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眠れない夜を抱いて
3.
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幸子は和人を家まで送ると、そのまま帰ろうとした。
だが和人の母、未歩が、「今夜は泊まっていくように」といった。色々あって疲れているだろうから、というのがその理由だったが、和人には母がゆきのことで謝罪の気持ちを持っていたのではないかと思えた。
幸子もさすがに疲れていたのか、素直に礼をいって従った。
居間では、風呂上がりの父、昇が機嫌よく晩酌をしていた。
「やあ、幸子さん、来てたのかい。たまにはうちに泊まっていったら? え? もう泊まっていくの決定? じゃあ母さん、幸子さんにはどこに寝ていただくの?」
「ご心配なく。毛布一枚あれば板の間でも寝れますから」
「いやいや。そんなわけには」
「戦前生まれをなめないでくださいな。まともな冷暖房もない時代ですよ」
「確かに。欲しがりません、勝つまではの精神ですな。ハッハッハ」
何がおかしいのか和人には分からなかったが、昇は楽しそうに笑っている。
幸子は昇の近くに腰かけると、ビール瓶をさっととり軽く酌をした。
「おお、これは、これは。こんな美人にお酌だなんて」
こぼれそうでこぼれないビールの泡に、昇が嬉しそうに口をつける。
「あの、娘さん、ゆきさんは?」
「え? ああ、あいつなら、ちょうど今、テスト勉強するって二階に上がっていきましたよ」
「そうですか……」
俯いた幸子を昇はしばらく眺めていたが、やがて少し居住まいを正すと、話しはじめた。
落ち着いた、それでいて決して説教くささを感じさせない声だったので、和人は内心驚いた。
「妻から聞きましたよ。ゆきのこと。どうか、今は見守っていてあげてください。あいつは、今戸惑っていると思うんです。もともと幸子さんの存在はこの町だけのかなり特殊なものです。ゆきは年齢とともに幸子さんに対して、あこがれとも反感ともいえない感情を持っていった。だけど兄を、和人を馬鹿にされたと思って、一気に反感の方に振れてしまったのでしょう」
昇はそこでつまみにしていた、きゅうりの漬物を口にした。ポリポリといい音がする。
「ところが幸子さんが素直に頭を下げてくれたおかげで、あっさり和人と仲直りすることができた。そうなると、ゆきとしては梯子を外された気になったんでしょう。いや、分かっている。和人が悪いんじゃない。それは分かっている。だが、そういう黒とも白とも割り切れないものをも飲み込む器が、どんな人間にも必要なんじゃないかと思うんですよ。ゆきにとっては、今それが試されている時なんだと思います」
最後は幸子に向けての言葉だった。
「そうですね。白とも黒とも割り切れないものを飲み込む器、昇さんのおっしゃる通りだと思います。この年になっても、なかなかそれほどの器は持てないでいますが」
いやいや、と昇は手を振った。
「幸子さんには、幸子さんのなすべきことがあると信じています。それは私らとは違う、おそらくもっと大変なことかもしれません。その支えになれること、町の連中も、口には出さなくてもみんな嬉しく思っています」
「ありがとうございます」
幸子は頭を下げると、にっこり微笑んだ。
あまりのかわいらしさに、昇と和人がぽかんと口を開けているところに、未歩が入ってきた。
「幸子さん、ゆきのこと、どうか許してやってくださいね。都合のいい言い方に聞こえるでしょうけど、まだ子供で気持ちの整理がついてないんだと思うんです。でもあの子なりに、きっとまた幸子さんを認められる時がくると思います。どうかそれまで見守ってくれませんか」
「もちろんです」
「大丈夫だよ、母さん。ゆきは自分の気持ちに素直になれるから。最後には幸子さんにちゃんと謝れるよ」
「さすがによく分かっているんだな、ゆきのこと」
幸子が和人に向かっていった。
「まあ、そこは兄妹ですからね」
「そうだな。仲のいい兄妹……」
幸子の顔が一瞬固まった。
まるで彫刻像のような美しさだったが、その一瞬の硬直の不自然さに気づいたのは和人だけだった。
だが和人の母、未歩が、「今夜は泊まっていくように」といった。色々あって疲れているだろうから、というのがその理由だったが、和人には母がゆきのことで謝罪の気持ちを持っていたのではないかと思えた。
幸子もさすがに疲れていたのか、素直に礼をいって従った。
居間では、風呂上がりの父、昇が機嫌よく晩酌をしていた。
「やあ、幸子さん、来てたのかい。たまにはうちに泊まっていったら? え? もう泊まっていくの決定? じゃあ母さん、幸子さんにはどこに寝ていただくの?」
「ご心配なく。毛布一枚あれば板の間でも寝れますから」
「いやいや。そんなわけには」
「戦前生まれをなめないでくださいな。まともな冷暖房もない時代ですよ」
「確かに。欲しがりません、勝つまではの精神ですな。ハッハッハ」
何がおかしいのか和人には分からなかったが、昇は楽しそうに笑っている。
幸子は昇の近くに腰かけると、ビール瓶をさっととり軽く酌をした。
「おお、これは、これは。こんな美人にお酌だなんて」
こぼれそうでこぼれないビールの泡に、昇が嬉しそうに口をつける。
「あの、娘さん、ゆきさんは?」
「え? ああ、あいつなら、ちょうど今、テスト勉強するって二階に上がっていきましたよ」
「そうですか……」
俯いた幸子を昇はしばらく眺めていたが、やがて少し居住まいを正すと、話しはじめた。
落ち着いた、それでいて決して説教くささを感じさせない声だったので、和人は内心驚いた。
「妻から聞きましたよ。ゆきのこと。どうか、今は見守っていてあげてください。あいつは、今戸惑っていると思うんです。もともと幸子さんの存在はこの町だけのかなり特殊なものです。ゆきは年齢とともに幸子さんに対して、あこがれとも反感ともいえない感情を持っていった。だけど兄を、和人を馬鹿にされたと思って、一気に反感の方に振れてしまったのでしょう」
昇はそこでつまみにしていた、きゅうりの漬物を口にした。ポリポリといい音がする。
「ところが幸子さんが素直に頭を下げてくれたおかげで、あっさり和人と仲直りすることができた。そうなると、ゆきとしては梯子を外された気になったんでしょう。いや、分かっている。和人が悪いんじゃない。それは分かっている。だが、そういう黒とも白とも割り切れないものをも飲み込む器が、どんな人間にも必要なんじゃないかと思うんですよ。ゆきにとっては、今それが試されている時なんだと思います」
最後は幸子に向けての言葉だった。
「そうですね。白とも黒とも割り切れないものを飲み込む器、昇さんのおっしゃる通りだと思います。この年になっても、なかなかそれほどの器は持てないでいますが」
いやいや、と昇は手を振った。
「幸子さんには、幸子さんのなすべきことがあると信じています。それは私らとは違う、おそらくもっと大変なことかもしれません。その支えになれること、町の連中も、口には出さなくてもみんな嬉しく思っています」
「ありがとうございます」
幸子は頭を下げると、にっこり微笑んだ。
あまりのかわいらしさに、昇と和人がぽかんと口を開けているところに、未歩が入ってきた。
「幸子さん、ゆきのこと、どうか許してやってくださいね。都合のいい言い方に聞こえるでしょうけど、まだ子供で気持ちの整理がついてないんだと思うんです。でもあの子なりに、きっとまた幸子さんを認められる時がくると思います。どうかそれまで見守ってくれませんか」
「もちろんです」
「大丈夫だよ、母さん。ゆきは自分の気持ちに素直になれるから。最後には幸子さんにちゃんと謝れるよ」
「さすがによく分かっているんだな、ゆきのこと」
幸子が和人に向かっていった。
「まあ、そこは兄妹ですからね」
「そうだな。仲のいい兄妹……」
幸子の顔が一瞬固まった。
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