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第21話 白影と名を結ぶとき
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ヴァレスティア森林の奥。
朝の陽が梢の隙間からこぼれ落ち、細やかな光の粒が揺れるたび、苔むした地面は緑色のベールをまとっていた。
鳥の囀りと、木々を渡る風の音。
足元には湿った落ち葉、遠くで鹿の小さな足音。
そのすべてが、ここが“人の場所ではない”と物語っていた。
「ねえ、フェイ」
歩いていたエヴァが、不意に口を開いた。
足元を注意深く見つつも、横目でフェイを見やる。
「あなたって……普段は、どんな風に過ごしてたの?」
フェイはふと立ち止まり、笑いながら頬をかく。
「どんなって……うん、まあ、山暮らしってやつかな。
朝起きて、火を起こして、川の水で顔を洗って……。食料は、キノコとか木の実とか、罠に引っかかった小動物とか。そんな感じで、適当に」
「……すごく、質素というか……サバイバルね」
「まぁ、文明から離れると、自然とそうなるんだよ」
言いながら、フェイは低く枝をかがめ、蔓をひとつ引きちぎる。
その先には、淡い青の小さな花がついていた。
「これは、“睡草(ねむりくさ)”。葉を揉んで布に包むと、眠るときにいい香りがするんだ。熟睡できる」
「……へえ。……騎士学校じゃ絶対習わないわね、こんなの」
エヴァが感嘆の声を漏らす。
フェイは、その反応がなんだか嬉しかったようで、小さく笑った。
「食える草もあれば、毒のある実もある。
でも、どれが“生き延びる術”かを見分けるのは、結局……五感の積み重ねなんだよ」
木漏れ日の中、ふと風向きが変わる。
森の匂いが微かに湿りを帯び、気温が一段、ひんやりと落ちる。
「でも……怖くなかった? 一人で、ずっとこういう森の中で暮らすのって」
エヴァの問いに、フェイは空を見上げた。
高い梢の隙間から、陽光がまっすぐに差し込んでいる。
その光が、彼の瞳を淡く照らした。
「……怖くないとは言えないかな。でもね、こういう静けさって、心を沈めてくれるんだ。
騒がしい町の中じゃ気づけない“音のない優しさ”が、森にはある」
「……音のない優しさ、か……」
しばらく、ふたりの足音だけが森を進む。
だが、エヴァが何かに気づいたように立ち止まる。
「……今、音が止まった」
フェイの顔から、柔らかな空気がすっと抜けた。
「……ああ。周囲の鳥が、逃げたね」
その瞬間——
茂みが激しく揺れた。
そこから飛び出してきたのは、異様な姿の獣だった。
狼のような輪郭をしているが、毛並みはまばらで、ところどころに瘡蓋のような赤黒い斑点が浮かんでいる。
目は濁り、涎を垂らしている。
「……あれ、病気じゃない。魔素に……侵されてる?」
エヴァが剣を抜く。
フェイは目を細めた。
「本来なら、臆病なはずの獣だ。……でも、何かに追い詰められてる」
獣は低く唸り、牙を剥いた。
だがその直前、フェイが一本の枝を拾い、手早く何かを括り付ける。
「目を引いて。ちょっとだけでいい」
「了解——!」
エヴァが前に出て剣を構えると、獣の注意が彼女に向く。
次の瞬間、フェイが獣の背後に滑り込み、枝の先で地面の落ち葉を舞い上げた。
煙幕のように広がった灰色の粉塵。
その中をすり抜け、フェイが一撃、獣の首筋に的確な一突きを入れる。
ごう、と空気が鳴り、獣が崩れ落ちた。
「……無理に殺したくはなかったけど。これ以上、苦しませるのも酷だったから」
フェイの言葉には、痛みのような、寂しさのような響きがあった。
エヴァは、その倒れた獣の傷を見つめた。
「……これは、自然の病気じゃない。人為的……か、それとも」
「“外”から、何かが流れてきてる」
フェイの声は低く、深くなっていた。
そのとき——
風が変わった。
草木の間を抜ける風が、まるで“視線”のように感じられた。
振り返っても誰もいない。
ただ、確かに——何かが、“こちらを見ていた”。
「……もう近いかもね」
フェイがぽつりと呟いた。
エヴァは何も言わなかった。
けれど、今、この森の中で確かに何かが“異変”を引き起こし、そしてそれがフェイに向かって近づいているということだけは、全身で感じていた。
その気配は、恐怖ではなかった。
ただひたすらに、深く、静かで、どこか懐かしかった。
まるで——ずっと昔に忘れていた誰かが、ようやく姿を現してくれたような。
そんな、不思議な温度があった。
獣との遭遇を終えたあと、ふたりはさらに東へと歩みを進めていた。
陽はすでに頭上を過ぎ、森は再び静けさを深めていた。
しかし今度の静寂は、安らぎとは違う質のものだった。
「……空気が、変わった」
エヴァが足を止め、周囲を見回す。
「風も止まったし、鳥もいない」
「うん。……あいつの“気配”が近い」
フェイは囁くように言った。
その声には緊張ではなく、どこか“懐かしさ”が混ざっていた。
森の密度はさらに増し、枝葉が上空を覆い尽くす。
まるで光そのものが、拒まれているかのような領域。
そしてやがて、地形が沈み込む谷に出た。
それは自然が長い年月をかけて削った、浅く広がるすり鉢状の窪地。
その中心には、影のような重たさが沈んでいた。
フェイは立ち止まり、瞳を閉じる。
一呼吸。
そして、瞼を開いたとき——その青い瞳に、かすかな光が宿る。
「……来たよ」
エヴァも、思わず息を呑む。
谷の奥、木々の間から、静かに“それ”は現れた。
全身が白。
毛はなく、つるりとした肌がわずかに陽光を受けて鈍く光る。
その巨体は熊より大きく、体高は三メートルを超えている。
けれど、そこに“獣”の荒々しさはなかった。
むしろ、静謐な神殿のような空気をまとっていた。
その姿は、何か神話から抜け出してきたかのようだった。
腕は異様に長く、太く、三本の指が地面すれすれに垂れている。
歩行は、腕と足を組み合わせた、独特の四足のような移動。
だが、その動きは驚くほど静かだった。
一歩ごとに、森が少しずつ息を潜めていく。
そして、顔。
そこには、目も鼻もなかった。
代わりに、盛り上がった前面は丸く、なだらかな丘のような曲面が広がっている。口があるかどうかは見てもわからない。
なのに、はっきりと“見られている”と感じる。
じわりと背筋に染み込むような、静かな視線。
エヴァは、その無機質な“顔”に、不思議な圧を感じながら、剣の柄に指をかけた。
「……何、あれ……!」
その瞬間、フェイがふわりと前に出た。
「大丈夫。敵じゃないよ」
白い存在は、ゆっくりと近づき、フェイの肩に鼻先のような部分をそっと寄せる。
まるで、「久しぶり」と言うように。
「……ほら、やっぱり覚えてた」
フェイは小さく笑い、肩の力を抜く。
「よっ、リィ。元気そうでなにより」
その白い巨体——フェイが「リィ」と呼んだ存在は、微かに首を傾ける。
そして、遠慮のない力で、フェイの胸に頭突きを食らわせるように突っ込んだ。
「うわっ、ちょっと! 重い重い重いってば! しかも脇はやめろ、そこはくすぐったい!」
フェイが抗議するように押し返すが、声には怒気のかけらもない。
むしろ、まるで懐かしい友と再会した少年のように、顔が綻んでいた。
離れた場所で見ていたエヴァは、その光景に言葉を失っていた。
だが、やがて小さく息をつく。
「……じゃれてる……の?」
「うん。昔はもっと小さかったんだけどね、こいつ。
ずっと森の奥にいた、不思議なやつ。名前は“リィ”。僕が勝手につけた」
フェイは、リィの額をぽんぽんと軽く叩きながら言う。
「言葉は通じないけど、気持ちは伝わる。
こいつは、昔……僕が絶望してたときに、ずっとそばにいてくれた存在なんだ」
リィはふたたび顔をフェイに預けるようにし、ゆるやかに呼吸を繰り返していた。
エヴァはしばらく沈黙し、やがて歩み寄る。
そして、そっとリィの前に立つ。
その白い“顔”が、音もなくゆっくりとエヴァへと向く。
視線はないはずなのに、確かに見られている。
でも、それは敵意でも探るような圧でもなかった。
まるで——優しく触れられるような、そんな感覚。
「……よろしく、リィ」
エヴァの言葉に、リィはほんの少しだけ頭を下げるような仕草を見せた。
まるで、「よろしく」と返しているかのように。
フェイはその様子を眺めながら、ふっと微笑んだ。
「これで、ひとつ目の目的は完了、かな。村も落ち着いたし、リィとも再会できたし」
「そうね。……でも、その“次”が気になるわね。
こんな存在が、いったい何のためにここに“待ってた”のか」
フェイは少しだけ空を仰いだ。
「“呼ばれてた”気がするんだ。あの夜から、ずっと。
……誰かが、僕らをここへ導いていたのかもね」
「“誰か”って、何?」
「それは、まだわからない。……でも、答えはきっと、これから向かう先にある」
その言葉を聞いて、エヴァは静かにうなずいた。
そしてリィに視線を戻す。
あの巨大な白い存在が、いまはただ、静かに風に揺れる木のように、そこに立っていた。
——そして、不思議なことに。
その巨体のそばにいると、エヴァの中にわずかに澄んだ感情が芽生えていた。
安心とも、敬意とも違う。もっと原初的な、懐かしい何か。
それはたぶん——“信頼”だった。
そのときだった。
——バサリ。
木々の高い枝が揺れ、森の静けさを破るように、何かの影が現れた。
音もなく地を這い、すり抜けるような早さで、谷の縁からもう1匹の獣が飛び出してくる。
「っ、来た——!」
エヴァがとっさに剣に手をかけた瞬間、
フェイが静かに手のひらを横に振る。
「平気」
その言葉と同時に——
リィが動いた。
ほんの一歩。
ゆっくりと右足を踏み出した、ただそれだけ。
次の瞬間、白い巨体がすっと空間を裂くように滑り込み、
伸ばした腕が、風すら置き去りにする速度で振るわれた。
——ドン。
重い打撃音が、空気を震わせる。
そして、襲いかかってきた獣は、まるで弾き飛ばされたかのように、谷の端まで吹き飛ばされ、木に叩きつけられた。
その場に、再び静けさが戻る。
森の鳥たちは一声も鳴かず、風さえも通らない。
エヴァは、言葉を失っていた。
あまりにも自然に、あまりにも“正確に”。
あの巨体からは想像もつかない、しなやかで鋭い動きだった。
「……今の、見えなかった」
ようやく口を開いたエヴァの声は、いつになくかすれていた。
フェイは肩をすくめて笑う。
「だから言ったでしょ。こいつ、可愛い顔して、すっごく強いんだって」
リィは何事もなかったかのように、再びフェイのそばに戻る。
その姿はまるで、「終わったよ」と言っているかのようだった。
そして、その“顔”のない頭を、今度はエヴァのそばにそっと寄せてくる。
エヴァは一瞬、身をこわばらせたが、すぐに気づいた。
その動きが、決して敵意ではなく、ただ「安心して」と伝えているのだと。
「……あんた、やっぱり……只者じゃないわね」
その言葉に、リィは小さく首を傾げるような仕草を見せた。
——それはまるで、「よくわかってるじゃないか」とでも返しているように。
そして、森の奥から、かすかに風が吹いた。
それは、何かの始まりを告げるような——深い息吹だった。
朝の陽が梢の隙間からこぼれ落ち、細やかな光の粒が揺れるたび、苔むした地面は緑色のベールをまとっていた。
鳥の囀りと、木々を渡る風の音。
足元には湿った落ち葉、遠くで鹿の小さな足音。
そのすべてが、ここが“人の場所ではない”と物語っていた。
「ねえ、フェイ」
歩いていたエヴァが、不意に口を開いた。
足元を注意深く見つつも、横目でフェイを見やる。
「あなたって……普段は、どんな風に過ごしてたの?」
フェイはふと立ち止まり、笑いながら頬をかく。
「どんなって……うん、まあ、山暮らしってやつかな。
朝起きて、火を起こして、川の水で顔を洗って……。食料は、キノコとか木の実とか、罠に引っかかった小動物とか。そんな感じで、適当に」
「……すごく、質素というか……サバイバルね」
「まぁ、文明から離れると、自然とそうなるんだよ」
言いながら、フェイは低く枝をかがめ、蔓をひとつ引きちぎる。
その先には、淡い青の小さな花がついていた。
「これは、“睡草(ねむりくさ)”。葉を揉んで布に包むと、眠るときにいい香りがするんだ。熟睡できる」
「……へえ。……騎士学校じゃ絶対習わないわね、こんなの」
エヴァが感嘆の声を漏らす。
フェイは、その反応がなんだか嬉しかったようで、小さく笑った。
「食える草もあれば、毒のある実もある。
でも、どれが“生き延びる術”かを見分けるのは、結局……五感の積み重ねなんだよ」
木漏れ日の中、ふと風向きが変わる。
森の匂いが微かに湿りを帯び、気温が一段、ひんやりと落ちる。
「でも……怖くなかった? 一人で、ずっとこういう森の中で暮らすのって」
エヴァの問いに、フェイは空を見上げた。
高い梢の隙間から、陽光がまっすぐに差し込んでいる。
その光が、彼の瞳を淡く照らした。
「……怖くないとは言えないかな。でもね、こういう静けさって、心を沈めてくれるんだ。
騒がしい町の中じゃ気づけない“音のない優しさ”が、森にはある」
「……音のない優しさ、か……」
しばらく、ふたりの足音だけが森を進む。
だが、エヴァが何かに気づいたように立ち止まる。
「……今、音が止まった」
フェイの顔から、柔らかな空気がすっと抜けた。
「……ああ。周囲の鳥が、逃げたね」
その瞬間——
茂みが激しく揺れた。
そこから飛び出してきたのは、異様な姿の獣だった。
狼のような輪郭をしているが、毛並みはまばらで、ところどころに瘡蓋のような赤黒い斑点が浮かんでいる。
目は濁り、涎を垂らしている。
「……あれ、病気じゃない。魔素に……侵されてる?」
エヴァが剣を抜く。
フェイは目を細めた。
「本来なら、臆病なはずの獣だ。……でも、何かに追い詰められてる」
獣は低く唸り、牙を剥いた。
だがその直前、フェイが一本の枝を拾い、手早く何かを括り付ける。
「目を引いて。ちょっとだけでいい」
「了解——!」
エヴァが前に出て剣を構えると、獣の注意が彼女に向く。
次の瞬間、フェイが獣の背後に滑り込み、枝の先で地面の落ち葉を舞い上げた。
煙幕のように広がった灰色の粉塵。
その中をすり抜け、フェイが一撃、獣の首筋に的確な一突きを入れる。
ごう、と空気が鳴り、獣が崩れ落ちた。
「……無理に殺したくはなかったけど。これ以上、苦しませるのも酷だったから」
フェイの言葉には、痛みのような、寂しさのような響きがあった。
エヴァは、その倒れた獣の傷を見つめた。
「……これは、自然の病気じゃない。人為的……か、それとも」
「“外”から、何かが流れてきてる」
フェイの声は低く、深くなっていた。
そのとき——
風が変わった。
草木の間を抜ける風が、まるで“視線”のように感じられた。
振り返っても誰もいない。
ただ、確かに——何かが、“こちらを見ていた”。
「……もう近いかもね」
フェイがぽつりと呟いた。
エヴァは何も言わなかった。
けれど、今、この森の中で確かに何かが“異変”を引き起こし、そしてそれがフェイに向かって近づいているということだけは、全身で感じていた。
その気配は、恐怖ではなかった。
ただひたすらに、深く、静かで、どこか懐かしかった。
まるで——ずっと昔に忘れていた誰かが、ようやく姿を現してくれたような。
そんな、不思議な温度があった。
獣との遭遇を終えたあと、ふたりはさらに東へと歩みを進めていた。
陽はすでに頭上を過ぎ、森は再び静けさを深めていた。
しかし今度の静寂は、安らぎとは違う質のものだった。
「……空気が、変わった」
エヴァが足を止め、周囲を見回す。
「風も止まったし、鳥もいない」
「うん。……あいつの“気配”が近い」
フェイは囁くように言った。
その声には緊張ではなく、どこか“懐かしさ”が混ざっていた。
森の密度はさらに増し、枝葉が上空を覆い尽くす。
まるで光そのものが、拒まれているかのような領域。
そしてやがて、地形が沈み込む谷に出た。
それは自然が長い年月をかけて削った、浅く広がるすり鉢状の窪地。
その中心には、影のような重たさが沈んでいた。
フェイは立ち止まり、瞳を閉じる。
一呼吸。
そして、瞼を開いたとき——その青い瞳に、かすかな光が宿る。
「……来たよ」
エヴァも、思わず息を呑む。
谷の奥、木々の間から、静かに“それ”は現れた。
全身が白。
毛はなく、つるりとした肌がわずかに陽光を受けて鈍く光る。
その巨体は熊より大きく、体高は三メートルを超えている。
けれど、そこに“獣”の荒々しさはなかった。
むしろ、静謐な神殿のような空気をまとっていた。
その姿は、何か神話から抜け出してきたかのようだった。
腕は異様に長く、太く、三本の指が地面すれすれに垂れている。
歩行は、腕と足を組み合わせた、独特の四足のような移動。
だが、その動きは驚くほど静かだった。
一歩ごとに、森が少しずつ息を潜めていく。
そして、顔。
そこには、目も鼻もなかった。
代わりに、盛り上がった前面は丸く、なだらかな丘のような曲面が広がっている。口があるかどうかは見てもわからない。
なのに、はっきりと“見られている”と感じる。
じわりと背筋に染み込むような、静かな視線。
エヴァは、その無機質な“顔”に、不思議な圧を感じながら、剣の柄に指をかけた。
「……何、あれ……!」
その瞬間、フェイがふわりと前に出た。
「大丈夫。敵じゃないよ」
白い存在は、ゆっくりと近づき、フェイの肩に鼻先のような部分をそっと寄せる。
まるで、「久しぶり」と言うように。
「……ほら、やっぱり覚えてた」
フェイは小さく笑い、肩の力を抜く。
「よっ、リィ。元気そうでなにより」
その白い巨体——フェイが「リィ」と呼んだ存在は、微かに首を傾ける。
そして、遠慮のない力で、フェイの胸に頭突きを食らわせるように突っ込んだ。
「うわっ、ちょっと! 重い重い重いってば! しかも脇はやめろ、そこはくすぐったい!」
フェイが抗議するように押し返すが、声には怒気のかけらもない。
むしろ、まるで懐かしい友と再会した少年のように、顔が綻んでいた。
離れた場所で見ていたエヴァは、その光景に言葉を失っていた。
だが、やがて小さく息をつく。
「……じゃれてる……の?」
「うん。昔はもっと小さかったんだけどね、こいつ。
ずっと森の奥にいた、不思議なやつ。名前は“リィ”。僕が勝手につけた」
フェイは、リィの額をぽんぽんと軽く叩きながら言う。
「言葉は通じないけど、気持ちは伝わる。
こいつは、昔……僕が絶望してたときに、ずっとそばにいてくれた存在なんだ」
リィはふたたび顔をフェイに預けるようにし、ゆるやかに呼吸を繰り返していた。
エヴァはしばらく沈黙し、やがて歩み寄る。
そして、そっとリィの前に立つ。
その白い“顔”が、音もなくゆっくりとエヴァへと向く。
視線はないはずなのに、確かに見られている。
でも、それは敵意でも探るような圧でもなかった。
まるで——優しく触れられるような、そんな感覚。
「……よろしく、リィ」
エヴァの言葉に、リィはほんの少しだけ頭を下げるような仕草を見せた。
まるで、「よろしく」と返しているかのように。
フェイはその様子を眺めながら、ふっと微笑んだ。
「これで、ひとつ目の目的は完了、かな。村も落ち着いたし、リィとも再会できたし」
「そうね。……でも、その“次”が気になるわね。
こんな存在が、いったい何のためにここに“待ってた”のか」
フェイは少しだけ空を仰いだ。
「“呼ばれてた”気がするんだ。あの夜から、ずっと。
……誰かが、僕らをここへ導いていたのかもね」
「“誰か”って、何?」
「それは、まだわからない。……でも、答えはきっと、これから向かう先にある」
その言葉を聞いて、エヴァは静かにうなずいた。
そしてリィに視線を戻す。
あの巨大な白い存在が、いまはただ、静かに風に揺れる木のように、そこに立っていた。
——そして、不思議なことに。
その巨体のそばにいると、エヴァの中にわずかに澄んだ感情が芽生えていた。
安心とも、敬意とも違う。もっと原初的な、懐かしい何か。
それはたぶん——“信頼”だった。
そのときだった。
——バサリ。
木々の高い枝が揺れ、森の静けさを破るように、何かの影が現れた。
音もなく地を這い、すり抜けるような早さで、谷の縁からもう1匹の獣が飛び出してくる。
「っ、来た——!」
エヴァがとっさに剣に手をかけた瞬間、
フェイが静かに手のひらを横に振る。
「平気」
その言葉と同時に——
リィが動いた。
ほんの一歩。
ゆっくりと右足を踏み出した、ただそれだけ。
次の瞬間、白い巨体がすっと空間を裂くように滑り込み、
伸ばした腕が、風すら置き去りにする速度で振るわれた。
——ドン。
重い打撃音が、空気を震わせる。
そして、襲いかかってきた獣は、まるで弾き飛ばされたかのように、谷の端まで吹き飛ばされ、木に叩きつけられた。
その場に、再び静けさが戻る。
森の鳥たちは一声も鳴かず、風さえも通らない。
エヴァは、言葉を失っていた。
あまりにも自然に、あまりにも“正確に”。
あの巨体からは想像もつかない、しなやかで鋭い動きだった。
「……今の、見えなかった」
ようやく口を開いたエヴァの声は、いつになくかすれていた。
フェイは肩をすくめて笑う。
「だから言ったでしょ。こいつ、可愛い顔して、すっごく強いんだって」
リィは何事もなかったかのように、再びフェイのそばに戻る。
その姿はまるで、「終わったよ」と言っているかのようだった。
そして、その“顔”のない頭を、今度はエヴァのそばにそっと寄せてくる。
エヴァは一瞬、身をこわばらせたが、すぐに気づいた。
その動きが、決して敵意ではなく、ただ「安心して」と伝えているのだと。
「……あんた、やっぱり……只者じゃないわね」
その言葉に、リィは小さく首を傾げるような仕草を見せた。
——それはまるで、「よくわかってるじゃないか」とでも返しているように。
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