《蒼眼のトライブ Last Testament(ラスト・テスタメント)》

ケリーエヴァンス

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第16話 森に息づく影

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鬱蒼と茂った原生の森の奥。
まだ魔獣の領域には届かぬとはいえ、人の気配を拒むような深緑の圧が、じわりと空間を覆っていた。

風は止み、音は途絶え、湿った葉の匂いが鼻腔にじっとりとまとわりつく。
木々は空を塞ぐように枝葉を伸ばし、陽光は高い樹冠に遮られて、足元には昼とは思えない暗がりが広がっていた。

「……妙ね」

エヴァが不意に足を止めた。
その声音には、警戒というより“察知”に近い鋭さが宿っている。

「どうかした?」

すぐ前を歩いていたフェイが、振り返らぬまま肩越しに問いかけた。
歩調は緩めたが、どこかのんびりとした響きが残っている。

エヴァは応えずに、じっと森の空気を読むように視線を巡らせた。

「風が流れていない。空気が重すぎる……」

その言葉に含まれるのは、“気象”への感想ではない。“気配”の話だ。
空気の揺らぎ。葉の揺れの不自然な止まり方。草を押し分ける気配の微細な誤差――

彼女は、瞬きもせず呟いた。

「……いる。四方……いえ、上下も。囲まれてる」

言葉と同時に、右手が無意識に剣へと滑る。
その瞬間――

「ザリ」

音もなく、木の上から何かが落ちてきた。
黒い影。瞬きの間に地面へ着地し、揺れる葉すら沈黙する。

それが合図だったのか。
茂みの陰、岩の背後、木の幹を背に――
森のいたるところから、黒装束の者たちが、まるで霧から立ち上る影のように姿を現した。

顔の下半分は布で覆われ、視線のみが鋭く、冷ややかにふたりを見据えている。
一切の物音も発せず、ただ、じっと立ちふさがる。

その数はざっと十を超えていた。
抜刀はしていない。だが、その手はいつでも鞘にかけられる体勢にある。
沈黙の中で張りつめる空気は、明らかに“こちらを試している”ものだった。

「……なんであんた、そんなに平然としてるのよ」

エヴァがわずかに目線を横にずらし、呆れと苛立ちをない交ぜにした声を放つ。

フェイはそれに軽く笑いを返した。
けれど、彼の瞳はいつもの柔らかな琥珀ではなかった。わずかに冷えた、青の光が底に滲んでいる。

「いやぁ、内心ではちゃんと驚いてるよ? “おっと、これは手荒な歓迎だなぁ”ってね」

「じゃあ何で黙ってたの」

「だって、言ったら……君、抜刀して突っ込んでたでしょ?」

「……否定できないだけに、反論しにくいけど!」

悔しさのこもった囁きとともに、エヴァの剣にそっと指がかかる。
動けば一触即発。しかし――今は、まだ動かない。

周囲の影たちは何も言わず、ただ“見る”。

こちらを計るように、値踏みするように。
無音の圧力が、確実に緊張の輪を狭めていく。

フェイは肩の力を抜いたまま、黒装束の中心に立つ一人へとわずかに視線を送った。

「さて、どうしたものかな。……お話くらい、聞いてくれると助かるんだけど」

義賊たちの沈黙を破るように、前列に立っていたひとりが、鋭く声を張り上げた。

「貴様ら、何者だ」

その声音には、ただの威嚇ではない“確認”の気配があった。
どこか、探るような、試すような……あるいは、“確かめたい何か”を含んだ色。

だが、フェイは相変わらず飄々と、肩をすくめてみせる。

「だから旅人だってば。見ての通り、ちょっと迷いやすい性分でね。森の案内してくれたら嬉しいなぁ、なんて」

その飄々さに、義賊の目が険しさを増す。

「ふざけた男だ」

その言葉と同時に、前列から一人の義賊が踏み込み、まっすぐに突っかかってくる。
速い――!

「来た……!」

エヴァの体が、反射よりも早く動いた。
鞘に納まった剣が、まるで意思を持つかのように滑り出し、飛びかかる義賊の刃と正面からぶつかる。

ギィン!

金属が擦れる甲高い音と共に、火花が散った。

「これなら……正当防衛よね!」

視線を鋭く見据え、エヴァは左足を軸に流れるように体を回す。
斬撃をはじいた勢いのまま、二撃目、三撃目を流すように捌く。

(勢いだけじゃない……この剣筋、素人の遊びじゃない!)

相手の一撃一撃は重い。だが、それ以上に技術が通っている。
動きは荒いが、無駄がない。実戦経験を重ねた者の剣――

ならば、こちらも遠慮は無用。

エヴァの剣が、鮮やかに弧を描く。
相手の斬撃をかわし、逆手にひねってからの反撃――

シュッ

剣先が相手の肩口をかすめ、布地を裂いて赤をにじませた。

「っ……!」

義賊が後退し、舌打ちを漏らす。
それでも表情に怯みはない。痛みよりも、むしろ“評価”するような目がこちらを見ていた。

「……本気で殺す気はないわ。でも、こっちも遊びじゃないの」

息を切らすことなくそう言い切った瞬間、背後からさらなる気配。

「ッ……!」

茂みから飛び出した二人目の義賊が、間合いを詰めようとする。
エヴァはすぐに一歩退いて、体勢を低く構え直した。

「……数で来るのね」

その目には焦りはなかった。むしろ、研ぎ澄まされた静けさが宿っていた。

そして。

背後では――

「ん~、がんばってるねぇ。さすがエヴァさん」

フェイが緊張感など一欠けらもない様子で、腰に手を当てたまま、練習試合でも眺めるような顔で立っていた。

その姿に、エヴァはぎり、と奥歯を噛んだ。

「だったら少しは動いて……!」

「じゃあ、ちょっとだけ」

そう言ったフェイが、ひとつだけ、呼吸を置いた。

抜刀しない。膝も落とさない。
ただ——ほんのわずかに、重心をずらして構えを取った。

その瞬間だった。

“音”が消えた。

風も止まり、木々も沈黙し、鳥のさえずりさえ聞こえなくなった。
まるで、世界そのものが息を潜めたかのようだった。

静寂というより、圧。

視えないものが、周囲の空気をひしゃげさせていく。
それはわずかな殺気。そして、その“可能性”だった。

だが、その可能性が“現実になり得る”と直感させるだけの“力”があった。

一歩踏み出したら終わる。

その錯覚を、義賊たちの全身が感じ取っていた。

──動けない。

まるで、体の外から“動くな”と命じられているかのようだった。

前列の義賊が剣を握りしめる指先に、冷たい汗が滲む。
背後の者たちも、視線で目配せするが、誰一人として踏み込めない。

「……っ、なんだ、今のは……」

誰かの喉の奥から、言葉にならない音が漏れた。

しかし、フェイは何もしていない。ただ、構えただけ。
けれどその構えが、“圧”となり、“恐怖”に変わった。

そしてそれは、すぐ傍で見ていたエヴァにも、確かな“既視感”をもたらしていた。

(——この“気配”……前にも……)

頭の中に浮かぶのは、数日前に立ち寄った辺境の村。
そこでフェイを探していたとき、酒場で絡んできたならず者たちが、突如怯えたように退いた場面。

声を荒げたわけでも、剣を抜いたわけでもなかった。
それなのに、周囲は明らかに“空気が変わった”と感じていた。

(あのときも……たぶん、今と同じ……)

ぞくり、と背筋を走る感覚。

何もしていないのに、すべてを制することができる。
それが“本物”の持つ、存在感というものなのだろう。

そして、その張り詰めた空気を裂いたのは、低く、芯のあるひとつの声だった。

「——下がれ」

その一声で、まるで封じられていた時が解かれるように、義賊たちの身体から緊張が解けていく。
全員が一斉に後退し、静かに道を開けた。

木々の合間、奥の茂みから現れたのは、他の者と同じ黒装束を纏いながらも、明らかに“格”の異なる一人の男。

その気配は、まるで森そのもののように静かで深い。
威嚇ではない。だが確かに、中心に立つ者の風格があった。

「……あれが頭?」

エヴァがぽつりと呟く。

男はフードを深くかぶっており、その表情は影に隠れて見えない。
だが、フェイを見たその瞬間——わずかに足を止めた。

「お前は……何者だ」

低く、慎重な問いかけ。
その声に宿るのは警戒、そして見極めようとする意志だった。

フェイは肩を竦めて、小さく笑う。

「“黒雷のレイ”って、聞いたことある?」

その名が落ちた瞬間。

男の目が、はっきりと見開かれた。

「……それは、祖父の……昔のあだ名……」

その声には、混乱と、理解と、感情が、微かに混ざっていた。

フェイはどこか懐かしむような笑みを浮かべたまま、少しだけ遠くを見た。

「他の奴には呼ばせなかったって、聞いたよ。……あいつ、照れ屋だったもんな」

深い静寂が、森の奥を包み込む。
風も止み、葉も揺れず、音という音がどこか遠くへと消えていた。

ただ一つの問いだけが、空気を震わせた。

「……いよいよなのですか?」

それは、森の影に溶け込むように立つヴァーグの声だった。
抑えられた低音。けれどその中には、確かに**“覚悟”と“畏れ”**が混ざっていた。

いつもは微動だにしない男の指が、わずかに震えている。
それは、今この瞬間が、時代の節目であると、本能で感じ取っている証だった。

フェイはその問いをまっすぐに受け止め、ひと呼吸を置いたあと、ごく静かに、首を縦に振った。

「……ああ。そろそろ、幕が上がる。だから——来た」

その言葉は、木々の間をすり抜けて、森全体に染み込んでいくようだった。

沈黙。
それは、ひとつの歴史が動き出す前の、深い深い呼吸だった。

そしてやがて、ヴァーグはゆっくりと頭を垂れた。

その声は、これまでに誰にも見せたことのない、深い忠誠の響きを宿していた。

「我ら、**《聡明の七星》**を継ぐ者として……
今よりあなたの命に従います。どうか、この手に、果たすべきお役目を」

森の空気が、静かに張り詰める。

だが、フェイはわずかに苦笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。

「……そんな仰々しい言い方はやめてくれよ。背中がむず痒くなる」

軽口めいたその言葉の奥にあるのは、変わらぬ柔らかさ。
けれど、その瞳には冗談ひとつない“真実”の色が宿っていた。

「君には、“裏”を頼みたい。
表の戦いじゃない。情報の流れ、目に見えない連携、時代の綻び……
誰にも気づかれないまま、それらを拾い、繋げ、支えてほしい」

「……承知しました」

ヴァーグは一歩、膝を折るようにして頭を垂れた。
その仕草には、すでに**“臣下”としての自覚**があった。

森に満ちていた緊張が、ほんの少しだけ、解けていく。

けれどそれは、決して安堵ではなかった。

むしろ——嵐の前の静けさ。

夜明け前、あらゆるものが眠り、ただ待つばかりの時。

そして、その“時”が、いよいよ近づいてきているのだった。
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