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九十八
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「伊良! 身なりを整えて付いてこい」
朝、良庵と共に城に出かけた草庵が息を切らせて戻ってきたのは、半刻(一時間)も経たぬ頃だった。屋敷で一人、医学書に目を通していた伊良は吃驚と目を見開く。城へ登城する用の質の良い十徳を着た草庵は、どれだけ急いで来たのか、ひどく息を乱していた。緊急事態であることを察して、伊良は何を聞くことなく身なりを整える。伊良の護衛の藤兵衛も、慌てて着替えに走った。
心配げに見送る使用人たちにも、草庵は何の説明をすることもなく、ただ手を振って屋敷を後にした。
外は、ひどく冷たい風が吹いていた。伊良が紋付きに着替える間にひと息ついたらしい草庵が、おお、寒いと身を震わせる。屋敷へ戻るときは、そんなことにも気付かぬほどに急いていたのだろう。
「草庵先生」
早足で城へ向かいながら尋ねれば、ああ、と草庵は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「四郎さまの元服式が、いきなり始まりそうなんです」
「え?」
先日、時道さまが亡くなったらしい、との話をした後から、伊良はしばらく余四郎と会うことができていなかった。
時道さまご逝去の話は、未だ発表されていない。跡取りを誰にするのかの話し合いに、決着がついていないのだろうか。
「そんな。何故?」
余四郎は、一般的に元服をする年齢には達しているため、いつでも儀式ができるように準備はされていた。だが、殿の帰りを待って、その時期が延び延びになっていたのだ。ここまで待ったなら、もう、次に暖かくなる時期まで待つのが定石だろう。今更、急いでやることの意味が分からない。
それに……。そうだ。それに、誰が烏帽子親をするというのだろう。誰がしても揉める種になりそうだからと、それもあって殿の帰りを待っていたのではなかっただろうか。
殿の、帰りを……?
「……」
「まさか」
「……」
草庵の沈黙が、答えだった。
発表されてはいないが兄の時道の喪中である。にも関わらず余四郎の元服を急ぐ理由。それは。
「殿様……が」
草庵はうつむいたまま小さく頷した。
なんてこと……。
伊良は足を必死で動かしながら、呆然と呟いた。それでは。それではもう、本当に。
時行さまか、将軍様のお膝元の屋敷にいると言われる時道さまのご子息が、家督を継がれるしかないのだ。そして、まだ幼い若様が家督を継がれるなど現実的ではない。であれば……。
時行さまが、家督を継がれるのだ!
まさかまさかと思っていたことが現実になろうとしている。
余四郎はもちろん、時行にもそんなつもりは毛頭なかったというのに。
男児が四人も生まれたことで、家督争いが起こらぬようにと殿様が下した決断により、時行と余四郎はいらぬ若様だと言われて育った。子をなすことも許されない、先のない若様。けれど、二人の若様はそんな声にも腐らず、その一生を伴侶と楽しく過ごすことに決めて生きてきた。家督を継ぐ日が来るなど、思いもせず。
時行は、すでに行成と婚姻している。幼い若様が成長するまでのつなぎの殿様に子が生まれる心配がないのは、騒動の火種がなく良いことのはず。だが、跡継ぎがその子しかおらぬことがあまりに心許ないと考える家臣たちがいるという話を、伊良は先日、余四郎から聞いたばかりだった。
その者らは、余四郎の子を望んでいる、と。
「伊良! 身なりを整えて付いてこい」
朝、良庵と共に城に出かけた草庵が息を切らせて戻ってきたのは、半刻(一時間)も経たぬ頃だった。屋敷で一人、医学書に目を通していた伊良は吃驚と目を見開く。城へ登城する用の質の良い十徳を着た草庵は、どれだけ急いで来たのか、ひどく息を乱していた。緊急事態であることを察して、伊良は何を聞くことなく身なりを整える。伊良の護衛の藤兵衛も、慌てて着替えに走った。
心配げに見送る使用人たちにも、草庵は何の説明をすることもなく、ただ手を振って屋敷を後にした。
外は、ひどく冷たい風が吹いていた。伊良が紋付きに着替える間にひと息ついたらしい草庵が、おお、寒いと身を震わせる。屋敷へ戻るときは、そんなことにも気付かぬほどに急いていたのだろう。
「草庵先生」
早足で城へ向かいながら尋ねれば、ああ、と草庵は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「四郎さまの元服式が、いきなり始まりそうなんです」
「え?」
先日、時道さまが亡くなったらしい、との話をした後から、伊良はしばらく余四郎と会うことができていなかった。
時道さまご逝去の話は、未だ発表されていない。跡取りを誰にするのかの話し合いに、決着がついていないのだろうか。
「そんな。何故?」
余四郎は、一般的に元服をする年齢には達しているため、いつでも儀式ができるように準備はされていた。だが、殿の帰りを待って、その時期が延び延びになっていたのだ。ここまで待ったなら、もう、次に暖かくなる時期まで待つのが定石だろう。今更、急いでやることの意味が分からない。
それに……。そうだ。それに、誰が烏帽子親をするというのだろう。誰がしても揉める種になりそうだからと、それもあって殿の帰りを待っていたのではなかっただろうか。
殿の、帰りを……?
「……」
「まさか」
「……」
草庵の沈黙が、答えだった。
発表されてはいないが兄の時道の喪中である。にも関わらず余四郎の元服を急ぐ理由。それは。
「殿様……が」
草庵はうつむいたまま小さく頷した。
なんてこと……。
伊良は足を必死で動かしながら、呆然と呟いた。それでは。それではもう、本当に。
時行さまか、将軍様のお膝元の屋敷にいると言われる時道さまのご子息が、家督を継がれるしかないのだ。そして、まだ幼い若様が家督を継がれるなど現実的ではない。であれば……。
時行さまが、家督を継がれるのだ!
まさかまさかと思っていたことが現実になろうとしている。
余四郎はもちろん、時行にもそんなつもりは毛頭なかったというのに。
男児が四人も生まれたことで、家督争いが起こらぬようにと殿様が下した決断により、時行と余四郎はいらぬ若様だと言われて育った。子をなすことも許されない、先のない若様。けれど、二人の若様はそんな声にも腐らず、その一生を伴侶と楽しく過ごすことに決めて生きてきた。家督を継ぐ日が来るなど、思いもせず。
時行は、すでに行成と婚姻している。幼い若様が成長するまでのつなぎの殿様に子が生まれる心配がないのは、騒動の火種がなく良いことのはず。だが、跡継ぎがその子しかおらぬことがあまりに心許ないと考える家臣たちがいるという話を、伊良は先日、余四郎から聞いたばかりだった。
その者らは、余四郎の子を望んでいる、と。
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