コトダマ学園2 エレジーを辿って

鷹見 日夜子

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前編

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 ♪ノダ ホムラ
 お気に入りの洋楽を口ずさみながら、真っ赤な絨毯の上を大股で歩いていく。寝室の扉や廊下の壁に生々しく残った赤黒い血痕を見ては、胸が高鳴った。そして、ろうそくが激しく燃え上がるシャンデリアを見つめては、思わず祈りを捧げそうになる。神の教えに背く者を断罪する ”アポロ” のように……
 玄関の扉の近くに立つ二体の西洋甲冑人形に大きく手を振ると、彼らは会釈をしてくれた。
 やや錆びついていて、かっちりとした銀色のボディ……何度見てもゾクゾクする。あのハルバードで人々を八つ裂きにして、この洋館を血の海にする姿を見てみたい!
 ウキウキしながら階段を上っていると、階段を降りる一人の女の子と肩がぶつかってしまった。
 「ごめん!」
 「いえ……」
 オレが手を合わせて謝ると、彼女は採れたてのカラス貝のような黒い瞳をこちらに向けた。その瞬間、オレは慌てて自分の左頬を手で触った。
 そうだった……この学園にいるときは、普通の顔でいられたんだっけ……
 彼女が胸に抱えている小説が目に留まり、オレはそのタイトルと表紙から、自分の思い出を探り始めた。
 『人魚のはらわた』……どっかで聞いたことあるような……あっ、思い出したぞ! 中学生の頃にテレビで放送してた映画だ! 作者の名前もスタッフロールで見た人と同じだし、表紙に描かれているペンダントはきっと、あのシーンのペンダントだろうな……!
 「この本って、海の怪獣を操る人魚と漁師がバトるやつだよね?!」
 「そ、そうです……」
 「オレ、これの実写版観たことあるよ! 最初は憎み合っていた漁師と人魚が次第に惹かれ合って、最後にお別れをしちゃうまでの流れがマジで切ないよね! 戦闘シーンもスッゲェ迫力があって……」
 そこまで言って、やっと我に返ったオレは顔面蒼白になった。
 ヤッベェ、興奮してついペラペラ喋っちゃったけど、こんなの急に言われても困るよね……ってか、この子がまだ『人魚のはらわた』読んでなかったとしたら、オレひどいネタバレしちゃったんじゃ……
 「そうなんですね……」
 少し戸惑う彼女に対して、謝罪の言葉を準備してから頭を下げようとしたその時だった。
 「この作品が好きな人、滅多にいないから嬉しいです。中学生の頃に好きで何度も読み返した本だったから、ここの図書室で見つけて思わず借りちゃいました」
 嬉しそうに微笑んだ彼女を見て、ほっと息をつく。
 「これ、結構グロいけど平気だった?」
 「確かに残酷な表現は多いけど、戦いの厳しさを真正面から描いてるからこそああいう表現になるんだと思えば納得がいくし、そのおかげで、恋愛シーンの純真さとか人魚の美しさが引き立ったっていて素敵なんですよね……」
 本の表紙を眺めながらうっとりする彼女を前にしただけで、さっきまで『人魚のはらわた』の浅い感想を意気揚々と語っていた自分が急に恥ずかしくなる。
 「オレ、この作品の大ファンみたいなこと言っちゃったけど、映画と小説じゃ全然違うよね……今度、原作も読んでみようかな!」
 「はい。オススメだから読んでほしいです」
 オレの隣を通り過ぎ、階段を上る彼女の方を思わず振り返る。
 「オレ、ノダ ホムラ! 君は?!」
 彼女は5階の廊下で足を止め、オレの方に体を向けてくれた。しかし、彼女との別れを惜しく思い、感情に任せて声をかけてしまったことを後悔する。
 何やってんだオレ……いきなり自己紹介して女の子に名前聞くとか、こんなのどっからどう見てもナンパじゃん……
 「ノダくんって言うんですね。私はウタカタ ショウコ。よろしくお願いします」
 ウタカタさんか……
 彼女に笑顔で手を振り、浮かれた気持ちで階段を降りていく。
 やっぱり、この学園に入学して良かったかも……!
 オレは部屋に戻ると、机に向かっていたルームメイトのハヤカワくんに「ただいま」と元気に言った。

 ♪野弾 炎
 ケケケと繰り返される笑い声で目が覚め、布団に入ったまま目覚まし時計に手を伸ばす。スイッチを止めた瞬間、笑い声も止まった。お腹に時計盤を抱え、ツノを生やした一つ目の悪魔の目覚まし時計がそこにはある。
 次に目に入ったのは、壁に貼られた『燃え盛る悪夢』という洋画のポスターだ。ポスターの中では、火傷だらけの顔と上半身を晒した大男 ”アポロ” が、血塗れのチェンソーを振りかざしていた。
 赤いエレキギターをベッドから下ろし、あくびをしながらスタンドに立てかける。楽器店で一目惚れし、初めて出たバイト代で買ったものだ。
 1階の洗面所で洗顔を済ませると、タオルを顔に優しく当てた。鏡に映った自分の顔の左側は、おでこから頬にかけて、左半分が赤くただれている。
 一ヶ月前のあの日、近所の小さな工場でガス爆発が起こり、たまたまその近くの道を使って登校していたオレは事故に巻き込まれた。搬送先の病院で目を覚ますと、包帯をほどいてもらい、手鏡で自分の顔を確認した。
 「かっけぇ……」 
 看護師さんやお医者さんが心配そうに見守る中、オレは思わずそう呟いた。それなのに、今はこの洗面台の鏡を壊したくてたまらない。
 自宅の駐車場に設置されたバスケットゴールを、部屋の窓から眺める。パパにドリブルやシュートを教えてもらった時の思い出に浸っていると、そのバスケットゴールの近くを同じ高校の生徒が通った。
 オレもそろそろ支度しないとな……でも……
 ベッドの上でギターを抱えては、「この曲が弾き終わったら着替えよう」と思い、好きな曲をダラダラと弾き始めた。それなのに、いざ弾き終えると「次は何を弾こうか」と考えてしまう。そして、気づけば部屋のラックの前に立っていた。そこにはいくつものDVDのパッケージが詰まっているものの、どれもオレが生まれる前に封切りされた映画だ。
 もっと、はちゃめちゃで刺激的な映画作られないかな。パパとママが学生だった頃にタイムスリップできたら、喜んで映画館に行くのに……
 オレは『パニックアタック』という映画のDVDケースを手に取ると、ノートパソコンにディスクを挿入し、音声を英語に設定して再生ボタンを押した。
 あっという間に時間は過ぎ、映画は中盤に差し掛かった。緊急停止した電車の中で、乗客たちがゾンビたちに襲われ、血飛沫を上げる。次に、カメラは駅のホームを映し、一人の男性が割れた窓ガラスに目掛けて火炎瓶を投げつけ、隣にいたヒロインと一緒に階段を駆け降りていった。次の瞬間、電車は爆発し、大きな音をたてて肉塊が飛び散っていく。
 「このド派手な感じ、たまんねぇ……」
 ━━そんなキモいの見ても時間の無駄だろ。
 現実逃避のために観ているはずなのに、元バンド仲間たちの顔がチラついてしまう。
 ノートパソコンからディスクを取り出しては、ダンベルを使ってプッシュアップを始めた。しばらくして目覚まし時計を確認すると、とっくに二時間目が終わっていた。
 ……もう、このままサボっちゃおうかな。
 ノートパソコンで動画サイトの画面をスクロールしていた時、白黒のサムネイルが目に留まり、カーソルを動かす手を止める。
 「Seirenセイレーン……1stシングル……」
 動画を再生すると、荒れ狂う波の映像が流れ、画面の向こうで雷が轟いた。
 オレが入院してた頃に投稿されてたのか……
 映像を飛ばそうと思ってカーソルを動かしたその時、青白い顔をした女の子が現れた。オフショルダーの黒いドレスを着た彼女は、膝上までしかないスカートを揺らして激しく踊っていた。
 「この子が、Seiren……?」
 初めて聞いた歌なのに、歌詞がスッと頭に入ってくる。儚さと力強さを巧みに使い分けたその歌声は、ヘビーメタルのメロディと上手く合わさって……いや、むしろバンドの演奏をリードをしているようだった。
 その華奢な体から出ている声とは思えず、本当にこの子が歌っている歌なのかと疑ってしまう。
 表情からは哀愁が漂っており、顔がアップで映される度に、動画を止めてじっくり観たい気持ちと最後まで歌を聴きたい気持ちに板挟みにされ、手がウズウズした。
 エレキギターのソロパートが流れる中、ミュージックビデオのカットは目まぐるしく切り替わっていく。Seirenが素手で手に取った生肉を口に入れると、血まみれの唇がアップで映された。他のカットでは、彼女が眼帯をゆっくりめくると、現れたくぼみから大量のフナムシが出てきた。一人の少女が創り上げる世界を存分に味わっては、ため息が溢れる。
 すると、不自然なタイミングで曲がフェードアウトし、CDのCMが唐突に流れた。オレは動画を止めると、椅子にもたれかかって両手をだらんとさせた。
 まるで、一本の映画を体験した気分だ。でも、それだけじゃない。彼女がいてくれるおかげで、オレの存在が認められているような気がした。
 目を閉じれば頭の中に現れたSeirenの姿が、次第に消えていく。彼女の後を追うように、ミュージックビデオをもう一度再生すると、音楽アプリで「Seiren」と検索した。
 最初は一曲だけ……そう思ったのに、気づけばアルバムで買っていた。
 制服の赤いネクタイを締め、Seirenの歌に背中を押されながら通学路を歩いていく。まるで、モーセが海を割って出来た道を堂々と歩いているような気分になれた。

 部屋でタイムラインを眺めていると、パソコンの時刻表示が「0:00」になった。アカウントのフォロワー数は1クラス分にも満たないけど、アポロのミニフュギュアの写真を使ったこのアイコンは気に入っている。   
 「あっ……」
 流れてきたのは、近日公開予定の洋画の続報だった。数多くの人気ホラー映画を生み出した映画制作会社『Split Studio』の最新作で、この会社ではパパとママが製作スタッフとして働いている。最初は二人とも日本の映画会社で働いていたけど、『Split Studio』にスカウトされて、今は海外にいる。
 ━━大丈夫だよ。オレもう高校生だし、軽音部も続けたいから。
 息子を家に一人にしてしまうことを気に留めていた両親に向かって、オレは笑顔でそう言った。『Split Studio』で働くという二人の昔からの夢を邪魔するわけにはいかないし、誕生日には毎年帰ってくるって約束してくれたから寂しくはない。肝心の部活はもう辞めちゃったけど……
 タイムラインを更新すると、フォロワーがシェアした投稿が流れてきた。
 『この鮫島さんのカバーめっちゃ聴いてほしい……! 本当に最高だから!』
 動画のサムネイルに写っているのは、コンデンサーマイクの前に立つ男の人で、黒い髪に青いメッシュが入っている。
 この人、色んな人とコラボしてるすごい人じゃん。前にオリジナル曲を聴いたけど、音域が広いうえに張りのある声が特徴的で、羨ましいんだよな……
 「『大好きなセイレーンさんの曲を歌わせていただきました』……うんうん、Seiren様はいいよね……」
 早速動画を再生し、鮫島さんの歌声をイヤホン越しに聴く。初っ端からスピード感のある歌を難なく歌い上げ、力強い声をキープしていた。
 間奏に入ってくるオリジナルのスキャットは、原曲の雰囲気を壊すどころか曲全体を盛り上げる役目をしていて、すぐに惹き込まれてしまう。聴いていて心が浄化されるのはSeiren様だけど、心が弾むのは鮫島さんかな……
 「あっ……!」
 この人が耳につけてるの、初回限定盤のCDについてくるイヤリングだ! 10名限定で貰える、Seiren様をイメージした雫のイヤリング……オレもスッゲェ欲しかったんだよな。
 歌を聴き終わり、パソコンの前で拍手すると、スタンドに立てた自分のギターを見つめた。
 オレも、Seiren様の曲をカバーしてみたいな。オレの演奏で誰かに感動を届けられたら嬉しいし、それでSeiren様の曲がもっと広まったら最高だよな……
 この気持ちをみんなで共有したいという気持ちに駆られ、コメント欄をスクロールしていく。
 『名曲を汚すな』
 しばらく目が点になり、「え?」と声が出てしまった。
 『ってか、セイレーンじゃなくてSeiren様だから』
 『やっぱり本家には勝てないかー』
 『どうせ流行りに乗っかってるだけでSeiren様には興味ないんだろうね』
 ……人が一生懸命歌ったものにここまで言う必要ある?
 『いや、俺よりは一億倍上手いだろ。俺の耳がおかしいだけ?』
 『私も鮫島さんの声好き! この曲歌ってくれて嬉しいな~』
 鮫島さんを擁護する声を見つけてほっとしていると、アイコンに見覚えのあるアカウントを見つけた。
 『このカバーを褒めている人はSailor名乗る資格ないです』
 『鮫島さんが悲しむようなことは言わないでください』
 『感想も自由に言わせてもらえないとか……私たちSailorは、出されたものを脳死で絶賛する信者さんたちとは違いますから』
 この偉そうな人、オレのフォロワーじゃなかったっけ……
 同じアイコンのユーザーを自分のSNSのフォロワー欄から見つけると、その人のプロフィール画面に刻まれた1000を超えるフォロワー数に圧倒され、オレはパソコンを閉じた。
 ……やっぱり、オレがおかしいのかな。うん、きっとそうだよ……
 「どうせあのイヤリングだって、フリマアプリで誰かが転売したやつを買ったんでしょ? あー、やだやだ」
 ベッドに寝そべり、赤いギターから目を逸らす。
 オレも、曲を投稿したらああ言われちゃうんだろうな。誰かにハブられるのは、リアルの世界だけで十分だ……

 ♪野弾 炎
 カラオケのロビーでは、MVが流れる巨大スクリーンとパーティーグッズが、訪れた人たちを出迎えている。
 オレは部屋番号と退室予定時間が印字された紙をクリップボードに挟み、お客様に手渡した。
 「ごゆっくりお過ごしください」
 お客様を見送っていたその時、電話がけたたましく鳴り、すぐに受話器を手に取った。
 『ハイボールとレモンサワーお願い』
 「はい、ご注文ありがとうございます。ハイボールとレモンサワー、それぞれお一つずつでよろしいでしょうか」
 『うん』
 「かしこまりました。しばらくお待ちください」
 注文の品を載せたお盆を持ち、エレベーターで3階まで行った。騒がしい部屋の扉をノックして中に入る。
 「失礼しまーす!」
 それまで歌に夢中になっていた男女のお客様は、オレを見た瞬間、しけた顔をして音楽を止めた。愛想笑いをしながらテーブルに飲み物を並べていく。
 「やばい、またイライラしてきた。拓哉たちが楽単っていうからとった授業だったのに、なんで片道1時間かけてジジイに説教されに行かなきゃいけないんだよ。しかも、単位落としたの俺だけだったみたいだし……」
 「あはは、せめておじいちゃんって言いなよ。後期から頑張ればいいじゃん」
 貧乏ゆすりを始めた男の人から目を逸らし、お盆を胸に抱えて「ごゆっくりどうぞ」と言って会釈をした。
 「待って。私が飲みたかったの、ライムサワーだったんだけど……」 
 「……え?」
 女の人に悲しそうな顔を見せられた瞬間、男の人は頭を掻きながらため息をついた。
 「俺さ、ちゃんと言ったよね? ライムサワーでお願いって」
 「えっと………」
 「どういうこと? 君、新人なの?」
 「も、申し訳ございませ……」
 突然、何かをぶちまけられ、びしょ濡れになった顔を両手で抑えた。男の人は空になったグラスをテーブルに音を立てて置き、レモンを口にした。
 「ちょっと! 流石にやりすぎだって……!!」
 「離せって。注文間違えたコイツが悪いんじゃん」
 炭酸が目に染みて、情けないうめき声が出てしまう。ズボンのポケットから取り出したハンカチで顔を拭き、やっと目を開けられるようになったかと思うと、ハンカチの表面はファンデーションまみれになっていた。
 「しまった……」
 お客様たちの顔は真っ青になり、CMの音声だけが室内に響いた。
 ━━あいつキモくない?
 背負っていたギターケースに押し潰されそうになった、あの日を鮮明に思い出す。
 教室にいたのは、オレがその当時まで入っていたバンド、 ”Youth” のベースボーカルのヨッシーと、ドラムの優香ちゃん、キーボードの透くんの三人だった。大きく開かれた扉から、彼らの様子が分かる。
 「私だったら、あんなひどい火傷できたら表出れないよ。それなのに、なんで馬鹿みたいにはしゃいでるわけ?」
 「あいつはサイコパスぶりたいだけだから気にしたら負けだって。好きだって言ってた映画も、どうせグロ映画でググってヒットしたもの適当に並べてるだけだろ」
 透くんと優香ちゃんの会話を聞きながら、オレはギターケースのチャックにくくりつけていた骸骨と目玉のキーホルダーを強く握った。
 「オレらのバンドの雰囲気に合わねぇし、さっさと辞めてくれないかな」
 机の上に座っていたヨッシーは、持っていたベースを鳴らしながら笑った。努力や熱い友情をテーマにした歌を歌う彼とは、到底思えない。
 「ってかさ、あいつの今の髪型どう思う? ダサくね?」
 「ダサい。あれをかっこいいと思ってるのマジで笑える」
 「それな! ボーカルの俺より目立とうしててムカつくし」
 大きくなる笑い声を聞き、あの日のオレは体の震えを吹き飛ばす勢いで廊下を駆け出した。
  
 「ご、ご迷惑おかけしてしまい申し訳ございません………。今すぐ新しい飲み物をお持ちしますので……しばらくお待ちください」
 扉を優しく閉じ、ハンカチを顔に当てたまま廊下を歩いていく。あちらこちらから聞こえる楽しそうな歌声から逃げるように、エレベーターに乗った。タオルをズボンのポケットにしまったものの、鏡に映った自分の火傷跡と赤くなった目を見て、すぐに片手で顔を隠してしまう。
 「……はっ」
 何度も聴いたあの麗しい歌声が、スピーカーを通して濡れた体に降りかかる。首筋を伝っていた寒さは消えてしまい、エレベーターが降っていくにつれてオレの気持ちは高まっていった。
 そうだ、今のオレにはSeiren様がついてる。Seiren様がいれば、オレは……
 エレベーターが開いた瞬間、ロビーの方に体を向け、照明の明るい光を全身に浴びた。
 「野弾くん、その顔……」
 カウンターの向こうであたふたしていた先輩に向けて、オレは満面の笑みを見せた。

 ♪ノダ ホムラ
 「呪いで満ちた~、静かな世界~♪」
 Seiren様の歌を口ずさみながら、ドアノッカーで次々と男子部屋の扉を叩いていく。
 「よし、ここで最後だ」
 全ての扉をノックし終え、大きく伸びをしながらあくびをしたその時、オレの目の前を一匹の蝶々が通った。その赤い羽に大きく刻まれた目玉模様に心を掴まれ、階段を上っていく。
 『ダーティーマン』に出てきた蝶々にそっくり! 目にすると一週間後に死ぬ地獄の蝶々……!
 赤い蝶々は、廊下を歩いていた生徒の肩にピタッと止まった。
 「あの、その蝶々……」
 こちらを振り返った彼は、真っ白な髪を持ち、黒いマスクをしていた。脇に抱えているのは一冊のスケッチブックだ。すると、蝶々は彼の細長い指に移動した。
 「うわぁ、やっぱり近くで見ると……」
 すると突然、彼は蝶々の羽をむしり始めた。
 「ちょっと! 何してんの!」
 オレに掴まれた彼の手から、蝶々が落ちる。絨毯の上で苦しそうに動く蝶々を彼がローファーのかかとで踏みつけた瞬間、オレンジ色の液体が飛び散った。
 「うわあ……大変だ……」
 「シロウくん」
 廊下をニョロニョロと歩くキングコブラを連れてやってきたのは、ナナカ先生だ。クレオパトラを彷彿とさせるボブカットは今日も綺麗で、黒いトーク帽のチュールがその若々しい顔にかかっている。
 彼……シロウくんはただ、オレンジ色の液体をじっと見つめていた。
 無視されているナナカ先生を気の毒に思ったオレは、先生に向かって元気良く挨拶した。
 「ナナカ先生、おはようございます!」
 「おはようございます」
 とぐろを巻いたコブラが尻尾の先で蝶々をつつくと、蝶々はたちまち元の姿を取り戻し、元気に飛んでいった。
 「それを私に見せに来てくれたんですか?」 
 シロウくんは一瞬だけナナカ先生と目を合わせ、片手でスケッチブックを差し出した。
 「ありがとうございます。では、拝見させていただきます」
 「オレも見たい! いい?」
 シロウくんが黙って頷いたのを確認すると、オレはナナカ先生が広げたスケッチブックの中身を、コブラと一緒に覗き込んだ。
 「わぁ……!」
 眉間にシワを寄せたナナカ先生とは対照的に、オレは、その紙に描かれた血まみれの女の子の死に顔や、もがれた四肢を見ては目を輝かせた。どのイラストもリアルなのに、なぜか不快感を覚えない。
 「すごいよ……シロウくん、すごいよ! ねぇねぇ、卒業試験受けないの?」
 シロウくんは目だけを動かしてオレを見つめたものの、ずっと黙っていた。
 「こんな才能を持ったまま死ぬなんて勿体ないよ! オレのママも美大を卒業して、今は海外で特殊メイクのアーティストとして活躍してるんだけど、シロウくんの絵からは、ママと同等のセンスを感じたんだ。グロテスクな表現を出し惜しみしないイラストから味わえる、圧倒的な美しさ……まさに『命』というタイトルがぴったり……!」
 熱く語るオレとは対照的に、シロウくんは冷めた様子で退屈そうにしていた。
 「ありがとうございました。これはお返ししますね」
 ナナカ先生はシロウくんにスケッチブックを返すと、コブラから受け取ったノートを開いた。そして、スカートのポケットから取り出した鉛筆でそこに何か書き始めた。
 「それでは、また一週間後に見せにきてくださいね」
 「先生、さよならー!」
 「さようなら」
 コブラに近づけられたそのウロコだらけの頭を撫で回し、「またな」と言うと、コブラは満足した様子でナナカ先生の後をついていった。
 部屋に帰ろうとしたシロウくんの肩を掴むと、彼はギョッとしてオレの手を振り払った。
 「もしかして、Seiren様描ける……?」
 「せっ、せい、れーん……」
 初めて聞いたシロウくんの声はざらついていて、機械的だった。
 「もしかして知らない?! 人魚の肉を食べて不老不死の体を手にした歌姫……それがSeiren様! デビュー曲は『光の貴女を私の手に』なんだけど、どの曲も最高にロックでさ! ここに資料があれば、君にぜひあのご尊顔を描いてもらおうかと思ってたんだけど……」
 オレは自分の腕を組みながら、シロウくんの白い髪を見つめた。
 綺麗な白……生前に染めてたのかな……?
 そんなことを考えているうちに、シロウくんの頭に向かって思わず手が伸びてしまう。すると、彼はオレから慌てて遠ざかり、柵に腰をぶつけた。
 「や、やだな、そんなに怖がらなくていいのに! お近づきの印っていうか、あはは……」
 シロウくんにギロッと睨まれ、オレの笑顔が一瞬にしてぎこちなくなった。いきなり刃物を首に当てられたような緊張感に襲われる。
 「……そういえば、卒業試験ってなに?」
 え? 入学初日に学園長から聞いてなかったの? 
 「受かったら生き返れる特別な試験……! そんな映画みたいな話、本当かどうか分からないけどね……はは……」
 「そうか……それなら、受けてみるのもいいかもな。もし生き返れたら、次はちゃんと殺して、ちゃんと死ぬ」
 スケッチブックを片手に、猫背で廊下を歩き始めたシロウくんの後ろ姿を見送る。
 すげぇ、ヴィランの捨て台詞みたい……!
 やっと解放されたオレは、首をさすりながらその場でフラついた。
 
 ♪フミヒラ シロウ
 天井の扉を開き、スケッチブックを片手にはしごを登っていく。
 ━━もしかして、Seiren様描ける……?
 せいれーん……どこかで聞いたことある名前なんだよな……
 屋根裏部屋に行くと、一人の女子生徒が窓に向かって歌を歌っていた。彼女の手とウエストは人形みたいに細く、顔も小さい。その一方で、タイツ越しに見える太ももは肉つきが良く、胸もふっくらしている。
 だけど……その歌声は不安定で、すぐに空気が抜けた風船みたいに萎んでしまう。まるで、綱渡りをしながら歌っているみたいだ。
 ……このメロディ、聞いたことある。なんて曲だっけ……
 彼女は喉を押さえながら咳き込み、その場でへたり込んだ。悔しそうに顔を歪ませていたものの、俺の存在に気づくとハッと驚いた。
 「立てる……か……?」
 俺の手を借りて立ち上がった彼女の手は、ひどく震えている。彼女は俺に向かって黙ったまま頭を下げると、はしごを降りていった。
 ━━第三位は、 Seirenのセカンドシングル『Midnight Ocean』……
 「……はっ」
 俺は段ボールの箱を開き、取り出した画筆を雨水の溜まったバケツに浸けた。
 
 ♪ノダ ホムラ
 廊下でシロウくんから渡されたスケッチブックを見て、目ん玉が飛び出そうになる。
 血まみれの口周りと首元を晒しながら、こちらを睨むSeiren様がそこにはいた。
 クラーケンの触手によって操り人形のように両手を引っ張り上げられているため、脇が丸見えになっている。クラーケンの触手は他にもあり、一本はSeiren様の左脚の太ももを締めつけ、もう一本は胸の谷間に触れていた。
 「も、もしかして、もしかしなくても、せ、Seiren様……?!」
 「記憶を頼りに描いたけど……それでいいのか?」
 「合ってるのも何も完璧だよ! まあ、一番は本物だけどね! この絵、オレがもらっても……」
 シロウくんはスケッチブックから雑にSeiren様の絵を引き裂くと、それをオレにくれた。
 「もっと大事に扱ってよ、麗しきSeiren様に何かあったらどうするの?」
 「ただの絵だろ。その女のどこがいいんだか」
 「決まってるじゃないか! 歌がめちゃくちゃ上手くて表現力お化けなところか、全身から美しさともに溢れ出すダークなオーラとか……もう語り切れないよ!」
 「ふーん」
 「……それに、オレはこの人に救われたんだ」
 「救われた……?」
 Seiren様の絵を胸に抱き寄せ、オレは息をたくさん吸った。
 「ありがとね! バイバイ!」
 オレはシロウくんに手を振ると、早足で4階に向かい、美術の先生から画鋲をもらった。画鋲をポケットにしまって自分の部屋に戻り、Seiren様の絵を持ったままベッドの上で膝をつく。
 やった……ついに、Seiren様を部屋の壁に貼れる時が……!
 壁に絵を押し当て、隅っこに一つ目の画鋲を突き立てる。
 「ただいま」
 扉が開いたその瞬間、オレは驚いて画鋲と絵から手を離してしまった。帰ってきたハヤカワくんの足元に、Seiren様の絵が落ちていく。ハヤカワくんはその絵を拾うと、まじまじと見つめた。
 「これ、もしかしてSeiren?」
 「そ、そう!」
 「ホムラ、コイツのこと好きなの?」
 彼の怪訝そうな表情を見たオレは、ついさっき床に落ちてしまった画鋲をかかとで蹴ってベッドの下に隠した。
 「い、いや……フツーかな……」
 「俺さ、コイツ苦手なんだよね、MVのセンスはないし、歌も変だし。っていうか可哀想だよな、女の子なのにあんな気持ち悪い役やらされてさ」
 オレはハヤカワくんから絵を受け取ると、絵の中のSeiren様と目を合わせないようにした。
 「そ、そうなんだ~! オレもさ、シロウくんからこの絵押しつけられて困ってたんだよね~!」
 「ホムラ、フミヒラ シロウには関わらない方がいいぜ。あいつ、色々訳ありだし」
 「え?」
 「いつもハサミ持ち歩いてたり、夜中に急に叫んだりしたことがあって、先生たちから要注意人物としてマークされてんだよ。だから、あいつだけ一人部屋なんだって。ただでさえ繊細な他の生徒たちに危害が加えられないようにな」
 「……そっか」
 「早く卒業試験受かって、こんな薄気味悪いところさっさと抜け出そうぜ」
 ハヤカワくんはベッドに寝そべると、英単語帳をペラペラとめくった。
 オレは絵を持ったまま部屋を後にし、閉じた扉にもたれかかると、Seiren様のご尊顔を再び見つめた。
 やっぱり、シロウくんは ”本物” なんだ。全部演技だとしたら冷めるけど、本当にやってるならすごいぞ……! 
 Seiren様の絵を胸に抱えながら5階に向かい、屋根裏部屋の真下に立つ。天井の扉を棒でつついて開くと、はしごを登って屋根裏に向かった。
 一匹の黒猫がやってきたので、人差し指で顎の下を撫でてあげた。
 「見て見て。このお方はSeiren様。素敵でしょ? シロウくんが描いてくれたんだよ」
 ダンボールの上にSeiren様の絵を置くと、黒猫はダンボールに両手を乗せ、二本に分かれた尻尾を揺らしながら絵の全体を眺めた。
 「そうだ、今からSeiren様の曲を……」
 物音に気づき、それまでアコースティックギターに向けていた目を、入り口の扉の方に向ける。はしごを登ってやってきた二人の女の子と目が合い、オレはその場で立ち止まった。
 「ここ、使ってもいいかしら?」
 「もっ、もちろん!」
 「ん? あれ何?」
 ぎくっとし、二人組のうちの一人がダンボール箱の上にあった絵を手に取った。
 「やだあ、これ描いた人絶対ヘンタイだよね~」
 「絵はすっごい上手なのになんかもったいな~い」
 女の子たちの笑い声を聞き、作者でもないのにソワソワしてしまう。
 オレはすぐさまはしごを降り、屋根裏部屋を後にした。階段を降りていくだけで、今頃、さっきの女の子たちがSeiren様の悪口を言っているんじゃないかと想像してしまう。
 オレ、なんで逃げちゃったんだろう。「それ、オレがもらった絵なんだ。大事なものだから返して」って、あの子たちに言うべきだったのに。

 ♪野弾 炎
 昼下がりの教室で、オレは期末試験の勉強に励んでいた。さっきまでお昼ご飯を食べていたクラスメイトたちは、委員会の集まりに出席したりグラウンドに遊びに行ったりしていて、ほとんど教室に残っていない。
 勉強のお供は、この間公開された『月夜のティータイム』のMVだ。スマホに映るSeiren様はフォークとナイフでステーキを堪能し、ワイングラスに入った血液を上品に飲んでいる。
 この高貴なSeiren様も美しいけど、デビュー当時の破壊的なSeiren様の方が好きかな。手袋してるせいで、いつもしていた黒いマニキュアが見られなくなったし。
 男子トイレの個室に入ると、化粧が崩れた顔をクレンジングシートで拭いた。そして、ファンデーションとクリームを肌に塗っていく。すると、扉の向こうから男子たちの話し声が聞こえてきた。
 「ヨッシーたちのバンド、新しいギター見つかったんだって」
 「良かったじゃん。前のギターって、なんか色々終わってるやつでしょ」
 潤んだ瞳を映すコンパクトミラーを閉じ、ヒビが入るまでケースを握り締める。
 「あいつ、あんなんでよくヨッシーたちのバンドに入ろうと思えたよな。邪魔でしかないのに」
 「周りと違う俺カッケーって思ってそうでキツいし……」
 彼らの笑い声と足音が途絶えてから、オレは個室を抜け出した。洗面台の鏡に映る自分のモヒカン頭とピアスをつけた両耳から目を逸らし、教室に戻る。黒板の前で駄弁っていた女子たちは、オレが近くを通るとあからさまに距離を取ってきた。
 Seiren様……
 震える手でイヤホンを両耳にはめ、モバ充に繋いだスマホを操作する。破裂しそうだった心臓は次第におとなしくなり、参考書とノートを開く余裕が生まれた。
 「キッモ」
 曲と曲の合間に聞こえたクラスメイトの声が、自分に向けられたものであるかのように思える。
 イヤホンをしたままホームルームを乗り切ると、普段はしないようなミスを繰り返しながらも夜までバイトに励んだ。
 「ただいま……」
 電気も点けずにリビングのソファーで横になり、ブランケットに包まった。夢と現実の狭間で、去年の誕生日を思い出す。
 ━━せっかくの青春時代なんだから、もっと好きに生きなよ。
 ママはそう言って、このブランケットでオレの涙を拭ってくれた。それだけで、学校で味わった疎外感を忘れることができたあの日がもう懐かしい。
 ……ダメだ。
 ブランケットを取っ払い、無音に殺されてしまう前にイヤホンをする。聞こえてきたSeiren様の歌声を子守唄代わりにしてやっと眠りにつくと、窓からの眩しい光と小鳥のさえずりで目が覚めた。耳からはイヤホンが外れていて、スマホのバッテリーはとっくに切れている。
 シャワー浴びなきゃ……
 リモコンの電源ボタンを押し、このリビングをテレビの音で満たす。その時、一つのニュースが目に入った。
 「え……?」

 ♪野弾 炎
 ベッドの上で頭まで布団をかぶり、スマホに表示されたパパからのメールを間近で見つめる。そこには、悪天候で飛行機が大幅に遅延しているため今日中には家に帰れないと綴られていた。
 深いため息をつき、今までの送受信履歴を眺める。バイトをバックれてから送られ続けていた店長からのメールは、いつの間にか途絶えていた。
 次にカレンダーアプリを開くと『期末テスト』の文字が目に入り、今日がテスト最終日であることにやっと気づいた。
 「……忘れてた」
 布団から顔を出して部屋を見渡すと、全ての曲を再生し終えて動かなくなったオーディオプレーヤーと、床に散らばったCDケースが目に入った。
 誕生日は、生まれてからそれまで生きてきたことを祝福する日だって聞いたけど、何もできずにただ引きこもっているオレは、誰かに祝われていい人間なのかな。今のオレには、パパとママに合わせる顔なんてないのに……
 布団をぐちゃぐちゃにしたままベッドから降りると、床の上に置かれたギターが足元に当たった。弦は切れていたが、新しいものと交換する気にはなれない。
 「Seiren様……」
 ギターの前で膝をつき、その真っ赤なボディの上にいくつもの涙を落とす。
 「本当は、今もどこかで歌っているんでしょう……? お願いだから、オレを独りにしないでください……」
 スマホでSNSのタイムラインを眺めれば、Seiren様の訃報を嘆く事務所やアーティストたちのコメントが流れてくる。それから、Sailor……つまり、Seiren様のファンがアップしたイラストまで目に入った。そこには、濃紺の棺の中で安らかに眠るSeiren様が描かれている。
 『伸びなかったので再掲! Seiren様のご冥福をお祈りします(-人-)』
 ……やめろよ。
 すぐさまタイムラインを更新すると、今度はSailorたちの書き込みが次々と流れてきた。
 『Seiren様を酷使した事務所が全部悪い。社長とマネージャーは死んで詫びろ』
 『枕営業してたって聞いたけど、それが辛かったんじゃないかな?』
 『アンチからの誹謗中傷が原因に決まってんじゃん。そんなことも分からないとか同じSailorとして恥ずかしい』
 『あのお方が我々ファンを捨てて自殺なんてするはずない! 誰かが海に突き落としたに決まってる!』
 衝動に駆られて『燃え盛る悪夢』のポスターにスマホを投げつけると、ポスターは剥がれ落ち、液晶はバキバキになった。
 映画に出てくるような、死者の世界って本当にあるのかな……
 窓を打ちつける雨は、駐車場のバスケットゴールを飲み込み、パパとの温かい思い出も掻っ攫ってしまいそうだった。
 もし本当にあるなら、そこにSeiren様が……
 ギターシールドを握り締め、冷え切ったドアノブを見つめる。悪魔の目覚まし時計の針は、とっくに止まっていた。
 
 ♪ノダ ホムラ
 雨音だけが静かに響き渡る廊下で、天井を棒でつつく。
 あの絵、まだあるかな……いや、なくちゃ困る……!
 はしごを登って屋根裏部屋にたどり着くと、誰かの後ろ姿が見えたので驚いて立ち止まった。
 ……ウタカタさん?
 彼女が手に持って眺めていたのは、シロウくんが描いたSeiren様の絵だった。
 もしかして、Seiren様の魅力に気づいちゃった感じ……?!
 「ウタカタさん!」
 ウタカタさんが驚いた拍子に絵をぐしゃっとしてしまったのを見て、オレは思わず声を上げた。
 「せ……Seiren様がぁ……」
 「ごめんなさい……! まさか、あなたのものだった……?」
 「うん、シロウくんがオレのために描いてくれたんだ……。でも気にしないで! ウタカタさんがSeiren様に触れてみたくなる気持ちはスッゲェ分かるから!」
 ウタカタさんの手から離れたSeiren様の絵が、裏返しの状態で床に落ちた。
 「いつまでSeirenを求めているの……」
 オレの耳に入ったのは、怒りに震えた彼女の声だった。
 「Seirenは……もう帰ってこないのに……」
 「どっ、どうしてそんな悲しいこと言うの……?!」
 ウタカタさんはオレの肩を強く掴み、爪を立ててきた。
 「私はもう歌えないの! 二度とSeirenにはなれないの! あなたがどれだけ求めようと……!!」
 ウタカタさんの叫びを聞いた瞬間、全身が震え上がった。海底から湧き上がり、大地を揺るがすようなその声が、あのお方にそっくりだったからだ。
 オレから手を離したウタカタさんの前で唾を飲み込み、深呼吸をする。
 「あなたが……Seiren様なんですか?」
 ウタカタさんはオレから少しずつ後退りし、くしゃくしゃになった画用紙をローファーのかかとで踏みつけた。
 良かった……これでオレは独りじゃなくなる……!
 彼女の憂いを帯びた表情を見た瞬間、オレの中に湧き上がった想いは落ち着くどころか、どんどん大きくなっていった。
 「オレ……ずっとずっとあなたにお会いしたかったんですよ! たとえこれが仮のお姿だとしても、オレはあなたに会えただけで幸せです! 」
 「ノダくん、どうしちゃったの……?」
 「いつもの恐ろしいお姿で、あの美しい歌声を聞かせてください!」
 目の前でひざまずいたオレに対して、Seiren様は首を横に振った。
 「どうしてですか?! まさか、愚民どものお言葉をまだ気になさっているのですか?!  そんなの、あなたらしくないです! あんな戯言に囚われず、己を貫くべき……」
 Seiren様はオレを押しのけて床の扉を開けると、はしごを使わず飛び降りた。
 「お待ちください!」
 廊下を走るSeiren様の後を追っていたその時、シロウくんが俯きがちで歩いてきた。すると、Seiren様はシロウくんの背後に隠れた。
 「シロウくん! その方をオレに……」
 「なんで?」
 「信じられないかもしれないけど、その人がSeiren様なんだよ! 君が描いてくれた、あの……」
 シロウくんは自分の手の甲を掻くと、Seiren様の顔をチラッと見た。
 「あっちいってろよ」
 Seiren様はシロウくんにお辞儀をすると、階段を駆け降りた。彼女を追いかけようとしたその時、シロウくんに腕を強く掴まれた。
 「離してくれよ! なんでオレたちを置いていったのか直接お聞きしたいんだ!!」
 「ただの人間に対して何へりくだってんだよ」
 「Seiren様は怪物だ!」
 「別にどっちでもいいけど、今はそっとしておけよ。あいつ、お前のこと嫌がってるし」
 「嫌がってる? その根拠は?」
 「根拠もなにも、あいつの顔見れば分かるだろ。どうしても気になるっつーなら止めねぇけど……どうせ相手にされないのがオチだよ」
 呆れた様子で階段を降りるシロウくんを見ては、モヤモヤしたまま天井を見上げた。
 オレがしようとしてることって、そんなにひどいことなのかな……

 ♪泡沫 翔子
 もう一度自分の氏名と住所を確認してから、ポストに茶封筒を投函する。その中には、今通っている通信制高校のレポート課題が入っていた。
 「よし……」
 いつもの運動公園に向かい、上級者向けのランニングコースを走り始めた。目標の時間以内に何とか走り切り、徐々にスピードを緩めていく。ベンチに座るとスマホを取り出し、SNSであのスキャンダルに関する反応をチェックした。
 『やだー! 亮平きゅんとセイレーンって人が付き合ってるとか絶対信じない!』
 『そんな……Seiren様に裏切られるなんて……』
 『セイレーンの素顔が思ったより可愛くてびっくりした。あんな変なメイクやめてこれで出ればいいのに笑』
 落ち着くまでもう少し時間かかりそうだな……
 椎名亮平さんは今をときめく俳優で、最近は歯磨き粉のCMや医療ドラマに出演している。椎名さんとはテレビ局で会う度に世間話をする仲で、ある日、彼に誘われて二人っきりで食事に行った。しかし、当時の様子をパパラッチに撮られ、私と椎名さんが交際していると週刊誌にて報道されてしまった。
 私たちは付き合ってないし、食後にホテルに行ったこともない。だけど……イメージ重視の歌手として、危機感を持っておくべきだったな。椎名さんにも迷惑かけちゃったし……
 自責の念に押し潰されそうになる前に、ベンチから立ち上がって大きく伸びをした。
 くよくよしてちゃダメ! これからの活動で挽回しないと……!
 「あっ、あの!」
 やってきたのは、ランニングウェアを着た20代くらいの女の人だった。彼女は、手に持っていたスマホの画面と私を見比べてはソワソワしている。
 「Seiren様……ですよね?」
 驚いてつい目を見開いてしまったが、Seirenでいる時の自分を思い出し、慌てて澄まし顔をしてみる。
 そっか……私の素顔が公開されちゃったから、すぐにわかったんだ……
 黙ったまま頷くと、女の人は興奮して大声を出したものの、すぐに両手で口を押さえた。
 「これって、人間界で過ごすための仮のお姿って聞いたんですけど、本当ですか?」
 なるほど。みんな、そういう風に受け取ってくれてるんだ……
 「わあ……顔ちっちゃい……しかも可愛い……。あの、握手してもいいですか……?」
 彼女の目を見ずに手を差し出し、握手を交わす。その満面の笑みを見た瞬間、嬉しくてつい笑いそうになってしまった。
 「新曲の ”Midnight Ocean”、聴かせていただいたんですけど、もう言葉にできないくらい最高でした! 大学の課題が辛い時も、Seiren様の歌を聴いてるだけで元気になれて、その……」
 元気……そっか、良かった。なんだか、胸の奥がすごくポカポカしてくる。自分の歌が誰かの支えになると、こんな気持ちになれるんだ……
 「と、とにかく、これからもSeiren様のこと応援させていただきます!」
 「そう言ってもらえるとすごく嬉しいです! ありがとうございます!」
 「……え?」
 「あっ……」
 私は、キョトンとする女の人に対してひたすら謝り、気まずい空気から逃げ出すようにその場から走り去った。自動販売機の前で立ち止まり、深呼吸する。
 きっと……いや、絶対がっかりしたよね、Seirenがいきなり大声で喋り出して。っていうか、ランニングしてるとこ見られてる時点でダメじゃん。マネージャーの土屋さんが知ったら怒るだろうな……
 ペットボトルの天然水を飲み、キャップを深く被って早歩きをする。
 自宅マンションのエントランスに着くと、真珠のチャームがついた鍵でオートロックを解除した。開かれたガラス扉を抜け、エレベーターに乗ったその時だった。
 「え……?」
 閉まりかけたドアをこじ開けたのは、銀髪の男の人だった。ズボンにチェーンを下げていて、耳に大量のピアスをつけている。
 エレベーターが上昇していくうちに、心臓がバクバクしていく。しんとした二人っきりの空間で思わず息が止まってしまい、ペットボトルを持つ手から汗が出始めた。
 大丈夫……家にはお父さんがいるし、いざとなったら……
 7階に着いた瞬間、エレベーターから早足で抜け出した。振り返ると、男の人も足を早めている。落としそうになった鍵を扉に挿した瞬間、男の人に強引に腕を掴まれた。
 「痛い!」
 「……返せよ」
 私はその細長い腕を振り払うと、扉を開けて中に入った。
 「助けて!」
 「翔子?!」
 お父さんがキッチンからこっちに駆けつけた瞬間、私は前に倒れてしまった。廊下に転がったペットボトルの行方を目で追っていると、さっきの男の人が私に覆い被さってきた。
 「あの方を……どこにやった……」
 え……?
 「Seiren様は、人間の男なんかにうつつを抜かさないし、人魚の肉しか食べないんだ。あんな低俗な真似は……絶対にしない……」
 低俗な真似……
 椎名さんと2人で回らないお寿司屋さんに行き、お仕事の話で盛り上がった記憶が蘇る。
 顔を近づけられ、男の人の額の汗が私の頬へと滴り落ちた。抵抗することも声を出すこともできず、力強く目を閉じることしかできない。
 やっぱり、Seirenのイメージを守るためにも、あのお誘いは断るべきだったんだ。それなのに、憧れの俳優さんとお食事できるからって浮かれて……馬鹿みたい。
 「娘に近づくな!」
 お父さんが男の人の肩を勢い良く掴み、私から跳ね除けたその時だった。
 「うっ……」
 お父さんの腕に入った傷と男の人が持っていたポケットナイフから、血が流れ始める。全身が震え上がり、掠れた声で「お父さん」と叫んだ。
 お父さんは隙を狙って男の人を家から追い出すと、鍵を閉めてからチェーンをかけ、扉に背中をつけて息を吐き出した。そして、ふらふらと玄関に向い、タオルで傷口を抑えながら受話器を耳に当てた。
 「……はい、そうです、住所は……」
 外からドアノブを動かそうとする音と男の人の声が未だに聞こえ、動悸が治らない。
 私のせいでお父さんが……早く、救急箱を……
 「翔子」
 お父さんは目の前で膝をつくと、私をそっと抱き締めて背中をさすってくれた。
 「怖かったよな、もう大丈夫だよ」
 お父さんからの言葉で、自分がそれまで抱いた感情がなんなのかやっと理解する。男の人に踏み潰された真珠のチャームを握り締めながら、私は泣き声を上げた。
 
 ♪泡沫 翔子
 土屋さんと二人で乗ったタクシーは、運転手さんに目的地を伝えると発進した。
 『人気歌手、Seirenさんの自宅マンションに刃物を持って侵入した男性が……』
 「すみません。ラジオ、止めてもらってもいいですか?」
 土屋さんからそう言われた運転手さんは、黙ってラジオを止めて前を向いた。
 どれだけ風景が移り変わっても、私は自分の膝小僧を見つめていた。
 ━━こういうことが起きるから翔子を芸能界に入れたくなかったんだ。なのにお前は……
 ━━私だけのせいにしないでよ! 一緒に翔子を応援しようって言ったのはあなたじゃない!
 深夜のリビングで言い合いをしていたお父さんとお母さんのことを思い出し、胸が苦しくなる。二人は私には見せないような怖い顔をしていて、何回かテーブルを叩くような音も聞こえた。
 「なんで泡沫の居場所がバレたのか分かったよ」
 「……本当ですか?」 
 「あの日、ファンの子と握手したって言ってただろ?  その子が泡沫と別れた後にすぐ、いつものランニングコースを走ってたらSeirenに会えたってSNSに書き込んだみたいなんだ。しかも、あの公園の写真も一緒に上げてたらしい」
 「それで、住んでる地域が絞られちゃったってことですか……?」
 「そういうこと」
 「でも、そのファンの人と別れてからマンションに帰るまで一時間も経ってないんですよ……」
 「逮捕された男、ちょうどあのマンションの近くに住んでたらしい。日頃からネットに張り付いてSeirenに関する書き込みをチェックしてたから、あのファンの子の書き込みもすぐ見つけられたってさ」
 「そんな……」
 スマホでニュースアプリを開くと、昨日の事件に関する記事が早速上がっていた。
 50件のコメント……?
 『Seirenちゃん可哀想すぎる。犯人は終身刑でいいじゃん』
 『亮平くんたぶらかしてたからいい気味! きもい女にはきもい男がお似合い』
 『そういうのネタだとしても面白くないですよ。あなたの発言は名誉毀損罪に値します』
 『わざわざ会いに行くほど可愛いか?』
 『お前なんかよりSeiren様の方がずっと魅力的だから。友達も恋人もいない低学歴ニートは黙っててください』
 なんなの、このギスギスした空気……
 文字を読んでいくごとにモヤモヤを溜めながら、スクロールしていく。
 『あの女子大生が余計な書き込みしなけりゃこんなことにならなかったんじゃない?』
 『それな。謝りもせずにアカウント消して逃亡とかゴミすぎ』
 『まとめサイトで大学名と一緒に晒されてますね。まあ、事件の元凶だし自業自得でしょう』
 『公園にいたとか本当だとしても書かないで欲しいんだけど。Seiren様が地上にいるわけないじゃん……』
 『ファンの民度は私たちで守るべき! 今回のストーカー男といい、ランニング女といい、Seiren様を陥れるファンはファンとは呼べません!』
 タクシーが急停止し、足元にスマホを落としてしまったものの拾う気にはなれない。
 「……どうして」
 確かに、あの投稿がなければ事件は起こらなかったかもしれないけど……こんなの、イジメと変わらないじゃない。それに、あの人はただ……
 ━━これからもSeiren様のこと応援させていただきます!
 真珠のようにキラキラとしたあの笑顔を思い出し、涙が頬を伝う。
 「……私がいけないんだ」
 「泡沫?」
 ハンカチを目に当てたまま、私はしばらく俯いていた。
 私があの日ランニングに行かなければ、こんなことにはならなかったのに……
 
 次のミーティングを控えた会議室で、私はSeirenのMVを観ていた。
 砂江さんが私のために書いてくれた詞を大事にしようって思って一生懸命歌ったんだよね。最初は緊張したけど、この曲が放つ背徳感に惹き込まれていくうちに自然と声が出るようになって……
 二番から目を開け、スマホの画面の中で妖艶に踊る自分と目を合わせる。
 この時、楽しかったな。自分のアイデアをこんな風に形にしてもらえる……そんな夢みたいなことあっていいのかなって、家に帰ってからお母さんとお父さんに夢中で話したっけ。
 コメント欄をスクロールし、一つ一つ時間をかけて読んでいく。
 『テスト前で憂鬱だったけど、この曲聴いて元気出ました!』
 『AMAZING!!』
 『Seiren様との出会いに感謝……』
 一人一人に心の中でありがとうと呟き、口元が綻ぶ。
 それに、みんながこんなに喜んでくれてる……やっぱり、自分の好きなことで誰かが笑顔になってくれるって、とっても素敵だな……
 Seirenとともに歌を歌いながらコメント欄をスクロールしていた、その時だった。
 『久しぶりにコメ欄見たけど、なんか荒れてんね』
 緩くなっていたホワイトボードのネジが、カランと音をたてて床に落ちる。
 『椎名 亮平のニュースで知ったけど、吐き気がする映像だな。”流血注意” ぐらい書いとけよ……』
 『これ見た途端、同級生に虫食わされた時のこと思い出した。もう少し見る人のこと考えて作った方がいいと思う』
 『文句あるなら見るな。このMVの良さが分からないとか終わってる』
 『よくこんな露出度の高い服着れるね。男ウケいいのも納得』
 『人が着てる服までジロジロ見てるのキモい』
 『ストーカー被害にあったばかりなのに荒らしにまで目つけられるなんてSeiren様も大変だな』
 『評価しただけで荒らし認定とか信者こえ~ww』
 『通報した。二度とコメントするなカス』
 スマホを慌てて裏返しにし、消し跡が滲んだホワイトボードを見つめる。
 もう誰かが喧嘩するところは見たくないのに……
 「待たせちゃってごめんね!」
 会議室に入ってきたのは、次のMVの監督さんだった。立ち上がって挨拶をし、監督さんと向かい合わせで席に着く。
 「次はこんな感じで行こうと思うんだけど……どう?」
 テーブルに広げられたのは、私のアイデアを元に作ってくれたMVの絵コンテと、顔の半分が腐敗したゾンビの男性のデザイン画だった。
 「素敵……素敵です! 今回の曲のイメージにぴったりです……!」
 「ふふっ、翔子ちゃんなら喜んでくれると思ってた!」
 「私、このゾンビ役の人にお姫様抱っことかされてみたいかも……」
 「それいいわね! 暗い世界観におとぎ話のような美しさが加わって良い画が撮れそう!」
 胸ポケットから取り出したボールペンを片手に、絵コンテと笑顔で向き合う監督を見て、ワクワクしていたその時だった。
 ━━吐き気がする映像だな。
 ━━もう少し見る人のこと考えて作った方がいいと思う
 「やっぱり、男の人と触れ合うのは……」
 「え? 急にどうしたの?」
 それまで不思議そうにしていた監督は、急に何かを思い出したかのようにハッとなり、「そうね」と悲しそうに言った。
 「すみません……せっかく提案してくださったのに、わがまま言っちゃって……」
 「いえ、気にしないでちょうだい。私こそ、翔子ちゃんにあんなことがあったばっかりなのに、こんな映像を撮ろうとするなんて無神経だったわ……」
 「あんなこと……」
 それがなんのことか分かった瞬間、つい下唇を噛んだもののすぐに気持ちを切り替えた。
 「たまには、落ち着いた雰囲気のMVもいいんじゃないかなって思ったので、攻めた表現はなるべく抑えたくて……」
 「なるほど……翔子ちゃんがそれで良ければいいけど……」
 「はい、それでお願いします……」

 片目にバイオレットのカラコンを入れたところで、ハンガーにかかった二種類の衣装を鏡越しに見つめる。Seirenのメイクを完成させると、新衣装の黒いロングドレスとオペラグローブで自分の肌を覆い隠した。旧衣装の短いスカートに触れては、これをデザインした時のことを思い出してしまったものの、気持ちを切り替えて銀色のウィッグと眼帯をつけていく。
 準備を終えて向かったのは、廃墟のお城のセットだった。私は音楽に合わせて口を動かしながら階段を降り、カトラリーが並べられたテーブルにそっと手を触れた。
 「はい、カット!」
 「お疲れ様でしたー!」
 ドレスのスカートをつまみ、スタッフさんたちに向かってお辞儀する。ジャケット撮影を行うスタジオに移動するため、土屋さんと二人でエレベーターに乗った。
 「MVの完成、楽しみだな」
 階数表示を見つめる土屋さんに対して、私は頷くことしかできない。エレベーターの鏡に映った自分から目を逸らすと、首元を隠すレースと胸元の大きなリボンに触れた。

 ♪泡沫 翔子
 電気を消した部屋でベッドに寝転がり、枕に顔を突っ伏す。パジャマが濡れてしまわないうちに髪を乾かさなきゃいけないのに、体が動かない。目を閉じても布団を被っても寝付けず、スマホの光を顔に浴びた。
 この前撮ったMV、今日公開されたんだっけ……
 動画サイトで自分のMVを検索し、再生回数と高評価数には目もくれず、すぐさまコメント欄に向かう。
 『前のMVより全然観やすい! これからもこの路線で行くんなら応援するんだけどな~』
 『上から目線乙』
 『え? コメント欄って感想言う場所ですよね?』
 『前と衣装変わった? やっぱり、あの事件あってから肌出すの怖くなっちゃったのかな……』
 『その話題もう出すなよ。はっきり言って迷惑だから』 
 『ごめんなさい……Seien様が心配でつい……』
 『謝る必要ないですよ。この人が頭おかしいだけです』
 『なんで俺が責められなくちゃいけないの? Seiren様のこと考えたらストーカーの話蒸し返す方が悪くね?』
 私はサイトを閉じると、たくさんのアプリが並ぶホーム画面を呆然と眺めた。
 色んな人に受け入れられる映像にすれば、もう誰も喧嘩しないんじゃないか……そんなわずかな希望を抱いてMV撮影に臨んだけど……結局、何も変わらなかった。たかがネットの話だって割り切った方が楽なのかな……
 写真フォルダを開き、中学生時代の友人たちの写真を眺める。写真の中の彼らは『翔子がんばれ!』と書かれた横断幕を掲げており、その背後にはテトラポッドと青い海が映っている。
 みんな、今どうしてるんだろう……
 さらに過去に遡っていくと、軽音楽部の文化祭ライブで歌っていた時の映像が出てきた。血糊まみれのメイド服を着ていた私は、体育館のステージの床を踏み締め、観客たちに歌声をぶつけている。照明の光に負けないぐらい、その歌声は眩しかった。
 
 電車の座席に腰掛け、窓から夕空をぼうっと眺めていた。
 今日はダイチテレビで『ジョイエネ』の収録……大変だけど、頑張らなくちゃ。『ジョイエネ』は生放送のゴールデン番組なんだから、いつも以上に張り切らないと……
 向かいの席に座るのは、パフスリーブの服とロングスカートに身を包んだ女の人だ。彼女はスマホを片手に、隣に座っていた男の人の肩を軽く叩いた。
 「ねぇ、明日の『ジョイエネ』にSeiren出るらしいよ」
 「ええー……俺、あいつ苦手なんだけど」
 二人から目を逸らし、カバンの紐をぎゅっと握る。
 「私も。この前CDのCM流れてて、即チャンネル替えた」
 「あいつ出るとお茶の間凍るよな。Seirenじゃなくて、梨央のステージの方が観たかった」
 「ほんとそれ! 梨央さんの方が歌上手いし、顔も可愛いし。そもそも、他人に作ってもらった曲テキトーに歌ってるだけで、あそこまで持ち上げられるのなんなの?」
 座席からそっと立ち上がり、揺れる車内を歩いていく。額に落ちてきた汗を拭い、隣の車両に繋がる扉に触れた。
 そうだよね、梨央さんの方が歌手としてすごいし、ゴールデンにも向いてるんじゃ……
 「あつ!」
 聞こえてきた甲高い悲鳴と何かが飛び散る音に驚き、慌てて振り返る。
 「せ、せ、Seiren様……ぶ、侮辱した……」
 コーヒーまみれになった女の人の髪を引っ張ったのは、ゴスロリ姿のふくよかな女の子だった。男の人はすぐさま女の子の腕を引き剥がし、彼女に罵声を浴びせている。すると、女の子は足元に転がっていた空のコップに足を滑らせ、派手に転んだ。液晶を通さずに繰り広げられたその光景は、私の心を躊躇なく抉った。
 そして、一部始終をスマホで撮影していた男子高校生は、隣に立つ友人と画面を見ながらニヤニヤしている。
 「いやあ、まさか生で信者見られるとはな」
 「どうする? ネットに上げちゃう?」
 「上げるに決まってんだろ、Seiren警察の反応が楽しみ」
 電車が急停車し、私は鉄の手すりに頭をぶつけてしまった。手すりにしがみついて中腰になっていると、電車のドアが開いた。
 「おいデブ! 逃げんな!」
 駅のホームで男子高校生二人に押さえつけられ、女の子は金切り声を上げた。なんだなんだと集まってくる人々の姿が見えたところで、ドアは閉まり、電車は再び動き出した。
 カバンから取り出したゴミ袋にコップを入れ、床に広がっていたコーヒーをタオルで拭き取っていく。
 やっぱり、私がいるからみんな苦しむのかな。私がテレビに出てまた争いが起きるなら……私はなんのために歌うの……?
 座席にぐったりと座り、動画サイトで梨央さんのMVを再生した。オシャレな喫茶店でエッグベネディクトを美味しそうに頬張る梨央さんの姿が、そこにはあった。
 『1:15辺りの歌詞めっちゃ良いし、りおんが歌うと心に響く!』
 『それめっちゃ分かります……!』
 『ですよね! 共感してもらえて嬉しいです!』
 『ちょー今更ですが、友達に勧められてハマっちゃいました』
 『そのお友達ナイス! 他の曲も素敵なのでぜひ聴いてみてくださいね♪』
 『りーさん沼へようこそ~』
 MVの中の梨央さんは、公園のベンチに座り、笑顔で青空を見上げながらアコースティックギターを弾いている。
 「……いいな」
 電車の窓をいくら見つめても、見えてくるのは高層ビルとタワーマンションだけだった。
 あの時の文化祭で浴びたスポットライトを忘れたい。せめて、次の収録までには……
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