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しおりを挟む幸福は日常の中に紛れ込んでいる。
大好きな人が同じ部屋に住んでいるだけで、世界は楽しいことに溢れるのだ。
午後七時。街頭だけが気持ちばかりに灯る、薄暗い帰り道。
会社から帰宅した井波は何気なく自宅マンションを見上げる。部屋には明かりが灯っていた。そのことに井波は、にやけるように笑みをこぼした。
(……まずいまずい。こんな道中でニヤニヤしてたら完全に不審者だよ)
周りに人がいないことを確認し、緩んだ顔を急いで引き締める。
一年前までは、一人暮らしをしていたため、帰宅時に電気がついているなんてことなんてなかったのだ。だけど、今は疲れて帰る家に大好きな人が待っている。一日の終わりに、必ず大好きな人に会えるのだ! それを想像するだけで、自然に笑顔がこぼれた。
「た・た・た! ただいま~!」
井波はルンタ、ルンタと珍妙なステップを踏んで、歌いながら玄関扉を開ける。適当に靴を脱ぎ、放り投げるように玄関に落とし、コートを翻すように脱ぐ。
井波がご機嫌な様子で動くたびに、柔らかい髪質の柔らかいショートカットの毛先が、ふわりふわりと揺れる。赤茶げたその髪質と、井波の気質はどこかゴールデンレトリバーのような毛並みのいい、大きな犬を想像させた。
本人の身長は156センチとそこまで大きくないのだか、本人の持ち前のおおらかさが、育ちの良さそうな気質が大型犬らしさを醸し出している。
「……お帰りなさい。今日はいやに陽気ですね」
返ってきた声は沈んでいた。今日の同居人は機嫌がよろしくないようだ。
同居人の名は佐々木と言う。
佐々木は言葉遣いこそ敬語だか、言葉の端々に漂う温度は低い。まるで無理やり冬眠から引きづり出された蛇のようだ。
玄関から見えるリビングルームのソファに寝転ぶように腰掛けていた佐々木は、よくビジネス街ですれ違うスーツの男性会社員が使っていそうな、スクエアの銀縁眼鏡をクイっと押し上げて、上機嫌な井波を睨むように見ていた。
どうやら、佐々木は今日の仕事を終えて、本を読んでいたようだ。
(……あれ? 締め切り前って言ってたはずなのに、こんなゆったりしていていいのかな?)
井波は心配になって、佐々木の様子を観察する。佐々木は見事なまでにだらけきっていた。だが、不思議と仕事が終わった、という達成感は見受けられない。
ソファには佐々木の腰まで伸びる黒い髪が放射状に広がっていた。
陽気でポジティブな井波と、ぱっと見テンション低めの佐々木。この二人がこの部屋の住人だ。
「そうなんだよー! 今日めっちゃいいことあってさー! 聞いてくれる?」
井波は母親を見つけた子供のように、佐々木の腰に抱きつく。
「手短に、簡潔にお願いします」
「はー! つめてぇ! 今日も冷えてる! もっと、優しく“何があったんですか?”(ニコッ)みたいに聞いてくれよー!」
佐々木は涙目になる井波の表情を見て、悪巧みに成功した悪女のように微笑む。佐々木は井波が子供のぐずるのを見るのが何よりも好きだった。
いつも会社ではポジティブオーラ全開で、できるキャリアウーマン感を演出している井波だが、家の中で佐々木だけに情けない姿を見せる。
それがたまらなく特別で、自分だけの宝物のように感じていた。
「申し訳ありませんが当方、あなたへの優しさを三年分ほど前借りで引き出していたのですが、そちらを全て使い切ってしまいまして、在庫がございません」
「え⁉︎ そうだったの? もっと現実的に運用して使っていけばよかった!」
これはまあ、この二人がよくじゃれ合うときに言う冗談である。冗談のはずなのに、決まって井波が悲壮な顔をするので、その顔を見るのが大好きな佐々木は、よくこの常套句を使うのだ。
「で? 今日は何があったんですか?」
「え、聞いてくれるの? やっさしー!」
「一応。この暮らしに関わることでしたら困りますから」
もうお気づきだろうが、佐々木は同居するくらい気の知れた相手にでも、敬語を崩さない女である。
その丁寧すぎる口調に、井波はいつも、どこぞの執事みたいだなあ、なんて思うが、彼女がそれを一番楽と感じているのであれば、気にする必要もないか、と深いことは聞かないようにしている。
「今日ね。実はおっきめの取引が成立しましたー! 社長がお祝いにシャンパンくれたんだよ!」
カバンに無理やり突っ込んでいた、シャンパンをこれ見よがしにジャジャーン、と見せる。
「そうですか……。よかったですね……」
しかし、反応は芳しくない。ニコニコ顔の井波に対して、佐々木は疲れたような表情を見せる。
「……どした? 佐々木はなんか疲れてんね」
「ええ……。もう私は今日ひどい目に遭いました……」
「何があったん? ちょっと言ってみ?」
「パソコンが……。壊れました……」
「え! 文章データ無事⁉︎」
「わかりません……。明日電気屋に相談に行こうと思います……」
佐々木はソファに身を丸めるような体制になり、シクシクと泣き始めてしまった。井波は慌てて、背中を撫でてやることにした。
佐々木は在宅でライターをしている。もともと抱えていた大きな案件が終わったばかりだったので、今書いているもの以外は送信しており、無事だったらしいが、一昨日から書いていた三万字が消えてしまったそうだ。
井波の仕事は営業職なので、あまり文字数を気にしながら文章を書いたことはないが、佐々木のソファから一歩も動けずシクシクと泣いている様子を見ると、相当な文字数が消えてしまったのだろうということが窺える。
佐々木は勢いよく起き上がり、釣り目の鋭い視線で井波を射抜いた。
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