濁らないあなたへ

そらいろ

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きっと相手には些細でちっぽけな過去

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「ここ、俺の家」

 足を止めて見上げると、よくテレビで見るようなボロボロの外観のアパート。階段は剥き出しで1階と2階、等間隔に扉が並んでいる。都内に本当にこんな家があるんだと薫はこの時初めて知って驚いた。

「ボロいよね?まぁ、売れない歌い手なんてこんなもんよ」
「びっくりしたけど、なんか……新鮮でわくわくするよ」
「こんなんでわくわくするなって」

 悠生に付いていくがままに誘導された階段の手前で足を止めてしまった。登ることもせず、足が全く動かせなかった。その場に立ちすくんで今度は指先から身体全身へ少しずつ震えだす。

「っ……」

 嫌な、冷や汗が流れてくる。
 目の前にある鉄骨が古くなり錆びた階段は、軽快で無機質な音を奏でる事を知っている。

 高校の頃、そんなに遠くない過去なのに暗闇の底に蓋をして沈ませていたこの記憶。
 教室でいつも通り一人で過ごしていた休み時間に、突然肩を叩かれて振り向くと一人のクラスメイトが親指を立てて『ついてこい』と誘導した。
 何も分からずクラスメイトの後ろについて行った先は、生徒も先生も利用することがあまり無い校舎裏へ続く扉の目の前だった。『入れよ』と背中をポンと押され、その重たい扉を押し開けると見えた外の景色がとても新鮮だったせいか、薫はその瞬間を過去になった今でも鮮明に覚えている。そこまでは良かったんだ……。

「こいつ、いっつもヘッドホンしてさ、全然喋らないんだぜ」
「授業中もヘッドホンしやがって、音楽ばっか聴いてんじゃねぇの?」
「無表情だし、何考えてるか分かんねぇから不気味だよな」

 非常階段の踊り場から見上げ、上から降ってきた皮肉な声は、誘導した男子も含めて三名。全員が薫のクラスメイトで名前は分からないが顔は知っていた。

「なんか、音が駄目とか意味分かんねぇよな。なら学校来るなよって感じじゃね?」

 そう言いながら強くその場で足をドンと踏んだ。
 響く。
 足音だけじゃない。鉄製の非常階段が奏でる音が嫌に歪んで聞こえた。

「俺らがここで音を出してやるから聞けよ!おら!」

 その言葉を筆頭に彼らは三者三様、ランダムに足踏みを始めた。音の大小問わず、不協和音よりも気味の悪い異質で歪んだ音を奏でる。

(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……)

 ヘッドホンに手をかけて、強く耳に押し当てる。少しでも自分の中に入ってくる音を減らしたかった。が、そんな行動もほぼ無意味。抵抗の声も出せない程、鳴り止まないその音が薫の異常をどんどんと悪化させていき、イライラを募らせた同級生たちの足音は次第に大きくなっていった。

 ものすごい速さで脳裏を掛け巡る。最悪の思い出だ。吐き気をもよおして、うずくまる。
 両手で耳を塞いで震えている様子を見て悠生は悟ったように薫の肩を優しく抱き、「耳元で小さく歌うから聞いて。一緒に行こう」と言って微笑んだ。

「らーらーらら~、ら~らら」

 小さく言葉にならないメロディが耳を支配していく。階段を一段、また一段と登るペースもピッタリと合わせてくれ、それでリズムを取るかのように歌を紡いだ。その歌を逃したくなくて、耳を塞いでいた手の力を抜いた。歌だけが聞きたいという祈りを大嫌いな音に大好きな音を乗せることで、神様が許してくれたかと本気で思った。悠生から発する音によって、薫は階段を登りきることが出来た。
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