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流れ流れて
2.
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「ねえ、大丈夫? 和人くん?」
和人は答えられなかった。
走っていたのは十分程度だったが、自転車に追いつこうと必死だった。学校の長距離走よりもきつい。
気温よりも、湿度の高さも意識せざるをえない。どちらかといえば、熱帯の空気に近いのではないかとさえ思う。緑が広がる風景も遠くから見るのと違って、間近で見ると、熱と水蒸気を発散させるいやらしい植物の群れに思えてきた。
ようやく息が整い周りを見ると、まさに村外れの、家がない場所に来ていた。
小高い丘の上で、車道からは少し外れている。周りには何本か杉や松が植わっているほか、地面にも大きな岩が転がっていたり、起伏の目立つ場所だった。遠くには町や、そのはるか向こうには海が広がっているのが分かる。
「この辺りがその二人が投げ込まれた穴があった場所?」
「うん。言い伝えではね」
「ふーん」
和人は地面に触れた。
もちろん、今は穴などない。
かつては、ここに穴があったということだろうか。
深さは5mほど。直径は2mほどの穴蔵。そこには米俵が一俵と干した肉や魚があった。土が柔らかかったので湧き水は比較的簡単に手に入ったと思われるが、それゆえに穴蔵の壁面をロッククライミングの要領で登るのは無理だったといわれている。
どんなに食料を切り詰めても、大人一人、子供一人では、生きていられるのは二年半が限界だったはず。
「うーん」
「ね? やっぱりドッペルゲンガーだよ」
何がやっぱりなのかは、さっぱり分からなかったが、良子は少しおかしそうな表情で、和人の顔を覗き込んできた。
「ねえ、その二人のしでかした不祥事って何だったんだろう?」
「それについては、全然伝わってないの。何か、大切な花瓶でも壊したとか?」
「うーん」
和人は植わっている木に目をやった。
かなりの太さだった。もしかしたら、江戸時代の末期には植わっていたかもしれない。いや、たとえ木がなくても、この起伏や岩を利用すれば、縄を引っかける場所には困らないだろう。岩は数百キロはありそうな大きさなので、重しとしては十分すぎる。ただ……
「穴の底から縄を外に投げて、支持物に巻きつけるのは無理だ」
すでに予想はついていたことだったが、あらためて和人は言い切った。
「たとえ投げ縄の名人や牛追いのカウボーイでも、不可能だよ」
良子も頷く。
「そうよね。穴の深さがありすぎる。穴から縄の先端が出せても、何かに巻きつけるのは不可能と言っていい。そもそも穴の直径が2mじゃ、縄を振り回すのに、十分な距離じゃないもの」
「肩車説も厳しいよね。当時の日本人の身長は平均150cm。うまく肩に足を乗せて立てても3mしかかせげない。米俵を踏み台にしても厳しい。安定してないから、その体勢から縄を投げるのも難しいだろうし…」
縄を作ること自体は可能なはずだ。米俵に使われている藁紐を撚り合わせるもよし。着物を脱いで縛って綱状にするもよし。問題は、どう頑張っても穴の中からでは、作った縄を穴の縁から出すので精一杯ということだ。いくら近くに木の幹や岩があっても、巻き付けることができない。
あの方法以外は……
和人は頭をブルブルと振って、今、頭に浮かんだ思考を追いだすと、良子に聞いた。
「そういえば、ドッペルゲンガーって、自分で意図的に創り出すことは可能なの?」
「お? 和人くんもついにドッペルゲンガー説に乗ってきた?」
良子が面白がっている口調で言った。
「一応確認するだけ」
「自力で、意図的に創り出せたという話はないわ。ただ、ドッペルゲンガーが出現する前に、体調不良を訴える人はけっこういる。一説によると、分身を創り出すために体力やエネルギーが奪われているかららしいけど……」
良子の答えに、和人は黙った。
ドッペルゲンガー説はまったく信じていない。というより、信じるわけにはいかない。これでもミステリー小説同好会のメンバーなのだ。非論理的な解答を自分から出すわけにはいかない。
しかし、何とも答えのだしようがない。
過去の言い伝えだけならまだしも、現在の事件にもドッペルゲンガー説が出ている。もちろん二つの事件には何のつながりもない。
ただそれでも、和人としてはどちらかの事件を解決できれば、もう片方も解決の糸口くらいは掴めるかと思っていた。
そうであればなおさら、ドッペルゲンガー説を唱えるわけにはいかなくなってくる。
黙ったまま、目の前の風景に目をやる。
どこまでも濃淡様々な緑が広がっているので、視力が上がりそうな気さえする。
そんなことを考えていると、以前妹のゆきに、「幸子さんをずっと見ているほうが、目にはいいんじゃない?」と言われたのを思い出した。
「どうしたの?」
良子が不審そうに話しかけてきた。
無意識にニヤニヤしていたことに気づいて、和人は照れ隠しに咳払いした。
和人は答えられなかった。
走っていたのは十分程度だったが、自転車に追いつこうと必死だった。学校の長距離走よりもきつい。
気温よりも、湿度の高さも意識せざるをえない。どちらかといえば、熱帯の空気に近いのではないかとさえ思う。緑が広がる風景も遠くから見るのと違って、間近で見ると、熱と水蒸気を発散させるいやらしい植物の群れに思えてきた。
ようやく息が整い周りを見ると、まさに村外れの、家がない場所に来ていた。
小高い丘の上で、車道からは少し外れている。周りには何本か杉や松が植わっているほか、地面にも大きな岩が転がっていたり、起伏の目立つ場所だった。遠くには町や、そのはるか向こうには海が広がっているのが分かる。
「この辺りがその二人が投げ込まれた穴があった場所?」
「うん。言い伝えではね」
「ふーん」
和人は地面に触れた。
もちろん、今は穴などない。
かつては、ここに穴があったということだろうか。
深さは5mほど。直径は2mほどの穴蔵。そこには米俵が一俵と干した肉や魚があった。土が柔らかかったので湧き水は比較的簡単に手に入ったと思われるが、それゆえに穴蔵の壁面をロッククライミングの要領で登るのは無理だったといわれている。
どんなに食料を切り詰めても、大人一人、子供一人では、生きていられるのは二年半が限界だったはず。
「うーん」
「ね? やっぱりドッペルゲンガーだよ」
何がやっぱりなのかは、さっぱり分からなかったが、良子は少しおかしそうな表情で、和人の顔を覗き込んできた。
「ねえ、その二人のしでかした不祥事って何だったんだろう?」
「それについては、全然伝わってないの。何か、大切な花瓶でも壊したとか?」
「うーん」
和人は植わっている木に目をやった。
かなりの太さだった。もしかしたら、江戸時代の末期には植わっていたかもしれない。いや、たとえ木がなくても、この起伏や岩を利用すれば、縄を引っかける場所には困らないだろう。岩は数百キロはありそうな大きさなので、重しとしては十分すぎる。ただ……
「穴の底から縄を外に投げて、支持物に巻きつけるのは無理だ」
すでに予想はついていたことだったが、あらためて和人は言い切った。
「たとえ投げ縄の名人や牛追いのカウボーイでも、不可能だよ」
良子も頷く。
「そうよね。穴の深さがありすぎる。穴から縄の先端が出せても、何かに巻きつけるのは不可能と言っていい。そもそも穴の直径が2mじゃ、縄を振り回すのに、十分な距離じゃないもの」
「肩車説も厳しいよね。当時の日本人の身長は平均150cm。うまく肩に足を乗せて立てても3mしかかせげない。米俵を踏み台にしても厳しい。安定してないから、その体勢から縄を投げるのも難しいだろうし…」
縄を作ること自体は可能なはずだ。米俵に使われている藁紐を撚り合わせるもよし。着物を脱いで縛って綱状にするもよし。問題は、どう頑張っても穴の中からでは、作った縄を穴の縁から出すので精一杯ということだ。いくら近くに木の幹や岩があっても、巻き付けることができない。
あの方法以外は……
和人は頭をブルブルと振って、今、頭に浮かんだ思考を追いだすと、良子に聞いた。
「そういえば、ドッペルゲンガーって、自分で意図的に創り出すことは可能なの?」
「お? 和人くんもついにドッペルゲンガー説に乗ってきた?」
良子が面白がっている口調で言った。
「一応確認するだけ」
「自力で、意図的に創り出せたという話はないわ。ただ、ドッペルゲンガーが出現する前に、体調不良を訴える人はけっこういる。一説によると、分身を創り出すために体力やエネルギーが奪われているかららしいけど……」
良子の答えに、和人は黙った。
ドッペルゲンガー説はまったく信じていない。というより、信じるわけにはいかない。これでもミステリー小説同好会のメンバーなのだ。非論理的な解答を自分から出すわけにはいかない。
しかし、何とも答えのだしようがない。
過去の言い伝えだけならまだしも、現在の事件にもドッペルゲンガー説が出ている。もちろん二つの事件には何のつながりもない。
ただそれでも、和人としてはどちらかの事件を解決できれば、もう片方も解決の糸口くらいは掴めるかと思っていた。
そうであればなおさら、ドッペルゲンガー説を唱えるわけにはいかなくなってくる。
黙ったまま、目の前の風景に目をやる。
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そんなことを考えていると、以前妹のゆきに、「幸子さんをずっと見ているほうが、目にはいいんじゃない?」と言われたのを思い出した。
「どうしたの?」
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