《蒼眼のトライブ Last Testament(ラスト・テスタメント)》

ケリーエヴァンス

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第40話 濁りの渦、深淵の眼

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湿った空気が、まだ肌にまとわりつく時間帯。草葉には露が残り、足元でひっそりときらめいている。あたりには鳥のさえずりもなく、ただ遠く馬の蹄がぬかるみに落ちる音だけが響いていた。

エヴァは、手綱を軽く緩め、馬をゆるやかに進めながら並ぶフェイをちらりと一瞥した。

昨夜のやり取り――あのグライヴの軽率で、だが不思議と誠実さも感じられた言葉が、いまだ脳裏に残っている。彼の笑み。彼のまっすぐすぎる目。あれが演技だったとも思えない。それが、余計に面倒だった。

「……なんで私が“嫁”候補なのよ」

不意に漏れた言葉は、曇った空のように鈍く。

その隣で、フェイが肩をすくめながらニヤリと笑った。

「まぁまぁ。ああいう直情的なタイプは、強い女性に弱いんだよ」

「そういう問題じゃないの。……面倒な男よ、ほんとに」

「でも、惚れられてたよね?」

「……もうしゃべらないで」

むすっとそっぽを向くが、その頬にわずかに浮かんだ朱が、すべてを語っていた。

「そういえばヴァーグは?」

「ああ、次のお願いをしてるから、また調査に出てるよ」

「そう、こんな人使いの荒い人に仕えるのは大変よね」

「そんなことはないよ」

「どうかしら」

そんな、ささやかな会話の余韻が空気に溶けかけたその時──

――空気が、変わった。

それは唐突で、不可解な感覚だった。

フェイの足が、ぴたりと止まる。

「……?」

「……立ち止まって」

抑えた声だった。だが、その声には異様な張りつめた緊張が漂っていた。空気の粒子そのものが静かに揺れ始める。耳の奥で、微かな耳鳴りのような“異音”がこだまする。

リィもまた、敏感に反応していた。小さな影がピタリと停止し、顔を上げ、まるで見えぬ何かと対峙するように周囲を見渡している。

エヴァが顔を上げた瞬間、世界の輪郭がわずかに揺らいだ。

まるで視界全体を覆う無色の霧。目には見えぬ“膜”のようなものが、周囲の空間を包み込み始めていた。足元の風が澱み、地面すらも浮遊感をもって軋む。

「フェイ……これ、まさか……」

「“来た”な」

フェイが目を細め、前方を見据える。その視線の先。わずかな振動と共に、大地の底から鐘が鳴ったような深い音が響く。身体の芯を叩くような、重い共鳴。

エヴァは反射的に剣へ手をかけた。

「敵……?」

「ああ。間違いない」

そう答えた彼の表情は、常の軽口をすべて消し去った真剣そのものだった。

そして。

──黒、が現れた。

それは“出現”ではなかった。“顕現”とも違う。ただ、最初からそこに存在していたものが、ようやく視界に許可された――そんな、不気味な現れ方だった。

黒い法衣。仮面のように白く無機質な顔。そしてその中央に、禍々しく輝く“目”。

エヴァは思わず、息を呑んだ。

「……久しぶりだな」

複数の声が折り重なるような、異様な響きが耳の奥に広がった。その声だけで、喉が焼けつくような錯覚を覚える。

フェイの目がわずかに鋭くなる。

「……お前は……」

男とも女ともつかない声を持つ存在。その口元を覆う白布の奥に、ただ一つだけの瞳。紫黒に染まったその目が、視線ではなく意識そのものでこちらを射抜く。

「我はイーゼル。深淵の眼を持つ者」

その名が口から放たれた瞬間、空気が震える。木々がざわめき、草が身を縮めるように揺れた。

「……八魔将の一人、随分な大物が出てきたな」

フェイの声が低く呟く。

エヴァはその横顔を見つめ、無意識に剣を握る指先に力を込める。敵の強さを、彼の表情から読み取った。

その瞬間、もやが裂けた。

イーゼルが一歩を踏み出すだけで、周囲の空間が圧を帯びて軋んだ。存在そのものが、現実を歪ませる。

「──青き瞳の裁定者、か」

その言葉に、エヴァの背筋がぞくりと震えた。

(……知り合い?)

思考がそのまま口に出そうになる寸前、フェイが先に声を上げた。

「……なるほど。ここで出てくるってことは──」

目が真っ直ぐイーゼルを捉えたまま、低く刺すように告げる。

「レオの件は、お前だったか」

イーゼルの白布の下から、微かに笑うような気配。

「記憶の破片を、まだ拾えていたか……。ならば──より深く、沈めるだけだ」

音が消える。

空気がねじれ、光が歪み、現実そのものが不確かなものに変わる。

エヴァが剣を抜いたその瞬間。

──戦闘が始まった。

「くる──!」

幻覚か現実か、判別のつかない影が幾重にも重なって襲いかかってくる。エヴァはそれを一閃、鋭く斬り払う。だが、斬ったはずの影は音もなく掻き消え、次の瞬間には、まるで“実在”するかのように背後へと立っていた。

「っく──!」

感覚が狂う。斬った影が実体となって迫る──その理不尽な構造に、エヴァは心中で警鐘を鳴らした。だが、身体が思考に追いつかない。

(マズい──!)

そう思った時には、すでに“それ”が目の前にいた。

──深淵の魔女、イーゼル。

覆面の奥に揺れるあの“眼”が、静かに、だが確実にエヴァの意識を絡め取ろうとしていた。

そこへ、鋼の閃光が割って入る。

その一撃を──フェイが、迷いなく受け止めていた。

「幻術と物理の同時干渉か……面倒な能力だな」

メイセンが、ぎり、とイーゼルの一撃を抑え込みながら低く唸る。相対するフェイの眼が、わずかに色濃く光を帯びていた。

イーゼルはその様を一瞥し、白布の奥で微笑したような気配を見せた。

「それはこちらとて同じこと。……想も、変わらず面倒な刀だ」

囁くような声音の中に、どこか懐旧にも似た響きがある。

フェイは、静かに問いを投げた。

「いいのかい? ここで本格的にやり合うことになっても」

イーゼルの眼が、ゆっくりと細められる。エヴァとフェイ、ふたりの戦士を見下ろすようにして、彼女はふっと吐息を洩らす。

「ふん。貴様らごときに遅れは取らぬわ」

その言葉と同時に──空気が沈んだ。

ただの圧ではない。まるで空間そのものが重く、濃く、異質な“何か”に支配されていくようだった。

視界が微かに滲む。音が遠ざかり、地面の揺れさえ体内に響いてくる。

イーゼルの“気”が、周囲を圧倒していた。
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