12 / 53
第12話 静けさの中の牙
しおりを挟む
王城から程近く、騎士団の宿舎区画の外縁。
その一角にある、外部来賓用の簡素な宿泊棟。
そこが、フェイに用意された滞在先だった。
石造りの外壁に囲まれた建物は見た目こそ堅牢だが、内装は実用本位で落ち着いている。
備え付けのベッドに腰を下ろしたフェイは、クッションの弾力を試すように背中を倒した。
「……うん、まぁまあ。硬すぎず、柔らかすぎず、だね。悪くない」
天井の梁を見上げながら、軽く足を組んだ。
部屋の窓からは、遠くに城の尖塔がのぞいている。が、そこに特別な感慨を示すこともなく、目を閉じる。
「“さて”だよな……さて、何がどうなることやら」
ぽつりと呟き、深い眠りに身を預けた。
⸻
その頃──
エヴァは、自室の小さな机に向かっていた。
旅の装束を脱ぎ、軽装のシャツ姿で椅子に座る彼女は、ランタンの光に照らされて静かに目を伏せている。
あの男の軽薄な振る舞い、王との謁見、そして……ライアスの視線。
一つ一つを思い返すたびに、何かが胸の奥をわずかに引っかく。
(今はまだ、すべてが見えてるわけじゃない)
そう自分に言い聞かせるようにして、目を閉じた。
一度深く息を吸い、肩の力を抜いてベッドへと向かう。
剣士としての直感が、何かが動き始めていることを告げていた。
だが──それをどう迎えるべきか、すぐには答えが出せない。
毛布をかぶり、天井を見上げる。
目を閉じるその直前、心の中で誰にも聞こえない言葉が零れた。
(明日は……動こう)
⸻
そして翌朝。
まだ陽が完全に昇りきる前、城の奥、訓練棟の先にある練武場には、既にエヴァの姿があった。
空気は澄み、静けさの中に砂の擦れる音だけが響いている。
床は踏み締めるごとに細かく鳴き、木製の人形が中央に据えられ、使い込まれた痕跡を全身に纏っている。
陽光が東から差し込み、石の柱の間に長い影が伸びていた。
その中で、エヴァは静かに剣を抜いた。
刃が空を裂くたび、空気が震え、体を駆け抜ける。
鋭く、速く、無駄のない動き──まるで舞踏のような流れ。
剣を振るうことで、余計な思考を削ぎ落とし、ただ身体を研ぎ澄ます。
それが、彼女にとっての「整える」時間だった。
──その気配に、ふと背後の風が揺れる。
「相変わらず真面目だね」
軽く、風に乗って届いたその声に、エヴァは肩越しに振り返りもせず、淡々と答えた。
「……それは嫌味か何か?」
「いやいや、ただの感想。通りかかっただけ──って言うと、嘘くさいかな?」
振り向けば、練武場の塀の上に、いつの間にかフェイが座っていた。
脚をぶらりと垂らし、ひとつ傾げた頭で気楽そうに笑っている。
その佇まいは、まるで練武場の張り詰めた空気を一瞬でほどいてしまうような、柔らかな風のようだった。
だが、エヴァの目は細かく彼を観察していた。
(……最初から見てたわね)
フェイの目はごまかしの笑顔の奥で、鋭くすべての動きを見ていた。技の軌道、足さばき、呼吸の取り方──すべてを無言で計っていた視線だった。
「だったら最初から見てたって言えばいいのに」
「ほら、きみの集中を邪魔したくなかったっていう、優しい心遣いってことで」
「……相変わらずね、口だけは」
エヴァは呆れたように言いつつも、剣をゆっくりと鞘へ納める。
その動作の滑らかさに、フェイは目を細めてひとつ息を吐いた。
「でも、やっぱりすごいよね。剣の軌道が無駄なくて、気配の扱い方も洗練されてる。団員の中でも、かなり上の方じゃない?」
「……そんな評価をもらっても、困るだけなんだけど」
「いやいや、本音で言ってるだけさ。僕の目は節穴じゃないからね」
フェイがぴょん、と塀から飛び降りると、その着地にはまったく音がなかった。
靴底が地面に触れたはずなのに、空気の揺らぎすら感じさせない。まるで、彼自身が風に紛れていたかのようだった。
そのときだった。
練武場の奥、石畳の向こう側から、靴音をぶつけるように響かせて近づいてくる者がいた。強引に空気を割って入り込むような足取り。やがて、甲高く乾いた声が響いた。
「──おいおい、また真面目にやってんのかよ、月の姫さまはよ」
嘲笑を含んだその口ぶりに、エヴァは剣を収めかけた手を止めた。振り向かずとも誰の声かはわかる。
声の主は、第六騎士団所属の男、ラウク・ガルズ。肩幅の広い体格と、がっしりとした顎骨が目を引く粗野な印象の騎士だった。装備は簡易な訓練用の胴衣。だが、その身のこなしは歴戦の現場で鍛えられた実力者のそれだった。
「いつ来ても堅っ苦しいよなぁ、あんたは。そんなんじゃ疲れるだろ。遊びって言葉、辞書に載ってねーのか?」
悪びれる様子もなく近づいてきたラウクは、エヴァの前で足を止めてにやりと笑った。
「騎士団の看板背負ってるって自覚、もうちょい持ったほうがいいんじゃねーの? 肩に力入りすぎてんだよ、昔っからさ」
エヴァは視線を返すことなく、黙って汗を拭うと一言だけ返す。
「……同じ話を繰り返すのが、お好きなんですね」
その声色には、うんざりとした響きが混じっていた。だがラウクは気にも留めず、楽しそうに鼻で笑う。
「そりゃあ言ってやらねぇとな。でなきゃ勘違いしたまま突き進むんだろ? まあ実戦に出れば、すぐに現実がわかるさ。特に、あんたみたいな綺麗なだけの──」
剣に触れようとするエヴァの指が、ピクリと動いた瞬間。
「──それくらいにしといたら?」
軽く、だが妙に通る声が練武場の静けさを裂いた。
視線を向けると、塀の上から降りてきたフェイが、手をひらひらと振りながら歩み寄っていた。
戦装束ではなく、ただの薄手のシャツにゆるいズボン。徽章も何もつけておらず、ただの旅人にしか見えない──のに、その立ち姿には妙な安定感がある。
構えてもいないのに、“戦える”と直感させる空気。そういったものは、戦場に立った者ほど敏感に察知できる。
「……誰だ、お前は」
ラウクが目を細め、怪訝そうに声を荒げる。
「通りすがりの観客。まあ、ちょっと気になる場面だったから、ひと言ね。口の利き方があんまりだったよ」
その言いぶりが癪に障ったのか、ラウクの頬が引きつった。
「観客が騎士団の訓練に口出しとはな。……言ってくれるじゃねえか。じゃあ、口出すからには、それなりに“やれる”ってことだよな?」
言いながら、剣架に手を伸ばす。
引き抜かれたのは、訓練用の模擬剣──刃こそ潰してあるが、芯は金属。脳天に入れば軽く気絶、肋に当たれば折れる。要するに、洒落にならない程度の実力を試せる代物だった。
フェイはというと、わずかに片肩をすくめ、のんびりと首を回す。
「やれやれ、またこうなる。まあ、一本だけね。あんまり痛いのは好きじゃないんだよ」
「ふん、口だけはよく回るな。……いいぜ、一本勝負ってことで」
ラウクが構えながら、斜めにエヴァを指差した。
「そっちの彼女が、見届け人でいいな?」
「……私が?」
「そうだ。どうせ団員だろ? お前の連れがどの程度か、よく見といてやれって」
エヴァはためらいがちに視線をフェイへ向ける。
だが、彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、ぺこりと軽く頭を下げた。
「どうぞ、よろしく」
「……わかりました」
短くそう答えて、彼女は剣を置き、わずかに距離を取る。
その場に静寂が戻った。
ふたりの間合いは、ちょうど模擬剣一撃分。
どちらかが先に動けば、必ず決着がつく。
エヴァは短く息を整えると、静かに片手を上げた。
「……一本勝負。始め──!」
空気が変わったのは、その直後だった。
ラウクの足が石畳を強く打ち鳴らし、踏み込みと同時に模擬剣が振り下ろされる。重く、鋭く、まるで“模擬”という言葉を忘れたかのような一撃だった。
その軌道は真正面から一直線にフェイの肩口を狙っていた。全力で叩きつければ骨を砕く威力はある。だが──
その刃がフェイの身体に届くことはなかった。
「や、やめ──!」
エヴァの声が空気を震わせる寸前。
それよりも早く、甲高い金属音が練武場に響き渡った。
甲冑が打ち合ったような強烈な一閃。
視線が弾かれた方へ向いたときには、ラウクの手から模擬剣が吹き飛ばされ、練武場の片隅へと跳ねて転がっていた。
フェイは、微動だにしていない。
構えた様子もなく、ただ一歩も動かずに片手で――
それも、あまりにも自然な動作で剣を弾き落としていた。
「……一本。ありがと」
柔らかい声で告げられたそれに、ラウクは一瞬、何が起きたのか理解できず、茫然と空の右手を見つめる。
指先がまだ、柄を握っていたはずの感触を探していた。
「な、に……っ」
やがて、顔が赤く染まり、怒気が噴き出すように溢れてくる。
「てめぇ、ふざけやがって……ッ!」
再び詰め寄ろうと前に出ようとした、その瞬間──
「そこまでだ、ラウク」
低く、だが透き通るような威厳を帯びた声が響いた。
練武場のどこからか、空気そのものに釘を刺すように現れたその声は、見えないが確かに存在感を放っていた。
そして、それが誰の声であるかを知る者なら、無視することなどできない。
ラウクの動きが止まる。
視線が宙を泳ぎ、険しい顔で舌打ちする。
「……チッ」
それ以上は何も言わず、彼は剣も拾わずに踵を返した。
忌々しげな視線だけをフェイに向け、足早に練武場の端へと姿を消す。
フェイは去っていく背中に向けて、特に何かを言うこともせず、ただひらひらと手を振った。
静寂が戻る。
だが、練武場の屋根の陰、柱の裏、土塀の隙間──
そこかしこに、複数の“影”が潜んでいた。
動く気配はなかったが、彼らの眼差しは確かにこの場のすべてを見届けていた。
やがて、沈黙を破ったのはエヴァだった。
「……見事な動きだったわ」
感情をあまり顔に出さない彼女の目が、わずかに見開かれている。
そこには驚きと、興味、そしてほんの少しの──尊敬が滲んでいた。
フェイは軽く首をかしげて、いつもの調子で答える。
「そう? そんな大げさなもんじゃないよ。反射っていうか、まあ偶然ってことで」
「偶然で、相手の剣をあの角度から一撃で落とすなんて、普通はできません」
「うーん……言い合いなら完敗な気がしてきた」
肩をすくめるようにして笑いながら、フェイは模擬剣を剣架に戻す。
その背を、エヴァはしばらく黙って見つめていたが──やがて、ゆっくりと自分の剣を取り直す。
「……よければ、私とも一本、お願いできますか?」
その声音には、いつもの冷静さの奥に、かすかだが確かに熱が宿っていた。
フェイは振り返り、目を細める。
「……いいけど。痛いのはなしでお願いね」
「加減できるかどうかは、あなた次第」
そう言ったエヴァの口元には、珍しくほんのわずか、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
まるで、ようやく面白い相手に出会ったかのように。
その一角にある、外部来賓用の簡素な宿泊棟。
そこが、フェイに用意された滞在先だった。
石造りの外壁に囲まれた建物は見た目こそ堅牢だが、内装は実用本位で落ち着いている。
備え付けのベッドに腰を下ろしたフェイは、クッションの弾力を試すように背中を倒した。
「……うん、まぁまあ。硬すぎず、柔らかすぎず、だね。悪くない」
天井の梁を見上げながら、軽く足を組んだ。
部屋の窓からは、遠くに城の尖塔がのぞいている。が、そこに特別な感慨を示すこともなく、目を閉じる。
「“さて”だよな……さて、何がどうなることやら」
ぽつりと呟き、深い眠りに身を預けた。
⸻
その頃──
エヴァは、自室の小さな机に向かっていた。
旅の装束を脱ぎ、軽装のシャツ姿で椅子に座る彼女は、ランタンの光に照らされて静かに目を伏せている。
あの男の軽薄な振る舞い、王との謁見、そして……ライアスの視線。
一つ一つを思い返すたびに、何かが胸の奥をわずかに引っかく。
(今はまだ、すべてが見えてるわけじゃない)
そう自分に言い聞かせるようにして、目を閉じた。
一度深く息を吸い、肩の力を抜いてベッドへと向かう。
剣士としての直感が、何かが動き始めていることを告げていた。
だが──それをどう迎えるべきか、すぐには答えが出せない。
毛布をかぶり、天井を見上げる。
目を閉じるその直前、心の中で誰にも聞こえない言葉が零れた。
(明日は……動こう)
⸻
そして翌朝。
まだ陽が完全に昇りきる前、城の奥、訓練棟の先にある練武場には、既にエヴァの姿があった。
空気は澄み、静けさの中に砂の擦れる音だけが響いている。
床は踏み締めるごとに細かく鳴き、木製の人形が中央に据えられ、使い込まれた痕跡を全身に纏っている。
陽光が東から差し込み、石の柱の間に長い影が伸びていた。
その中で、エヴァは静かに剣を抜いた。
刃が空を裂くたび、空気が震え、体を駆け抜ける。
鋭く、速く、無駄のない動き──まるで舞踏のような流れ。
剣を振るうことで、余計な思考を削ぎ落とし、ただ身体を研ぎ澄ます。
それが、彼女にとっての「整える」時間だった。
──その気配に、ふと背後の風が揺れる。
「相変わらず真面目だね」
軽く、風に乗って届いたその声に、エヴァは肩越しに振り返りもせず、淡々と答えた。
「……それは嫌味か何か?」
「いやいや、ただの感想。通りかかっただけ──って言うと、嘘くさいかな?」
振り向けば、練武場の塀の上に、いつの間にかフェイが座っていた。
脚をぶらりと垂らし、ひとつ傾げた頭で気楽そうに笑っている。
その佇まいは、まるで練武場の張り詰めた空気を一瞬でほどいてしまうような、柔らかな風のようだった。
だが、エヴァの目は細かく彼を観察していた。
(……最初から見てたわね)
フェイの目はごまかしの笑顔の奥で、鋭くすべての動きを見ていた。技の軌道、足さばき、呼吸の取り方──すべてを無言で計っていた視線だった。
「だったら最初から見てたって言えばいいのに」
「ほら、きみの集中を邪魔したくなかったっていう、優しい心遣いってことで」
「……相変わらずね、口だけは」
エヴァは呆れたように言いつつも、剣をゆっくりと鞘へ納める。
その動作の滑らかさに、フェイは目を細めてひとつ息を吐いた。
「でも、やっぱりすごいよね。剣の軌道が無駄なくて、気配の扱い方も洗練されてる。団員の中でも、かなり上の方じゃない?」
「……そんな評価をもらっても、困るだけなんだけど」
「いやいや、本音で言ってるだけさ。僕の目は節穴じゃないからね」
フェイがぴょん、と塀から飛び降りると、その着地にはまったく音がなかった。
靴底が地面に触れたはずなのに、空気の揺らぎすら感じさせない。まるで、彼自身が風に紛れていたかのようだった。
そのときだった。
練武場の奥、石畳の向こう側から、靴音をぶつけるように響かせて近づいてくる者がいた。強引に空気を割って入り込むような足取り。やがて、甲高く乾いた声が響いた。
「──おいおい、また真面目にやってんのかよ、月の姫さまはよ」
嘲笑を含んだその口ぶりに、エヴァは剣を収めかけた手を止めた。振り向かずとも誰の声かはわかる。
声の主は、第六騎士団所属の男、ラウク・ガルズ。肩幅の広い体格と、がっしりとした顎骨が目を引く粗野な印象の騎士だった。装備は簡易な訓練用の胴衣。だが、その身のこなしは歴戦の現場で鍛えられた実力者のそれだった。
「いつ来ても堅っ苦しいよなぁ、あんたは。そんなんじゃ疲れるだろ。遊びって言葉、辞書に載ってねーのか?」
悪びれる様子もなく近づいてきたラウクは、エヴァの前で足を止めてにやりと笑った。
「騎士団の看板背負ってるって自覚、もうちょい持ったほうがいいんじゃねーの? 肩に力入りすぎてんだよ、昔っからさ」
エヴァは視線を返すことなく、黙って汗を拭うと一言だけ返す。
「……同じ話を繰り返すのが、お好きなんですね」
その声色には、うんざりとした響きが混じっていた。だがラウクは気にも留めず、楽しそうに鼻で笑う。
「そりゃあ言ってやらねぇとな。でなきゃ勘違いしたまま突き進むんだろ? まあ実戦に出れば、すぐに現実がわかるさ。特に、あんたみたいな綺麗なだけの──」
剣に触れようとするエヴァの指が、ピクリと動いた瞬間。
「──それくらいにしといたら?」
軽く、だが妙に通る声が練武場の静けさを裂いた。
視線を向けると、塀の上から降りてきたフェイが、手をひらひらと振りながら歩み寄っていた。
戦装束ではなく、ただの薄手のシャツにゆるいズボン。徽章も何もつけておらず、ただの旅人にしか見えない──のに、その立ち姿には妙な安定感がある。
構えてもいないのに、“戦える”と直感させる空気。そういったものは、戦場に立った者ほど敏感に察知できる。
「……誰だ、お前は」
ラウクが目を細め、怪訝そうに声を荒げる。
「通りすがりの観客。まあ、ちょっと気になる場面だったから、ひと言ね。口の利き方があんまりだったよ」
その言いぶりが癪に障ったのか、ラウクの頬が引きつった。
「観客が騎士団の訓練に口出しとはな。……言ってくれるじゃねえか。じゃあ、口出すからには、それなりに“やれる”ってことだよな?」
言いながら、剣架に手を伸ばす。
引き抜かれたのは、訓練用の模擬剣──刃こそ潰してあるが、芯は金属。脳天に入れば軽く気絶、肋に当たれば折れる。要するに、洒落にならない程度の実力を試せる代物だった。
フェイはというと、わずかに片肩をすくめ、のんびりと首を回す。
「やれやれ、またこうなる。まあ、一本だけね。あんまり痛いのは好きじゃないんだよ」
「ふん、口だけはよく回るな。……いいぜ、一本勝負ってことで」
ラウクが構えながら、斜めにエヴァを指差した。
「そっちの彼女が、見届け人でいいな?」
「……私が?」
「そうだ。どうせ団員だろ? お前の連れがどの程度か、よく見といてやれって」
エヴァはためらいがちに視線をフェイへ向ける。
だが、彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、ぺこりと軽く頭を下げた。
「どうぞ、よろしく」
「……わかりました」
短くそう答えて、彼女は剣を置き、わずかに距離を取る。
その場に静寂が戻った。
ふたりの間合いは、ちょうど模擬剣一撃分。
どちらかが先に動けば、必ず決着がつく。
エヴァは短く息を整えると、静かに片手を上げた。
「……一本勝負。始め──!」
空気が変わったのは、その直後だった。
ラウクの足が石畳を強く打ち鳴らし、踏み込みと同時に模擬剣が振り下ろされる。重く、鋭く、まるで“模擬”という言葉を忘れたかのような一撃だった。
その軌道は真正面から一直線にフェイの肩口を狙っていた。全力で叩きつければ骨を砕く威力はある。だが──
その刃がフェイの身体に届くことはなかった。
「や、やめ──!」
エヴァの声が空気を震わせる寸前。
それよりも早く、甲高い金属音が練武場に響き渡った。
甲冑が打ち合ったような強烈な一閃。
視線が弾かれた方へ向いたときには、ラウクの手から模擬剣が吹き飛ばされ、練武場の片隅へと跳ねて転がっていた。
フェイは、微動だにしていない。
構えた様子もなく、ただ一歩も動かずに片手で――
それも、あまりにも自然な動作で剣を弾き落としていた。
「……一本。ありがと」
柔らかい声で告げられたそれに、ラウクは一瞬、何が起きたのか理解できず、茫然と空の右手を見つめる。
指先がまだ、柄を握っていたはずの感触を探していた。
「な、に……っ」
やがて、顔が赤く染まり、怒気が噴き出すように溢れてくる。
「てめぇ、ふざけやがって……ッ!」
再び詰め寄ろうと前に出ようとした、その瞬間──
「そこまでだ、ラウク」
低く、だが透き通るような威厳を帯びた声が響いた。
練武場のどこからか、空気そのものに釘を刺すように現れたその声は、見えないが確かに存在感を放っていた。
そして、それが誰の声であるかを知る者なら、無視することなどできない。
ラウクの動きが止まる。
視線が宙を泳ぎ、険しい顔で舌打ちする。
「……チッ」
それ以上は何も言わず、彼は剣も拾わずに踵を返した。
忌々しげな視線だけをフェイに向け、足早に練武場の端へと姿を消す。
フェイは去っていく背中に向けて、特に何かを言うこともせず、ただひらひらと手を振った。
静寂が戻る。
だが、練武場の屋根の陰、柱の裏、土塀の隙間──
そこかしこに、複数の“影”が潜んでいた。
動く気配はなかったが、彼らの眼差しは確かにこの場のすべてを見届けていた。
やがて、沈黙を破ったのはエヴァだった。
「……見事な動きだったわ」
感情をあまり顔に出さない彼女の目が、わずかに見開かれている。
そこには驚きと、興味、そしてほんの少しの──尊敬が滲んでいた。
フェイは軽く首をかしげて、いつもの調子で答える。
「そう? そんな大げさなもんじゃないよ。反射っていうか、まあ偶然ってことで」
「偶然で、相手の剣をあの角度から一撃で落とすなんて、普通はできません」
「うーん……言い合いなら完敗な気がしてきた」
肩をすくめるようにして笑いながら、フェイは模擬剣を剣架に戻す。
その背を、エヴァはしばらく黙って見つめていたが──やがて、ゆっくりと自分の剣を取り直す。
「……よければ、私とも一本、お願いできますか?」
その声音には、いつもの冷静さの奥に、かすかだが確かに熱が宿っていた。
フェイは振り返り、目を細める。
「……いいけど。痛いのはなしでお願いね」
「加減できるかどうかは、あなた次第」
そう言ったエヴァの口元には、珍しくほんのわずか、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
まるで、ようやく面白い相手に出会ったかのように。
0
あなたにおすすめの小説
エリクサーは不老不死の薬ではありません。~完成したエリクサーのせいで追放されましたが、隣国で色々助けてたら聖人に……ただの草使いですよ~
シロ鼬
ファンタジー
エリクサー……それは生命あるものすべてを癒し、治す薬――そう、それだけだ。
主人公、リッツはスキル『草』と持ち前の知識でついにエリクサーを完成させるが、なぜか王様に偽物と判断されてしまう。
追放され行く当てもなくなったリッツは、とりあえず大好きな草を集めていると怪我をした神獣の子に出会う。
さらには倒れた少女と出会い、疫病が発生したという隣国へ向かった。
疫病? これ飲めば治りますよ?
これは自前の薬とエリクサーを使い、聖人と呼ばれてしまった男の物語。
碧天のノアズアーク
世良シンア
ファンタジー
両親の顔を知らない双子の兄弟。
あらゆる害悪から双子を守る二人の従者。
かけがえのない仲間を失った若き女冒険者。
病に苦しむ母を救うために懸命に生きる少女。
幼い頃から血にまみれた世界で生きる幼い暗殺者。
両親に売られ生きる意味を失くした女盗賊。
一族を殺され激しい復讐心に囚われた隻眼の女剣士。
Sランク冒険者の一人として活躍する亜人国家の第二王子。
自分という存在を心底嫌悪する龍人の男。
俗世とは隔絶して生きる最強の一族族長の息子。
強い自責の念に蝕まれ自分を見失った青年。
性別も年齢も性格も違う十三人。決して交わることのなかった者たちが、ノア=オーガストの不思議な引力により一つの方舟へと乗り込んでいく。そして方舟はいくつもの荒波を越えて、飽くなき探究心を原動力に世界中を冒険する。この方舟の終着点は果たして……
※『side〇〇』という風に、それぞれのキャラ視点を通して物語が進んでいきます。そのため主人公だけでなく様々なキャラの視点が入り混じります。視点がコロコロと変わりますがご容赦いただけると幸いです。
※一話ごとの字数がまちまちとなっています。ご了承ください。
※物語が進んでいく中で、投稿済みの話を修正する場合があります。ご了承ください。
※初執筆の作品です。誤字脱字など至らぬ点が多々あると思いますが、温かい目で見守ってくださると大変ありがたいです。
異世界でカイゼン
soue kitakaze
ファンタジー
作者:北風 荘右衛(きたかぜ そうえ)
この物語は、よくある「異世界転生」ものです。
ただ
・転生時にチート能力はもらえません
・魔物退治用アイテムももらえません
・そもそも魔物退治はしません
・農業もしません
・でも魔法が当たり前にある世界で、魔物も魔王もいます
そこで主人公はなにをするのか。
改善手法を使った問題解決です。
主人公は現世にて「問題解決のエキスパート」であり、QC手法、IE手法、品質工学、ワークデザイン法、発想法など、問題解決技術に習熟しており、また優れた発想力を持つ人間です。ただそれを正統に評価されていないという鬱屈が溜まっていました。
そんな彼が飛ばされた異世界で、己の才覚ひとつで異世界を渡って行く。そういうお話をギャグを中心に描きます。簡単に言えば。
「人の死なない邪道ファンタジーな、異世界でカイゼンをするギャグ物語」
ということになります。
出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜
シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。
起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。
その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。
絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。
役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる