。中に飾られた品々も一級品。高価なものを押し込んだだけのようにも見える。

彼女は多くを望まない。与えられないわけじゃない。自身にはこれで十分だ、と体裁を取り繕える最低限のものしか揃えていない。幸い、目利きができる人間も多くない。

ぼーっと眺めてしまう。初めて招かれた日のことに思いを馳せたいけれど、覚えていない。とても感動したのだろうか。呼吸はできていただろうか。

憧れていた人の自室。嬉しかったはずなのに、記憶から零れ落ちてる。底の無い僕の中には残っていない。


「ユウ、調子はどうですか」

「……姫様の御心を煩わせるようなことは、何も」


驚きもしなかった。ただ淡々と言葉を吐く。

ここ数年で反射的に言葉を発することが増えてきた。内容に意味なんてない。だって考えたところで、覚えられないんだから。

記憶することを諦めた。忘れてることに絶望するから。大切な、宝物のような記憶も、全部抜け落ちている。こうして姫さまの部屋に招かれるようになったことも、名誉で、光栄で、知人全員に走って報告しに行きたくなるようなことがあったはずなのに。僕は知らなかった。


「ユウ、私は貴方の調子を尋ねたのですよ。私の機嫌を窺えとは言っていません」


穏やかな表情。声。遠くから見ているだけだった存在が目の前に。

心は踊らない。何も感じない。雲の上の人なのに。

呼び出される度、あの頃の気持ちが戻るんじゃないかと期待している。けど、そんなことない。がっかりしてしまう。自分自身に。

どうしてこんなにも空っぽなんだろう。こんなにも優しく接してくれるのに。


「貴方は……難しい人ですね。何を褒美に与えればよいのかわかりません」


はっとした。褒美?

思わず顔を上げた。確かに困った様子だ。


「今日は、そんな話を」

「えぇ。私の騎士になって以来、ずっと戦場に派遣してばかりでしたから。何かしら褒美を、と思いまして。私も示しがつきません。欲しいものはありませんか?」


そんな顔で見られても。優しくされても。困る。昔からその質問は苦手で。


「残念ながら、戦況は悪化しています。あなたのおかげで予定よりも守りは保たれていますが、それもいつ限界を迎えるか。ごめんなさい。本当なら十分な休暇を与えたかったのですが、難しくて」


戦場。騎士。休暇。どれも本当に、ピンとこない。

戦場って、西の国との国境戦線のことかな。僕は姫さまの騎士、これはアリシアが教えてくれた気がする。休暇って、何をすればいいんだっけ。

頭がぼーっとする。立つのがやっと。目が霞む。眠りたい。

嘘だ、眠りたくない。自由な時間なんて欲しくない。城にいちゃダメだ、行かなきゃ。安心したくない、怖い、こわい。


「何か欲しいものはありますか。言ってください」


欲しい、もの……。乾いた喉から声がちゃんと出ているのか。わからない。すみません、わからないんです。僕は何を望んでいるのか。欲しいものが、欲が。

昔、アリシアにも怒られた。なんでだったか、コートのお礼?手袋?忘れてる。こんな記憶も。何気ない会話だけど、思い出せない。

欲しいもの。あるかもしれない。何も残っていないからこそ、僕の代わりに残してほしい。


「……覚えていてください。僕が全部忘れても、僕じゃなくなっても。どんなことでもいい、記憶していてほしい。僕を忘れないで」


明日。数時間後。今。もう消えてしまうかもしれない。自分のことも。目の前の大切なひとのことも。
だってもう思い出せない。長く閉じたままの、彼女の瞼の下の色を。初めて目にして、吸い込まれそうだった感覚を。満たされた感情を。


「忘れてください。こんなこと、言うべきじゃなかった」


声に出せているのかもわからない。思い出そうとするべきじゃなかった、の方が正しい。また空しくなった。宝物のような思い出が抜け落ちている。何が残っているんだ。

疲れた。楽になりたい。

でも殺してくれとは思えない。それは怖いことだってまだ覚えてる。忘れることができればいいんだろうか。忘れていないのが、まだ僕なんだって思えばいいのか。


「―――ユウ?」

知らない匂いが届く距離。だれ、なんで名前、僕の?

ガシャン、と響いた音。これはしってる、割れたおと、がらす?

赤。きれいな赤。落ち着く、匂いと色。白い指先から絨毯へ落ちていく。

あれ、だれの手、血、怪我?僕は、なにをした。


「ひ、めさま、すみません、ちがう、ちが」

「落ち着いてください、私なら平気です。落ち着いて、深呼吸をしてください」


動けない、目が離せない、綺麗、赤が。

ガラス片に映る赤、初めて見た。胸が痛い、熱い。

また増えた。袖に深く刺さった。濡れていく。染まる。滴る。

上手く息ができない。


「ごめんなさい、あなたの場所がわからなくて、心配しないで。落ち着いて」


細かい破片がまた傷を増やす。ドキドキする。心が満たされる。嬉しい、楽しい、幸せ。


―――違う。ちがう、違う。こんなの違う。姫さま、姫さまが怪我をしてる、助けなきゃ、どうすればいい、僕に何ができる。


「ユウ」


姫さま、笑ってる。痛みを堪えながら。


「見えている貴方には辛いでしょう。ごめんなさい、見苦しい姿を」


なんで謝るんですか。大変なのは貴女です、僕が突き飛ばした、さっき、力任せに。


「ルイティアを呼んでください。他の者だと騒ぎにしてしまいますから。ゆっくり、落ち着いて。誰にも悟られないように」


ルイティア。ルイティア、助けて。姫さまが死んでしまう。失いたくない。

どれだけ思い出がなくなってもいい。心が感じなくなってもいい。この人だけはいなくなってほしくない。
お願い、助けて。お願いだから。



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