《蒼眼のトライブ Last Testament(ラスト・テスタメント)》

ケリーエヴァンス

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第41話 自らのしがらみ切らさずに

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カルディナの郊外。
夕焼けに染まる空の下、小高い岩場の上でグライヴは一人、退屈そうに脚をぶらつかせていた。
その視線は、茜に染まった雲の切れ間を、どこか焦点の合わないまま追っている。

「……はあ、結局あれっきりかよ。口説き文句も通じねえとはな」

吐き出すように言葉を漏らし、口にくわえていた細枝をカリリと噛んで、ポキリと折る。

「“嫁にしろ”ってのは……まあ半分本気だったんだけどな。ま、拒まれりゃどうしようもねえ」

肩をすくめて笑うその顔に、わずかに浮かぶのは照れ隠しとも、未練ともつかない表情。
どこかで期待していたのかもしれない──己でも気づかぬ程度には。

「……ま、どっちにしろ俺は一人。気楽でいいさ。しがらみなんざ御免だ」

誰にでもなく、言い聞かせるように呟いた。
立ち上がろうと、腰を浮かせた──その瞬間だった。

ゾクリ、と。

全身の毛穴が開く。背筋を冷たい指で撫でられたような感覚。
思わず動きを止める。肺の奥が、じわじわと圧迫されていく。

「……っ?」

胸が詰まるような息苦しさ。空気が、ねっとりと変質している。
視界の端で、何かが“揺れている”──確かにそこにあるはずの風景が、ほんのわずかに、波打つように歪んでいた。

風が止んでいる。
いや──音が、消えている。空気の振動すら、凍りついたように静まり返る。

──何かが“いる”。

「……なんだ、これは」

低く呟き、グライヴは目を細めた。視線を走らせながら、無意識に背筋を正す。

これは殺気じゃない。
だが、それよりも質が悪い。
もっと根本的に、空間そのものが侵食されている。
それが生き物であれ、自然現象であれ──この“気配”は、理屈を超えている。

「気のせいじゃねえ……あっちか」

視線が自然と向かう。草原の先、遠く離れた街道の向こう。
あの女たちが、馬を走らせていた方向。

「まさか、な……」

苦笑まじりにぼやきながらも、脚が勝手に動き始めていた。

「だぁ、クソ……これで放っておいたら、こっちの目覚めが悪いじゃねぇか」

胸の奥で、獣の本能が警鐘を鳴らし続けていた。
直感が告げている。
“あれ”はヤバい。放置すれば、何かが取り返しのつかないことになる──と。

だが同時に、腹の奥の方に芽生えていたのは、
あの剣を持った女騎士への、拭いきれない引っかかりだった。

「しがらみ御免、とか言っといて、結局これかよ。……笑えるぜ」

吐き捨てるようにそう言い残し、グライヴは草原の向こうへと駆け出した。
その眼に、もう迷いはなかった。

***

エヴァは、いつになく強い緊迫感に包まれていた。
それは、得体の知れない敵への本能的な警戒か──それとも、イーゼルが放つ底知れぬ“圧”のせいか。

イーゼルの“眼”が、じわじわとエヴァに焦点を合わせてくる。
その視線に晒されるたびに、思考が濁る。心の深い場所に、誰のものとも知れぬ囁きが滲み込んでくる。

(……これは──)

目の奥が、鈍く痛んだ。視界がまた歪む。天地の感覚が曖昧になり、風の音が逆流し始める。
足元の土が軋み、浮き上がるような違和感が全身を包む。

──幻術だ。

「惑わされるな。あいつの得意技だ。視覚だけじゃない、心も染めようとしてくる」

背後から伸びたフェイの手が、しっかりとエヴァの肩を掴む。
その声は静かだが、確かな強さが宿っていた。

「わかってる……けど、重い。思考が引っ張られる……!」

言葉を絞り出すように返すエヴァ。意識の芯が、じわじわと引きずられていく。

「リィ!」

フェイの短い呼びかけに、白い影が素早く応じる。
リィ──無言の使い手が、空を裂くように跳躍し、拳をイーゼルへと振り下ろす。

その動きは音さえ追いつかない。しなやかで鋭く、躊躇いがない。
だがイーゼルもまた、只者ではない。

片手をすっと掲げると、闇を溶かしたような黒い霧が湧き立ち、リィの間合いを鈍らせる。
霧の中で光る紫黒の瞳──それが、まるで空間ごと支配しているかのようだった。

そこから、幻影がいくつも現れる。
リィは鋭く身を翻し、連続で攻撃を浴びせるが、幻影は次々と現れ、消え、かわし、エヴァの背後にまで忍び寄っていく。

「くそ……!」

エヴァが剣を一閃。幻影を断ち切る鋭い一撃が、風を割った。

イーゼルの視線は、リィの動きを捉えながらも、なおエヴァに意識を向けていた。
その眼差しは──初対面のものではない。
だが、言葉を交わすことはない。ただ、視線と視線がぶつかる奥で、互いに何かを探るような沈黙が交錯していた。

その時──

フェイが静かにメイセンを構え直す。

刃が、空気を裂いた。
わずかな音。だが、それは確かに空気の“質”を変えた。

彼の瞳が、わずかに深くなる。
内側に沈むように、気を落としていく。まるで底なしの湖のように静かで、そして揺るがない。

フェイの周囲に、密度の濃い“気”が漂いはじめた。
それは目に見えずとも、誰の肌にも感じ取れるほど明瞭な存在感となって、空気を震わせる。

その揺らぎが、イーゼルの注意をわずかに逸らす。

──そして。

「おいおいおい……マジかよ。こんなんと戦ってやがるのか!」

雷鳴のごとき声とともに、草原の向こうから一人の男が駆け込んでくる。

グライヴだ。

その手にした大槍が、地面を裂く勢いで振るわれ、幻影の一体を派手に吹き飛ばす。

「あっちで変な空気を感じたと思ったら……まさかのとんでもないやつとやり合ってるとはな」

驚きと興奮をないまぜにした声。
顔には笑み──だがその目は、状況を見極める戦士のそれ。

イーゼルの視線が、新手の乱入者にわずかに傾く。

「……新手か」

その声は低く、乾いていた。が、油断は微塵も感じさせない。

グライヴはゆっくりと前へ進み、エヴァの隣に立つ。

「まさかこんなことになってるとはな、さすがに聞いてねえぞ」

エヴァは剣を構えたまま、彼にちらと目をやる。

「こっちが聞きたい……なぜ来た」

「気配が妙だった。それだけさ。……ま、おかげで面白そうな場に出くわした」

応じながら、グライヴの口元に、いつもの余裕の笑みが浮かぶ。

だがそのやり取りの背後で、再びイーゼルの“気”が高まる。
空気がわずかに震え、濃密な圧が押し寄せてくる──

だが、それでももう遅い。

フェイの気はすでに完成されていた。目線は鋭く、イーゼルを正面から捉えている。
リィも構えを変え、イーゼルを左右から挟む形へと動いていた。

そして何より──グライヴの乱入が、戦況のバランスを決定的に崩していた。

イーゼルはわずかに沈黙する。
目元が静かに揺れる。

そして、すっと目を閉じ──

「……今は潮時、か」

仮面の奥の眼が、フェイをまっすぐに見据える。

「“裁定者”の守り人よ。……今はその瞳を守っていればいい」

低く、囁くような言葉が空気を滑ると同時に、彼女の姿が靄とともに掻き消える。

黒霧が風に溶けるように散り、空気の重さが一気に消えた。
まるで、何事もなかったかのように──だが、その余韻だけは、誰の肌にもはっきりと焼きついていた。

──また、来る。

そう確信させる、静かで不気味な撤退だった。
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