《蒼眼のトライブ Last Testament(ラスト・テスタメント)》

ケリーエヴァンス

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第17話 風は変わる、心も変わる

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ヴァレスティアの森に、再び深い夜が訪れる。
義賊たちが本拠としている廃寺の地下——
光の届かぬ空間に、数名の黒装束が静かに並んでいた。

その中心に立つのは、ヴァーグ。

冷たく凪いだ空気のなか、彼の声が落ちる。

「……時が動き出した。今夜を境に、我々の立ち位置も変わる」

誰一人、言葉を挟まない。ただ、その言葉を待っていたように、全員の背筋が伸びていた。

「目的や敵の輪郭は、今はまだぼやけている。だが……ただの“義賊ごっこ”をしていればいい時代は、もう終わったということだ」

ざわつきはない。全員が、その変化を予感していたからだった。

「……私が信を置く人物が、この国の裏に潜む“波”を見据えて動き始めた。名もなき者ではない。語るべきときが来れば、必ず伝える」

視線が数人をなぞる。中には眉を動かす者もいたが、反論は出ない。

「我々“影に生きる者”の本懐は、表に立つことではない。
ただ、真実が覆い隠されたときに、その裏を読み、先を走ること。……それが、今、必要とされている」

ヴァーグは歩み寄りながら、それぞれの顔を見て言葉を続けた。

「これより各自、持ち場を再配置する。
東方交易路、王都北端、オルカスの鉱山帯……それぞれに“兆し”がある。
接触する者、観察する者、情報を持ち帰る者——役割は明日から渡す」

沈黙の中で、誰もが頷く。

「繰り返すが、“目的”は明かされない。だが、信じろ。
これは、“必要な変化”だ。
そしてそのために……我々の力が求められている」

最後に、ヴァーグはゆっくりと拳を握った。

「動け。散れ。そして、見届けろ」

その一言で、黒装束たちは音もなくその場から姿を消していく。
まるで、夜風にまぎれる影そのもののように。

ヴァーグは、消えていく配下たちの背中に目を向けながら、
心の奥で、かすかに浮かび上がる“懐かしい面影”を思い描いた。

(……やはり、帰ってきたか。あの人の“意志”が)

その胸に宿るのは、かつて“祖父”から聞いた名前——**“黒雷のレイ”**の記憶。

そして、再び動き出す物語の、静かなる“先導者”としての覚悟だった。

***

森を抜けたその先、風景は一変していた。
鬱蒼と茂る木々の壁を越えた瞬間、湿気の気配は引き、代わりに乾いた土と若草の匂いが鼻をくすぐる。
朝の陽光がまだ柔らかく、丘陵を穏やかに照らしていた。

その緩やかな道を、フェイとエヴァのふたりが歩いていく。
背中には森林の静寂を、目の前には新たな地平を。無言の時間がしばし続いた。

だが――

「……参ります」

その声は、まるで風に混じった囁きのようだった。

ふたりが歩みを進める道の脇、木陰から黒装束を脱ぎ、旅装に身を変えたヴァーグが現れた。
姿勢を正し、一礼。

「命、拝領いたしました。以後、陰より支援に徹します」

フェイは振り返りもせず、手をひらりと振って応じた。

「うん。頼りにしてるよ、ヴァーグ。……でも、顔は見せなくていい。君の本領は“影”だ」

「心得ております」

それだけを言い残し、ヴァーグの姿はすぐに風に溶けるように消えた。

ほんの数秒前までそこにいたはずの気配すら、完全に霧散している。

エヴァは少しだけ眉をひそめ、ため息を漏らす。

「……すごいわね。もう気配が消えてる」

「あれ、すごいよね、感心するよ。本人は目立つのが大嫌いなだけなんだろうけど。ひっそり、静かに、でも正確に。まさに“裏方の鑑”ってやつさ」

「……あなたの周りには、“普通”な人が本当にいないのね」

「いやいや、俺はごく一般的な旅人ですよ」

にこりと笑うその調子もいつも通りだが、エヴァにはもうその“ごまかし”の層が薄くなっていることがわかっていた。

しばらく無言で歩いたのち、再び彼女は問いかけた。

「さっきの、あれって……何だったの? あの気配。空気が一瞬で固まったわ」

フェイは立ち止まり、肩越しに空を仰ぐ。

「……人数が多かったからね。少しだけ“やった”だけ」

「それだけで、殺気で人の意志を止められるなんて、あなた本当に……」

そこまで言いかけて、ふと声を切った。
フェイがくるりとこちらを向き、満面の笑みを浮かべている。

「何? もしかして惚れた?」

「……違う」

バッサリと否定したが、その口元には、少しだけ苦笑が混ざっていた。

そしてそのさらに後方。誰の目にも映らぬ位置から、ヴァーグがただ静かにその様子を見届けていた。

“護衛”ではなく、“目”。
それが今の彼に与えられた役割だった。

無言のまま、風と同化するようにまた気配を希薄にして、ヴァーグは二人の後を追っていく。

柔らかい丘の稜線をなぞるように、ふたりの影が延びていく。
森のしっとりとした匂いはもう背後に消え、乾いた風が頬をかすめる。
歩を進める音だけが、草を踏む柔らかな感触とともに続いていた。

エヴァは、ふと黙り込みがちになった自分に気づく。

(……さっきの“気配”)

あの、酒場で絡んできた男たちが一斉に怯んだ時の、ぞくりとする空気。
あの場にいた“見えない何か”の存在。
ずっと答えが出なかった問いに、今、ひとつの線が繋がる。

(……あれは、この人がやったんだ……)

フェイ。
どこまでも掴みどころがなく、気が抜けるような笑みを浮かべて、どこまでが本気で、どこまでが嘘かわからない――そんな男。

けれど、自分をも凌駕するような“力”を持っていることだけは、もう否定しようがなかった。

ほんの一瞬、ぞくりとしたものが、胸の奥を通り過ぎた。
けれど、それは恐怖ではない。
守る側として生きてきた騎士として、“守られる”ことを嫌い、拒んできたはずなのに……このとき、なぜかその感情に嫌悪を抱けなかった。

自分のなかのどこかが、静かに“何か”を認めている――そんな不思議な感覚があった。

だが、それが“好意”なのだとは、エヴァ自身、まだ気づいていない。

「でも、あんなの、誰でもできるわけじゃない」

ふいに口をついて出たその言葉に、フェイはふっと目を細めた。

「まあ、そうかもね。ちょっと昔にね、色々と……物騒な時代を渡ってきただけさ」

冗談めかすでもなく、ただ淡々と。
それだけで、何か重いものを通ってきたという雰囲気が、自然と伝わる。

「……ほんと、何者なのよ、あなた」

エヴァの問いに、フェイはくるりと振り返り、肩を軽く竦めた。

「ただの案内人だよ。森に詳しい、ちょっと物知りなだけ」

「その案内人が、義賊の頭と顔見知りで、“気配”だけで人を止めるの?」

「いやいや、気のせい。そういう“偶然の演出”って、よくあるでしょ? 物語とかで」

茶化すような口ぶり。けれど、視線だけは――どこか深いところに触れさせないままだ。

エヴァは肩をすくめ、軽く息を吐いた。
呆れにも似た吐息の奥に、しかしほんのわずかな柔らかさが混じっていた。

「……あ、それからもうひとつ。“聡明の七星”って、確か……帝都が成立する前の英雄たち。
あなた、まさかその一人と……関係があるんじゃないの?」

歩みを止めたフェイが、少しだけ視線を逸らす。
空のほうを見ながら、小さな声でぽつりと言った。

「……違うよ」

「えっ……そう、なの?」

「違う。ただ、それだけ」

否定はした。
けれど、その言い方にはどこか“真実をすり抜けるような”余白があった。

エヴァは、言いかけた言葉をのみ込み、代わりに小さく息をついた。

「ほんとに、もう……絶対なにかあるじゃない」

「おっ、見えてきた。次の村かな」

「はぐらかさないで」

「お昼なににする? そろそろパンが飽きてきたなぁ~」

「フェイ!」

名前を呼んでしまってから、エヴァはほんの一瞬だけ自分の声に驚いた。
これまで、必要以上に距離を保っていたつもりだったのに。
けれど、それ以上は言わなかった。言っても、どうせはぐらかされるのだから。

……それでも、少しずつ。
この旅の中で、自分の中の“なにか”が変わりはじめていることだけは、気づいていた。

その変化を、まだ言葉にはできなくても。

やがて、緩やかな丘を越えたその先に、小さな集落が姿を見せた。

石畳の細道が折れ曲がりながら村へと続き、道の両脇には低く手入れの行き届いた畑と果樹の列が並んでいる。午後の陽射しに包まれた村は、静かで、穏やかで、まるで時間の流れがゆっくりとほぐれていくような空気を纏っていた。

「……あった、あそこだ」

フェイが軽く指を伸ばした先には、質素ながら温かな趣をたたえた宿の看板が揺れていた。
石造りの外壁に、木枠の窓。花壇には季節の草花が咲きそろえられ、軒先に吊るされたハーブが風に揺れている。

「この村で一泊?」

エヴァが問いかけると、フェイは当然だと言わんばかりに頷いた。

「うん。さすがに、少し休まないとね。身体も心も、油断した瞬間に鈍るよ」

「……それ、私に言ってる?」

「まさかぁ。俺はただの案内人。気楽な立場なんで」

フェイはそう言って笑ったが、その横顔にはどこか、気づかれないように配慮するような色が一瞬だけ混じった。
彼の言葉に、エヴァも内心では思い当たるものがあった。戦闘の疲労は、表に出していなくても確実に蓄積されている。

「……確かに。あまり認めたくないけど、ちょっと疲れてるわね」

「でしょ。飯と風呂と寝床さえあれば、だいたいの問題は片づくんだよ」

フェイが宿へ向かおうとしたそのときだった。
すぐ近くの広場から、荒々しい声が風に乗って響いてきた。

「これじゃ足りねぇんだよ! 村長を呼べ!」

「無茶言わないでください、これ以上は……!」

思わず、ふたりは足を止めて顔を見合わせる。

視線の先――宿のすぐ裏手の広場では、数人の村人たちが、粗野な男たちに取り囲まれていた。
傭兵風の身なりに、肩で風を切るような高圧的な態度。剣こそ抜いていないが、その雰囲気は“支配”のそれだった。

「……徴収?」

エヴァが眉を寄せると、フェイは目を細め、低く呟いた。

「いや……押し込みに近いな。金のために雇われた“荒事専門”の連中だ。統制も誇りもない。ただ、力でねじ伏せるだけ」

エヴァの横顔に、うっすらと緊張が浮かぶ。

「面倒事に……首を突っ込むつもり?」

フェイは軽く笑ってみせた。けれど、その笑みにはいつもの軽さとは違う、“熱”が含まれていた。

「面倒な方が、旅は退屈しない。なにより……こういうの、放っとけない質なんだよ、俺」

「……はあ……本当、トラブルメーカーよね」

一歩、歩き出したフェイの背に、エヴァは一瞬だけ迷うような素振りを見せた。
だがすぐに、息を整えて口を開いた。

「……私も行く。どうせ一緒に動くなら、最後までやるわ」

フェイがちらりと振り返る。その目には、からかいではなく、柔らかい“信頼”が浮かんでいた。

「お、頼もしい。じゃあ、仲良く突撃ってことで」

「……勘違いしないで。ほっとけないだけ。ああいうの、見過ごすと後悔するから」

「うんうん、理由はどうでも。ついてきてくれるなら、それでいい」

フェイはのんびりとした足取りで広場へと向かう。
その背中を見つめながら、エヴァは小さく、しかし深く息を吐いた。

(……どうしてだろう。今までなら“無関係”って、割り切れたのに)

踏み出したその一歩に、もはや迷いはなかった。
その先に何があろうとも、彼の背を追い、並び、そして、見極める。

それが今の自分にできる、“まっすぐな騎士の在り方”だと信じて。
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