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中編
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♪フミヒラ シロウ
━━ねぇ、書けた?
机の上を歩き始めたのは、一匹の白いアシダカグモだ。そのクモは俺の手の甲に載ると、腕の上を素早く移動し、その長い足で俺の首と耳に触れた。
━━好きよ。
「……嫌だ」
掴み取ったクモをベッドに投げ捨てると、ノートの下にあったハサミを手に取った。ハサミの先で枕の上にいたクモを何度も刺すが、クモはベッドの脚をつたい、扉と床の隙間から外へ逃げていった。
「逃げんな……」
ハサミを持ったまま部屋のドアノブを握ったその時だった。
……逃げてるのは、俺の方じゃねぇか。
壁に貼った絵に、ゆっくりと顔を向ける。画用紙全体を使って描かれた瞳は、大きく開かれ、瞳孔が小さくなっていた。
ハサミを持っていない方の手で自分の髪を触る。細長い指にまとわりついた白髪と蜘蛛の糸を目にした瞬間、股間に強烈な痛みが走った。
「うっ……ああ……」
思わず膝から崩れ落ち、股間の辺りから足にかけて白いズボンがじわじわと赤く染まっていく。汗をダラダラ流しながら、震える手でドアノブを掴んだ。
他の生徒たちにジロジロ見られながら廊下を歩いていたものの、耐えきれずに倒れてしまう。このまま眠りについてしまいたいが、痛みが邪魔して気持ちが落ち着かない。
これで何度目だ……誰か、早く俺を……
その時、海水の匂いと腐敗臭が近づいてきた。顔を上げた先にいたのは、鼻と口に白い泡沫をつけたウタカタ ショウコだ。頭からローファーの先までびっしょり濡れており、肩を軽く押しただけで倒れてしまいそうだ。
俺がフラつきながら立ち上がると、ウタカタ ショウコは眼球をギョロっと動かし、俺が握っていたハサミを見つめた。
ウタカタ ショウコに弱々しく抱き締められ、氷のような冷たさを肌で感じ取ると、彼女は青紫色の唇を動かした。
「……し……て……」
そのか細い声を聞き取った俺は、唾を飲み込んだ。右手でウタカタ ショウコの肩を掴み、左手に持ったハサミを振りかざす。
今度こそ、最後までしっかり演じてみせる……
♪ノダ ホムラ
誰もいない部屋で椅子に座り、図書室で借りてきた『人魚のはらわた』を机の上で開いた。
ページをパラパラとめくっていると、漁師の手を握り、ほろほろと血の涙を流す人魚の挿絵が目に飛び込む。その瞬間、家で観た『ジョイエネ』のライブを急に思い出した。
テレビの向こうにいたSeiren様は、マイクスタンドにしがみついて黒い涙を流していた。激しい生演奏が響き、歌詞が画面に流れていく中、彼女の唇は震えたまま動かない。
涙を拭ったことで彼女の頬が汚れると演奏は終わり、まばらな拍手が聞こえ始めた。
「……本物の怪物だ」
テレビの前で正座していたオレは、『ジョイエネ』の公式ハッシュタグが使われた書き込みを次々とチェックした。しかし、しばらくしてため息がこぼれてしまう。
オレは、Seiren様を賞賛するコメントしか見たくないのに。でも、Sailorたちがアンチを成敗してくれている。そうだよね、Seiren様を貶す奴らは全員痛い目に遭うべきだし、音楽を語る資格なんかない……!
オレはいつの間にか、アンチに立ち向かうSailorの姿を観客として楽しんでいた。それと同時に、チームとなって協力プレーを見せる彼らを羨ましく思っていた。
そんな生前の思い出に耽っていると、扉の向こうから、廊下をバタバタと走る足音や、悲鳴が聞こえてきた。気になって廊下に出ると、慌てて階段を降りていく生徒たちの姿が目に入った。
「くっせ……」
悪臭が広がる廊下には、女子生徒に覆い被さる男子生徒の姿があった。
あの白い髪は……
立ち上がった彼は、鼻から頬にかけてそばかすができた肌をこちらに向けた。その爛々とした目はひどく充血している。彼が自分の口周りについた血を舐めた時、ガタガタの歯が見えた。
「し、シロウくん?! 一体何を……」
シロウくんの元へ駆けつけると、彼のそばで倒れていた女子生徒が誰なのか気づき、胸を締め付けられた。
「な、な、なんてこと……」
Seiren様の右目にはハサミが突き刺さっており、シロウくんがハサミを勢い良く引き抜くと、血が噴き出した。どこからかやってきたアシダカグモが、Seiren様の傷ついた瞼の上を平然と歩き、彼女にうめき声を上げさせる。
ひどい、ひどいよ! この怒りをどこにぶつければ……
ネット上でのSailorたちの勇姿を思い出した瞬間、衝動に駆られてシロウくんをぶん殴った。
”しまった” ……ほんの少しでもそう思ったはずなのに、なぜかオレは、倒れた彼に馬乗りになり、もう一度殴った。
「こんなことして許されると思ってんのか?!」
そのセリフを吐き出した瞬間、自分があのSailorたちの仲間入りを果たせた気がした。そして、法では裁けない悪人たちを惨殺する、あのアポロにやっと近づけた気がした。たくさん食べても鍛えても近づけなかったのに……!
シロウくんはオレの拳を受け止めると、顔をそむけ、尖った一本の歯と一緒にペッと血を吐き出した。
赤くなった自分の拳を見ては、それを勲章のように感じてしまう。
今のオレの姿を見れば、きっとSeiren様は振り向いてくれるはず……!
「どけよ」
オレを押しのけ、すっくと立ち上がったシロウくんに対して、もどかしさを覚える。
なんだよこの終わり方……オレは、シロウくんが泣いて謝るところが見たいんだ……! それでやっと自分の勝利を実感できるのに……!
「逃げないでなんとか言えよ! フミヒラ シロウ!」
ハッとなったシロウくんは、自分の身の回りについた鮮血やSeiren様の姿を目にした瞬間、顔を真っ青にして絶叫した。
「なっ、なんだよこれ……」
シロウくん……?
「助けて……━━」
シロウくんがオレの肩を掴んだその時、彼の舌に切れ目が入った。舌はポトリとシロウくんの足元に落ち、青紫色になっていく。
「あ……ああ……」
シロウくんは、舌の断面から流れ出る血でベトベトになった顎を弱々しく動かし、廊下に倒れた。しばらくの間ビクビクとなり、やがて動かなくなった彼の体から目を逸らす。
生きてたら間違いなくチビってたな……
柵にもたれかかって唖然としていたその時、誰かの足音が近づいてくる。
「なんの騒ぎですか」
後ろに手を組んで立っていたのは、学園長だった。その背後には数人の野次馬らしき生徒たちがいたが、彼らはすぐに顔をしかめてどこかに行ってしまった。
学園長は、何もない顔を動かしてシロウくんとSeiren様の体をじっくり見ると、帽子を取り、その中にシロウくんの舌を入れた。
「が、学園長! シロウくんがSeiren様に怪我を負わせたんです! はっ、早くコイツに罰を……!」
「そんなことより、二人を350室まで運びましょう。ホムラくん、私はシロウくんを運ぶので、君はショウコさんをお願いします」
ショウコさん……Seiren様のことだよね。
「……はい」
学園長は帽子を片手にシロウくんを軽々と担ぐと、そそくさと部屋に向かった。オレもSeiren様を担ぎ、学園長の後をついていく。
学園長が350室の扉の前に立った瞬間、扉が勝手に開き、オレたちは中に入った。
「ここ、勝手に使っていいんですか?」
「350室はシロウくんの部屋なので問題ないです」
シロウくんって確か、今は一人でこの部屋を使ってるんだよね? じゃあ、こっちのベッドは誰も使ってないからいいのかな……
Seiren様の靴を脱がせ、彼女をベッドにそっと寝かせると、シーツはすぐにびしょ濡れになってしまった。
「死体に戻った生徒が己の肉体を傷つけることは珍しくありません」
「そうなんですか?」
「はい。普段から痛みを感じられない分、死体に戻った際にこのような自傷行為に走りやすくなるのでしょう。睡眠不足によって脆くなっている体には、いくらでも傷を入れられますからね」
睡眠不足? Seiren様は睡眠なんかとらないんだよ……
学園長がシロウくんの口を開け、手に持った舌を彼の口の中にわずかに残っていた舌の断面とぴったり合わせる。すると、舌は元通りになり、シロウくんの口は閉ざされた。
「では、私はこれで失礼します」
「あ、ありがとうございました!」
「どういたしまして」
学園長が帽子を被って部屋を後にすると、Seiren様は苦しそうに水を吐き出した。
「Seiren様……!」
その磯臭い水には落ち葉が含まれており、Seiren様は目を閉じたまま喘ぐとやがて息絶えた。
どうしよう……目を覚ますまで見守った方がいいかな……
後ろ向きで椅子に座り、二人の死に顔を眺める。Seiren様の片目は元通りになっていて、ベッドから滴り落ちていた雫も消えていた。
この鼻と口についてる白いやつはまだ消えないのかな……
部屋に充満していた臭いがやっと収まってきたかと思うと、うとうとしてしまい、オレは椅子に座ったまま寝てしまった。
♪ウタカタ ショウコ
目を開け、ベッドから体を起こして周囲を見渡す。すると、向かいのベッドですやすやと眠るフミヒラくんと、椅子ごと床に倒れて眠るノダくんが目に入り、ギョッとした。
私はベッドからそっと降りると、フミヒラくんのベッドに近づいて彼の顔を覗き込んだ。
「母ちゃん……痛いよ……」
うなされてる。可哀想に……
「Seirenさまぁ……オレは、あなたがいないと……」
ノダくんの前で正座し、彼の苦しそうな寝顔を見つめる。
ごめんなさい。私はもう、Seirenには……
ノダくんと『人魚のはらわた』について語っていた、あの心踊るひとときを思い出す。すると突然、彼はパチっと目を覚ました。そして、寝ぼけ眼で私の顔を凝視すると、急に驚いた様子で立ち上がった。
「おっ、お体はもう大丈夫なんですか?!」
私が上目遣いをしながら頷くと、ノダくんは椅子を元に戻してフミヒラくんを睨んだ。
「ひどいですよね……」
……私はそうは思わない。
「もう、コイツには関わらない方が良いですよ」
余計なお世話……
「Seiren様を傷つけるなんて最低です! オレにはわかります、Seiren様がコイツに恐怖を与えたって……」
「私が頼んだの!」
積み重なったイライラに耐えきれず、つい声を張り上げてしまった。
「私は殺されたかったの。何も知らないくせに、フミヒラくんを勝手に悪者扱いしないで」
「そんな……Seiren様、まさかあいつに脅されてるんじゃ……」
「その名前で呼ばないでよ!」
ビクッとしたノダくんを前にして、やっと我に返った。痛くなった喉を押さえ、目に涙を浮かべる。
「ごめんなさい……! 私はただ、あなたと友達でいたかっただけで……!」
私はノダくんとフミヒラくんを残して部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けた。
ついカッとなっちゃった……どうしよう、傷つけちゃったかもしれない……
♪ウタカタ ショウコ
1日経った今でもノダくんのことを忘れられず、私は図書室にいた。
ここにいると、気分が安らぐ。知識と空想の海を泳いでいるみたいで心地良いし、お仕事から解放された今なら全ての本を読破できる自信もある。
そして、今日の私は『紅い果実』という小説にのめり込んでいた。
主人公の ”A”は、表向きは患者たちに救いの手を差し伸べる闇医者だが、裏では女性の肉体をありとあらゆる方法で切り裂き、流れ出る血を美味しそうに飲んでいた。
話は毎回、Aの餌食となる女性たちの視点で進んでいく。そして、凄惨な光景を目の前にしたり、男性に突然襲われたりして、恐怖に慄く彼女たちのリアルな心理描写に驚かされる。
私もこうなれたら良かったのに……
フミヒラくんに襲われたあの日、痛みは感じたけど、恐怖は感じなかった。身も心も冷えきった自分に絶望し、早く楽になりたかったからだ。
今の私は、この『紅い果実』のヒロインには選ばれない。Aが見たい表情を作れないもの……
キリのいいところで一度本を閉じ、表紙を眺める。
屋根裏で見つけた、Seirenの絵と顔の描き方が似ている。フミヒラくんが描いたものだって、ノダくんが教えてくれたっけ……
あの絵を見た時、私はこんな風に見えていたのかと感動し、当時の私は理想の自分になれていたのだと心から安堵できた。だからこそ、もうこの頃には戻れないのだと悲しくなったけど……
その時、本棚の陰に見覚えのある人物を見つけ、私は慌てて椅子から立ち上がった。
「フミヒラくん」
彼を呼び止めた私は、本棚と本棚の間で彼と向き合った。
「この間はごめんなさい。私のせいで学園長に怒られちゃって……」
「怒られたっつーか、注意されただけだろ」
「まあ、そうだけど……」
メスを振りかざすAの姿と、私に向かってハサミを振りかざしたシロウくんの姿が、同時に思い浮かぶ。でも、二人の姿はピッタリとは重ならず、どうしてもズレが生じてしまう。あの日、意識がわずかに残っている中で、私はシロウくんと何度か目が合った。目線の先にいたのは、Aとは対照的に、どこか必死というか、悲しそうな表情を浮かべる彼の姿だった。
「でもさ、なんで俺に頼んだの。そんなに死にたきゃ一人で死んでろよ」
どこかへ行こうとしたシロウくんのブレザーの袖口を引っ張り、彼の足を止める。
「一人で死ぬのは怖い。最期には、誰かにそばにいてほしいの」
「お前、家族いんの?」
「いるけど……」
「だったら、家族のとこに帰ったら? それに、お前って歌手なんだろ? 地上にはお前を求める奴で溢れてる。さっさと卒業試験に受かって、そいつらに慰めてもらいな」
地上のことを考えるだけで震え出した手に、グッと力を込める。
「もう、ファンの人たちが私のことで争ったり、他人を傷つけたりするところは見たくないの……だから、地上には戻りたくない」
「へぇ、愛されてて良かったじゃん」
頬を膨らませた私を見て、シロウくんはやや気まずそうな顔をした。
「でも、あいつは……」
「あいつ?」
「ほら、お前のことが好きな、あのチャラい男。名前なんだっけ」
すぐにピンときた私は、とっさに唇を結んだものの、シラを切ってシロウくんを困らせるのは良くないと思い、やや小さな声であの人の名前を口にした。
「ノダくんのこと?」
「そう、そいつが、お前に救われたって言ってた」
救われた……?
その言葉を聞いた瞬間、シャンデリアの光が私の頬を照らした。
Seirenと出会う前のノダくんに、何があったんだろう。この学園にいる時点で、何かしら事情があるのは分かってはいたけど……。どうして私なのかな。私よりも歌が上手くて、見た目も整っている人はたくさんいるのに……
「ノダ ホムラも、お前にとっちゃその厄介なファンの一人なのか?」
「それは分からない……っていうか、ファンはみんな大切だよ。厄介だなんてそんな……」
「ふーん」
♪ノダ ホムラ
3階の廊下で、オレは柵に寄り掛かりながら大きなため息をついた。
やっぱり、オレにSeiren様を好きになる資格はないよね。辛いけど、これはオレへの罰だ。もう彼女を追いかけるのはやめよう。
そう決心したものの、彼女の言葉でどうしても引っかかる部分がある。
━━私はもう歌えないの!
歌えないってどういうことなんだろう。「歌いたくない」とは違うのかな……
「ノダくん……」
その声に驚いたオレは、まずは左右を確認した。それから恐る恐る振り返ると、Seiren様が立っていた。
「私ね……ノダくんに聞きたいことがあって……」
うわぁ……きっと怒ってるんだ……!
「先日は大変失礼しました!」
「え?!」
「オレ、ノダ ホムラは、これからのSeiren様の幸せを考えた結果、金輪際、あなたと接触しないことを決めました! これまでのご無礼、心よりお詫びいたします!」
「ちょっと、ノダくん……」
「これからも、Seiren様の御武運をお祈りいたします! それでは!」
「私の話を聞いて!」
両腕をガシッと掴まれて強引に体の向きを元に戻されたものの、Seiren様から目を逸らした。
「な、なんでしょうか……」
「敬語、やめて」
「えっと……せいれ……」
━━その名前で呼ばないでよ!
なんで今になって思い出すんだ、オレの馬鹿野郎……
「どうしたの、ウタカタさん」
自分の口から「ウタカタさん」という言葉が出た瞬間、彼女が自分よりもあどけない女の子に見え始めた。
「……さっきね、図書室でシロウくんとお話してたの」
「シロウくんと?! 大丈夫? なにかされて……」
ウタカタさんに睨まれ、自分の口を片手で押さえる。
もうよそう。ウタカタさんとシロウくんの関係について余計な心配をするのは……
「彼がね、ノダくんが前に『自分はSeirenに救われた』って話していたことを教えてくれたの」
急に恥ずかしくなり、髪の毛先を指先でいじってしまう。
「Seirenの何が、あなたの心を救ったの?」
何がって……そんなの……
Seiren様の存在が、教室とリビングの冷たさからオレを守ってくれた日々を思い出し、勝手に口が動く。
「オレ……怖いものが好きなんだ。でも、オレの趣味って学校の人たちにはあんまり分かってもらえなくてさ。唯一分かってくれる両親も、仕事で忙しいからなかなか会えなくて……とにかく、寂しかったんだ」
ウタカタさんは柵を握る手に力を込め、隣に立つオレの顔を見上げた。
「あと、今はないけど、生きてた頃はここにでっけぇ火傷の跡があってね、オレは『燃え盛る悪夢』って映画に出てくるアポロになれたみたいで気に入ってたんだ」
「それって、ジェームズ・フレアーが特殊メイクで出演していた映画?」
「うん! でも、その顔のまま登校したら、あんまり反応が良くなかったんだよね……」
「そうだったの……」
「それで、本当はショックなのに無理して笑ってるとか、変人アピールして目立ちたいだけとか、色々決めつけられたから疲れちゃって……」
オレはそこまで言って、ウタカタさんに対するこれまでの自分の振る舞いを次々と思い出した。
そっか、ウタカタさんもこういう気持ちだったのか。勝手にあれこれ決めつけられたら誰だって嫌だよね。もっと早く気づけば良かったな……
頭が重く感じ、電池が切れたように俯く。
「でも、見てみたいな」
ウタカタさんから一歩引いた次の瞬間、オレの足の震えは止まった。
「ノダくんの……火傷跡」
「……いや、見ない方がいいよ。ウタカタさんに不快な思いをさせたくないし」
「それでも、私は見たいの」
もう少しだけ、その微笑みを見ていたい。そう感じた理由が、自分自身を肯定してもらえて安心しているからなのか、ウタカタさんの優しさに満ちた笑顔に心を奪われているからなのか、自分でもよく分からない。
そうだ、本題に戻さないと……
「そんな時に、Seiren様に出会って……」
オレが再び口を開いたその時、ウタカタさんはオレの元から遠ざかった。
「ウタカタさん……?」
「……ごめんなさい、また今度ね」
こちらを一切振り返らない彼女を不思議に思いつつも、追いかけようとは思わなかった。
ウタカタさん、どうしちゃったんだろう……
俯加減で廊下を歩いていると白髪の生徒とすれ違い、慌てて振り返った。
「シロウくん!」
立ち止まった彼の元へ駆けつけ、やや腰を曲げた。
この前のこと、ちゃんと謝らなきゃ……
「君に話したいことがあるから、ちょっといい?」
「やだ。また殴られるかもしれないし」
ドキッとし、すぐに頭を下げようとしたオレに対して、シロウくんはふっと笑った。
「冗談だよ」
安心したオレは、シロウくんを自分の部屋に入れると扉を閉めた。緊張しながら彼と向き合い、勇気をふり絞って声を出す。
「この間はごめん! 君が一方的にウタカタさんを襲ったんじゃないかと勘違いしてつい……いや、もしそうだったとしても、殴るなんてやりすぎだよね。本当にごめんなさい……!」
両手を膝小僧に当てて頭を下げ、目をぎゅっとつむる。しばらくすると、シロウくんはオレの肩を軽く叩いた。
「あの時、お前が名前を呼んでくれたおかげで正気に戻れた」
思いがけないシロウくんの言葉が、オレの表情を変えた。
「俺のしたことは絶対に許されない。たとえ、相手に望まれた行為だとしてもな。だから、俺は悪で、お前は正義。ウタカタ ショウコを守るため、法を犯した者に罰を与えるため、自分から動いたお前は立派だよ」
鉄格子の窓を眺めながらそう笑ったシロウくんの背中を見て、オレは渋い顔をした。
違う……オレはそんな正しい人間じゃない……!
「あの時……!」
自分のお腹から出た声が、シロウくんを振り向かせた。
「オレが殴ったのは、シロウくんのしたことをSailorとして許しちゃいけないって思ったからなんだ。シロウくんを殴ることで、自分はファンとして正しいことをしたんだぞっていう達成感に浸ろうとして、それで……」
「なに急に……」
「オレは、Seiren様が大事だって言っておきながら、結局は自分のことしか考えてない。だから、今までだって、Seiren様の気持ちよりも自分の気持ちを優先して、あの子を無意識のうちに傷つけてきた……」
「……お前、変わってんな」
一瞬ビクッとなったものの、シロウくんの口にした「変わってる」は、高校の同級生から言われてきた「変わってる」とは一味違く、温かみを感じた。
「そんな話、馬鹿正直にしなくていいんだよ」
「だって……なんか、シロウくんを騙してるみたいで嫌だったんだ。オレは、そんなに良い人間じゃないのにって思ったらつい……」
「お前は俺なんかよりずっと良い奴だよ」
”俺なんか” ……その言葉に少し重みを感じる。
「ノダ ホムラは、ウタカタ ショウコにまた歌手として活動してほしいって思ってんの?」
「もっ、もちろん……!」
「でもあいつ、地上には戻りたくないんだってよ。ファンの奴らが、自分のことで争ったり、誰かを傷つけたりするところは見たくない。確か、そう言ってた」
思い出したのは、Seiren様を擁護するために、敵に罵詈雑言を浴びせるSailorたちの姿だった。かつてのオレは彼らを応援していたのに、今となっては思い出すだけで胸がチクチクする。
ウタカタさんだって人間なんだ。世界中に歌を届ける自分が、世間からどう思われているか、どれほど世間に影響を与えているのか、気にしちゃうのもおかしくない。だけどそのことに囚われすぎて、歌に影響が出たとしたら……
『ジョイエネ』の生放送で見たあの黒い涙が、痛いほど胸に染みていく。
「生きてた頃にネットでよく見たんだ、Seiren様のファンが、気に入らないファンやSeiren様のアンチを攻撃するところを」
「そいつら、なんのためにそんなことしてるわけ?」
「Seiren様を守るため……とか?」
シロウくんはオレの言葉を聞き、鼻で笑った。
「頼まれたわけでもねぇのに、赤の他人のためによくそこまでできるな」
部屋を出て行くシロウくんを見送ると、オレは自分の机に向かった。机の引き出しを開き、そこに隠していたSeiren様の絵を見つめる。屋根裏にあったものを後から拾い、手でシワを伸ばしておいたものだ。
オレにとって、ウタカタさんは赤の他人。生前のオレの心の支えではあったけど、生前のウタカタさんはそんなこと知らないし、知ったところで、大勢いるファンの一人だという認識しかないだろう。
そもそも、オレたちはお互いのことをよく分かってない。オレはまだ、Seiren様としてのあの子とも、ウタカタ ショウコとしてのあの子とも、きちんと向き合えていない気がする。
もう一度、Seiren様の歌を聴きたい。でも、この気持ちを押しつけて、ウタカタさんがまた苦しんだら……
━━私はただ、あなたと友達でいたかっただけで……
「……はっ!」
ウタカタさんが『人魚のはらわた』を胸に抱えて微笑んだことや、今にも泣き出してしまいそうな様子で部屋を飛び出したことを思い出す。
オレはベッドの下に手を伸ばして二つの画鋲を手に取ると、それを使ってSeiren様の絵を壁に貼った。扉が開いて「ただいま」という声が聞こえても、オレはその絵から目を離さなかった。
「ホムラ、お前フミヒラと一緒にこの部屋入っただろ? まさか俺のベッドに座らせたりしてないよな……」
オレはハヤカワくんを押しのけて部屋を飛び出し、彼に呼び止められても廊下を走り続けた。
そうだ……オレも、ウタカタさんと友達でいたい。自分を救ってもらった分、今度はオレが友達としてウタカタさんを救いたい……!
♪ウタカタ ショウコ
誰もいない部屋で、ベッドとベッドの間に立つ。
自分から話しかけたくせに途中で帰っちゃうなんて、私ってば失礼だな。だけど、気づいちゃった。今の私に、ノダくんの話を最後まで聞く勇気がないことに。
「らー……ら……」
無理やりお腹に力を入れたが、どれだけ歌詞を口にしてもレコーディングの時のように情景が思い浮かばない。枕に顔を当てて叫ぼうとしたものの、それでも声が上手く出せず、枕を壁に投げつけた。
━━オレ、ノダ ホムラ! 君は?!
あの日、彼の前で ”ウタカタ ショウコ” と名乗れたことが嬉しくてたまらなかった。だからこそ、私がSeirenだと分かった瞬間、態度を豹変させた彼がとても怖かった。リアルでは私と他愛もない話で笑い合える彼も、ネットでは私への愛を盾に誰かを傷つけているんじゃないかと、つい妄想に走ってしまうこともあった。
部屋を後にし、朽ち果てた階段を降りていく。館内に響く雷鳴に耳を澄ませながら、ロビーに集まる生徒たちの姿を眺めた。
ここは、怪ヶ浜の学校と似ていて落ち着くな。生徒の数が少ないところとか、校舎が古いところとか……
「何あれ、どうしたの?」
生徒たちが指を差した窓を見ると、外の水が大分溜まっていた。今窓を開けたら、間違いなくここが水浸しになる。
「あれ全部、外の排水路が詰まってたせいで流れなかった分の雨水だって」
「なんかヒビ入ってね?」
「そういえばなんかミシミシいってるような……」
次の瞬間、大量の雨水が窓を突き破って勢いよくロビーに入り込んできた。雨水はどんどんロビーに溜まり、暖炉の火も消していく。
生徒たちは悲鳴を上げながら2階に逃げ、中には避難の途中で過呼吸を起こしてしまう子もいた。そんな中、私だけは引き寄せられるようにロビーの中央に向かった。
足に伝わってくる冷たさが、あの日を思い出させる。
♪泡沫 翔子
お父さんが運転してくれる車の後ろの席で、私は少しだけ開いた窓から海を眺めていた。どれだけ波間が煌めいても、私の瞳はその光を受け入れてくれない。
「翔子、良い景色ね」
隣に座るお母さんに対して、私は「うん」と素っ気なく返事した。
カーステレオから流れる海外のバンドの曲を聴き、お母さんは若い頃のお父さんとの思い出話をしてくれた。それを照れ臭そうに聞いていたお父さんは、小さい頃の私が、この曲に合わせて踊りながら歌を歌っていたことを話してくれた。
二人の明るい声に背中を押されて、頑張って歌を口ずさんだものの、私のか細い声はエアコンの風にかき消されてしまう。それでも歌い続けようとしたものの、助手席に入ってくる潮風がボサッとした私の髪をわずかに揺らし、毛先が乾いた口内に侵入した。
「よし、着いたぞ」
お父さんは車のトランクから荷物を下ろし、首にカメラをかけた。しかし、お母さんと二人で空を見上げては不安そうな表情を浮かべている。
「曇ってきてないか?」
「やだ、天気予報が外れちゃったのかしら」
駐車場から公園に向かう途中で、私はお父さんとお母さんの間に立って二人の手を握った。こうして手を握っていないと、足がもたついて前に倒れてしまいそうだった。
「あらあら、もう高校生なのにね」
「翔子はまだまだ甘えん坊だな」
そう言いつつも、お父さんとお母さんは私の手を優しく握り返してくれた。
「ごめんね。誕生日でもないのに、怪ヶ浜に行きたいなんて急にわがまま言って……」
「何言ってるのよー、翔子が行きたいところはどこだって行きたいわ」
「翔子は今まで本当に本当に頑張ったからな。今日ぐらい、羽を伸ばしてもいいだろ」
喧騒とは対照的に、ゆったりと聞こえてくる波の音が私の心を掴んで離さない。
「お手洗い行ってくるよ」
「お母さんも行こうかしら。翔子は平気?」
「平気……」
「じゃあ、この荷物預かってもらってもいい?」
私がみんなのお弁当が入ったトートバッグを受け取ると、二人は男性用と女性用に別れて公園のトイレに入っていった。
海辺に一人で向かい、片目を覆い隠していた長い髪を耳にかける。
懐かしいな。放課後に、中学校のみんなで釣りに行ったっけ。なかなか釣れなくて諦めようとしたら、カサゴが釣れてびっくりしたんだよね……
「うわぁ、こっから見てもすごいな! 海見ているとSeiren様思い出すよ」
肩からバッグを落としても、私は動けなかった。目線の先では、二人の男性がソフトクリームを食べながら話している。
「あの子ってさ、今すごい人気なんだね。この間なんか、ファンが家にまで押しかけて警察沙汰になったらしいじゃん。マスコミに素顔バラされたばっかなのに大変だね」
「ほんとほんと! しかも、あの事件でマンション住まいってバレちゃってイメージガタ落ち……あの人間味のない感じが素敵だったのにな」
バッグを置き去りにしたままとぼとぼと歩き出し、売店や屋根付きベンチを目の当たりにする。
『Seiren様が歌えなくなったのはテメェらのせい』
声が聞こえた気がして振り返ると、観光客たちが砂でお城を作ったり貝殻を拾ったりしていた。
あれ……?
『こんなことで離れる奴は二度とファンを名乗るな』
『Seiren様しか勝たん! 他の出演者なんかより出番増やした方が絶対いいって』
『馬鹿にした奴は全員地獄に落ちろ』
あの生放送の後にネットで見たファンたちの言葉が、観光客たちの口から出ているように感じてしまう。彼らの笑顔が歪んで見え、誰かを嘲笑っているように思えてきた。
『プロ失格とか言ったの誰? 家に火つけてやりたい』
『人気に嫉妬して粗探ししとかきしょい。Seiren様に呪われちゃえばいいのに』
頭から離れない騒ぎ声から逃げるように、公園を抜け出す。すれ違い様に人とぶつかっても、すぐに起き上がって走り続けた。
「はあ……はあ……」
やがて、誰もいない橋にたどり着いた。橋の下に広がる海を眺めても、あの液晶を通して自分の目と心に走った痛みは忘れられない。
もうどうしたらいいのか分からない。私がもっとちゃんとすれば、みんなお互いを傷つけ合わなくて済むのかな、きっとそうだよね……
そう心から信じて自分を安心させたいのに、これっぽっちも自信が湧いてこない。
いつになったら、歌手のお仕事を心から楽しんでいる姿をお父さんとお母さんに見せられるんだろう。わざわざ怪ヶ浜から引っ越したのに子供がこんなんじゃ、二人とも疲れちゃうよね……
大量の雨粒を受けて激しくなる海の音が、ファンの温かい歓声に聞こえてくる。私の歌を聴いて、笑顔になってくれる人たちの……
橋の欄干に身を乗り出し、海に向かって手を伸ばす。次の瞬間、海面にいたシギたちが一斉に飛び立った。
♪ウタカタ ショウコ
「ウタカタさん!」
メガホンでも使っているのかと思うほど大きな声によって、現実に引き戻された。ジャバジャバと雨水がかき乱れる音は私に近づき、しばらくして止まった。
「早く避難しなくちゃ。どうしてこんなところに……━━」
「私がどこにいようが、ノダくんには関係ないでしょ」
ノダくんに背を向けたまま高圧的に言ったものの、雨水はさらさらと流れ続けている。
「オレ……やっぱり、Seiren様が好きだ!」
ドキッとし、つい振り返りたくなってしまったがグッと堪える。
「Seiren様があのグロテスクな世界を目一杯見せてくれるおかげで、オレみたいな変わり者が生きててもいいんだって、心から安心できたんだよ! Seiren様のあの素晴らしい歌を聴くだけで、嫌いだった学校にもちゃんと通えるようになったし、大好きな家族がそばにいなくても、寂しくなかったんだ……」
背中に受けた言葉が、じわじわと胸に響いてくる。ぐちゃぐちゃになっていた頭の中に、一筋の光が差し込んだ気がした。みんなに受け入れてもらうにはどうすればいいのか必死に考えて、好きなことを我慢して、それでも上手くいかなくて、何もかも投げ出したくなっていた自分を、やっと許せるようになった。
公園で握手をしたファンの人や、ネットでもらった温かい声援をやっと思い出し、なぜそれを今まで忘れていたのだろうと自分を叱りたくなる。
「だから……Seiren様が亡くなったって聞いたとき、すげぇショックだった。でも……今思えばそれは、オレがSeiren様の死を心から悲しんでるんじゃなくて、自分がまた独りになるのが不安で不安で仕方なかったからなんだと思う」
正直な人……そう思った私は、つい笑いそうになった。
「でも、今は違う。ウタカタさんが、みんなの笑顔が見たいからこそ、地上の争いを見ては心を痛めて、それでもステージに立ち続けて、大好きな歌を歌えなくなったことを知って……その……」
思わずハッとなり、ノダくんの方に体を向けた。足を動かした衝撃で、水面が大きく揺れる。
「どうしてそれを」と聞こうとしたその時、ノダくんは床に膝をついて、腰の辺りまで雨水に浸かった。俯く彼の顔を覗き込むと、悔し涙を堪えているようだった。
「ノダくん、大丈夫……?」
「……一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
「ウタカタさんは、歌が好き?」
私はノダくんの目を見て頷き、はっきりと「大好きだよ」と言った。すると、彼は顔をしわくちゃにした。
「やっぱり、悲しいよ……大好きなことが急にできなくなったり、やりづらくなったりするなんて……そんなの……」
声を震わせるノダくんの瞳を見て、さっきまで心地よく感じていたはずの雨水がやけに冷たく感じ始める。
「オレも、色々あって、楽器を弾くのも怖い映画見るのも嫌になっちゃったから、ウタカタさんも同じ気持ちだったのかもしれないって思ってさ。それに、ウタカタさんはオレなんかよりもずっと音楽にかける想いが強いだろうし、だからこそ、歌えなくなった時に失うものも大きかったんじゃないかって……」
「でも……私は与えられた歌をただ歌ってきただけだし、あのMVも衣装も、他の人が作ったもので……」
「確かに、たくさんの人の支えがあったからこそ、Seiren様はステージに立てた。でも、ただ歌っただけじゃあここまでオレたちの胸には響いてこない。Seiren様は、他の誰でもなく、ウタカタさんにしか演じられないんだ……」
私とノダくんの間にあった厚い壁が、だんだん薄くなっていくような気持ちになる。私の話を聞かずフミヒラくんを敵視していたあの彼とは思えない。
「どうして……Seirenじゃなくて、ウタカタ ショウコとしての私と向き合うようになってくれたの……?」
「オレ……ウタカタさんと友達になりたいんだ。今までのオレは、ウタカタさんをSeiren様として必要以上に意識して自分の理想を押しつけちゃうこともあったけど……今は、君が辛い時には話をしっかり聞いて、その気持ちに寄り添いたい。それが、とっ、友達にできること……だから……」
急に言葉を詰まらせたノダくんを見て、とうとう我慢できなくなる。その大きな手を迷わず取り、彼を立たせた。
私だって、あなたと友達になりたい……友達には笑ってほしいの……
目を閉じて、胸に浮かんだフレーズを口にしていく。最初は迷いのあった声も、ノダくんの驚いた表情を目にした瞬間、だんだん真っ直ぐになっていった。
自然と大きくなっていた声をシャンデリアに向かって響かせ、生徒たちからの注目を集める。少し胸騒ぎがしたものの、ここは地上とは違うと自分に言い聞かせて、サビに突入した。
脚から冷たさを追い払うつもりで声を出すと、ロビーに溜まっていた雨水の流れが嵐のように激しくなった。ノダくんが好きだと言ってくれた世界を構成する詩を、一つ一つ大切にして歌い上げる。
「ラー、ララ……」
声をフェードアウトさせていくうちに、それまで険しくなっていた自分の顔は元に戻り、水流も穏やかになった。
「Seiren様……だ……」
窮屈な生活の中でSeirenと出会った時のノダくんも、こんな風に笑ってくれたのかな……
━━生きてた頃はここにでっけぇ火傷の跡があってね
ノダくんのおでこから左頬をそっと撫で、肌に雨水を染み込ませていく。すると、彼の肌が赤くただれ始めた。最初は思わず目を見開いたものの、すぐにその火傷跡に惹き込まれる。
「素敵……」
ノダくんは左頬を自分の手で触り、その感触にあっと驚くと、その手で肌を覆い隠した。しかし、ノダくんの手に私が手を重ねると、彼は火傷跡を見せてくれた。
「きゃっ!」
「ウタカタさん!」
ついバランスを崩して背中から倒れしまい、ノダくんが私の手を掴んだ。しかし、少しだけタイミングが遅く、二人で雨水の中に飛び込んでしまう。
すぐさま起きあがろうとしたものの体が動かない。制服を通して肌と水が触れ合うと、最期に味わったあの息苦しさや、あと少しで誰にも会えなくなる恐怖を鮮明に思い出し、息が荒くなる。
「大丈夫?!」
ノダくんの声を聞いて、意識がはっきりする。顔を上げると、彼は私を軽々とお姫様抱っこし、目を合わせて微笑んでくれた。ノダくんのがっしりとした首に両腕で抱きつき、顔と顔の距離が近くなる。
「ウタカタさんって、軽いよね」
「でも……デビューの時より体重増えちゃったから痩せなきゃ……」
「うそ、全然分かんなかった! 食生活とか運動とか、色々気を遣ってるの?」
「一応……」
「へぇ、偉いな~!」
難なく前に進んでいくノダくんをたくましく思い、脚と背中に触れる彼の手からは温もりを感じた。ノダくんが歩く度に聞こえる水をかき混ぜるような音が、耳に心地よく響く。
「スタッフさんたちが頑張ってくれてるだけじゃなくて、ウタカタさんが外見に普段から気を配ってるから、MVのクオリティも毎回安定してるのかな~」
その話を聞いて照れ臭さから耳がピリピリし、目をつむってしまう。
「あ!」
私の足から脱げてしまったローファーが、水面に浮かぶ。ノダくんがあたふたしていると、シロウくんが私のローファーを拾ってくれた。
「助かった~、ありがとう!」
「お前ら何やってんだよ。ずぶ濡れじゃねぇか」
シロウくんと楽しげに話すノダくんを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
二人とも、仲良くなれたのかな……
柵に手をかけ、各階から私たちを見下ろす生徒たちが目に入る。しかし、次第にまぶたが重くなり、私は目を閉じた。
私……歌えたんだ……
芽生えた温かい気持ちは冷えた体さえも包み込み、私は安心感から眠りについてしまった。
♪ノダ ホムラ
屋根裏部屋で、オレとショウコちゃんは向かい合わせでダンボールの箱に腰をかけていた。彼女の歌に合わせてアコースティックギターを弾くだけで時間がどんどん溶けていく。
何度もCDで聴いて、何度も家で練習したSeiren様の曲。それなのに、いざこうやって合わせるとなかなか難しい。だけど、試行錯誤しながら弾くのは楽しかった。
自分の演奏と ”Youth” のメンバーたちの演奏が合わさった瞬間に覚えた、あの感動をふと思い出す。当時は、このメンバーで高校生活を彩っていくのだと期待に胸を膨らませていた。オレがバンドを辞める頃には、代わりならいくらでもいるって言われちゃったけどね。
……でも、ショウコちゃんとならこの感動をいつまでも分かち合える気がしていた。
演奏が終わり、普段の優しい表情に戻ったショウコちゃんは、膝に乗ってきた黒猫に微笑んだ。
「ショウコちゃんの歌、やっぱり何度聞いても最高だな~! これでご飯三杯はいけちゃうよ」
「褒めすぎだよ。私の方こそ、ホムラくんのかっこいい演奏のおかげで歌いやすかったし、なんだかシビれちゃったな」
「うわぁ、感激! あっ、そういえば『人魚のはらわた』の原作を図書室で借りて読んだんだよ! エミリアのイメージが映画と全然違くてびっくりしちゃった。あのラストの後に後日談があるのも予想外だったし、あれがあるのとないとでハッピーエンドかバッドエンドか解釈が変わっちゃいそうだなって思ったけど、どうなんだろう……」
「映画は、あの二人が海辺でお別れするシーンで終わっちゃうの?」
「オレの記憶だとそうなんだよね。卒業試験に受かったら、ショウコちゃんにも映画の方を観てほしいな」
ショウコちゃんは黒猫の背中を撫でていた手を止め、黒猫を床にそっと下ろしてから膝に両手を載せた。
「私……まだSeirenとして地上に戻れる自信がないんだ」
「そうなの? もうこんなに歌えるのに……」
オレはショウコちゃんの周りで起こった事件やネット上の騒ぎを思い出し、ギターを元の場所に置いた。
「隣、いい?」
「いいよ」
ショウコちゃんがダンボールに座ったまま横に移動し、空いたスペースにオレは腰をかけた。
「そうだよね、怖いよね……」
暗くなったオレの顔を見て、ショウコちゃんは「そういえば」とわざとらしく言った。
「明日から新学期だね」
笑顔を見せてくれたショウコちゃんに対して、気を遣わせてしまったと申し訳なく思いつつ、オレはその話題に乗っかった。
「うん。ハヤカワくん、今頃試験受けてる頃かな」
「私のルームメイトも、卒業試験受けに行っちゃったんだよね」
「っていうことは……明日、オレたちの部屋に新しいルームメイトが来るってこと?! うわぁ、楽しみ……って、言っていいのかな。ここに来るってことはつまり……」
「うーん……でも、この学園で元気を取り戻して、地上の生活に励めるようになれたら嬉しいな」
「そうだね。新入生たちがこの学園で気持ち良く卒業できるように頑張らなくちゃ」
オレたちは黒猫に向かってバイバイと手を振ると、一緒に5階に降りた。廊下を歩く生徒たちは、ギョッとした顔でオレを見ては、こそこそ話をしている。しかし、ショウコちゃんに睨まれると、彼らは慌てて視線を逸らした。彼女からSeiren様の面影を感じる貴重な瞬間だけど、オレは素直に喜べない。
「ショウコちゃん、オレは大丈夫だから気にしないで」
「でも……」
「オレのこと庇ってると、ショウコちゃんまで変な目で見られちゃうかもしれないし」
ショウコちゃんは何か言いたそうにしていたが、諦めてため息をついた。すると、遠くの方でシロウくんが歩いているのが見えた。
「シロウくーん!」
ショウコちゃんと二人で手を振ると、シロウくんはこっちにしぶしぶやってきた。
「あんま大きな声出すなよ」
「いいじゃんそれぐらい~。そういえばさ、雨水でロビーが水浸しになったとき、学園長があとから一瞬で元に戻しちゃったよね! 窓も綺麗になっててさ!」
「あったなそんなこと」
「魔法みたいだったよね。あんなことができるなら、卒業試験を通して生徒たちを生き返らせるのも、お茶の子さいさいなのかも」
「あの学園長、ますます謎だ……気になる……!」
「噂だと、元々この学園で教師やってたらしいぜ。んで、学園長になった途端、あの顔になったんだってよ」
「「そうなの?!」」
ショウコちゃんと二人で驚きつつも、オレたちはシロウくんの後を追って階段を降りた。
2階に降りたショウコちゃんを見送り、シロウくんと二人で3階の廊下を歩いていく。彼は350室の前で止まり、ズボンのポケットに手を入れた。
「シロウくんって、まだ一人部屋なの?」
彼はドアノブに鍵を挿し、音が鳴るまで右に回してから返事をした。
「うん。学園長から何も聞いてないし」
「そうなんだ……」
扉を開け、寂しそうな部屋の中を見た瞬間、オレは「じゃあね」という口の形を慌てて変えた。
「なにかあったら、教えてね」
「……急になに?」
「部屋でずっとひとりだと、色々抱え込んじゃうかもしれないし……」
「ノダって、人の世話焼くの本当に好きだよな」
シロウくんはオレを馬鹿にするように笑うと、部屋に入って扉をバタンと閉めた。
♪ノダ ホムラ
扉をきちんと閉めてから、恐る恐る廊下に出る。すると、数名の生徒がオレの元へ駆け寄った。
「か、鍵本 昴くんがこの部屋にいるって聞いたんですけど、ほ、本当ですか?!」
「えっとお……」
「ノダぁ、鍵本くんに会わせて~」
「俺も! サイン欲しい!」
「あたし、さっきたまたますれ違ったんだけど、テレビで見るよりずっと可愛かったよー」
オレはビクビクしつつも、大きく咳払いをした。
「カギモトくんは、今、この学園に来たばかりですっごく混乱してるんだ! だから、カギモトくんが落ち着いたら、彼の都合が良い日にまた会いに来てね! ね?!」
その場にいた全員が「えー」と声を上げ、ぶつぶつと文句を言い始める。
「申し訳ありませんが、通行の邪魔になりますので速やかに退散してください」
生徒たちは突然現れた学園長に驚き、部屋の前から遠ざかっていく。学園長は一匹のハイイロオオカミを連れ、堂々と廊下を歩いていった。
かっこいいオオカミ! だけど、あんなのいたっけ……
廊下がやっと静かになると、オレは部屋に戻って扉の鍵を閉めた。
「あ、あの……」
背筋を伸ばし、足を揃えてベッドに座っていたカギモト スバルくんは、その憂いのある表情をこちらに向けた。
「ごめんね! 入学早々、騒がしくて……」
「こちらこそ、取り乱しちゃってごめんなさい」
「いや、君は仕方ないよ! 死んだはずなのにこんな館に連れてこられるなんてヤバいし、オレも最初はすんげぇビビったもん! それに……」
その透き通った二つの瞳をオレがじっと見つめると、カギモトくんは長いまつ毛を動かしてまばたきをした。
「急に目が見えるようになったら、そりゃあびっくりするよね……」
「……はい。喜ばしいことなんですけど、いまいち慣れてなくて、今も変な感じです」
困ったように笑うカギモトくんを見て、男なのにときめきを感じてしまう。
「あの、失礼を承知の上でお聞きするのですが……その顔の火傷は、大丈夫なんですか?」
「これ? 全然平気! 痛くも痒くもないよ!触ってみる?」
「いいんですか?」
冗談のつもりで聞いたのに、カギモトくんから思わぬリアクションが来て少し驚く。
「いや、無理に触らなくても……」
カギモトくんの冷たくもしっとりとした指が、オレの左頬に躊躇なく触れた。この指でピアノを弾いていたのかと思うと、つい緊張してしまう。
「なんか……面白いですね」
少年のように笑ったカギモトくんを見て、オレもつられて笑ってしまった。
「面白いって言われたのは初めてだな~」
「そうなんですか?」
「うん! そう言ってもらえて嬉しい!」
♪ウタカタ ショウコ
机の椅子に座っていた私は、ベッドに腰を掛ける新しいルームメイト……ミナト イブキちゃんの方に体を向けた。
「その卒業試験に受かれば、私は本当に帰れるんですか……?」
「そう。試験を受けるだけで生き返られるなんておとぎ話みたいだけど、それしか地上に戻る方法はないみたい」
「……やっぱり、信じられません。自分が本当に死んだのかすらあやふやだし……」
イブキちゃんは小さな声でそう言い、私と目を合わせようとしなかった。
そうだよね、まだ受け入れるまでには時間がかかるよね……
「そうだ! 今から学校案内しようか?」
「こっ、この学校を? でも、何が出てくるか分からないし、今はまだ……」
それまで不安そうにしていたイブキちゃんは、何かを思い出したかのように一度口を閉じると、背筋を伸ばしてベッドから立ち上がった。
「やっぱり、お願いします」
「いっ、いいの? 平気?」
「平気です。早くこの学園に慣れて、その卒業試験にも合格できるようにしなくては……」
気が早いなぁ……そんなに焦らなくてもいいのに……
先に扉を開けて部屋を出たイブキちゃんを追い、二人で廊下を歩いていく。しかし、彼女は向こうからお喋りしながらやって来た男女の集団を目にすると、足を止め、壁に背中をつけて俯いた。そして、彼らが目の前を通り過ぎるまで息を殺していた。
「どうしたの?」
「な、なんでもないです……」
そう言いつつも、怯えた表情を隠しきれないイブキちゃんを見て、私は彼女の手を引いた。
「ごめん! やっぱり、学校案内はまた明日にしようか。就寝時間まであと一時間もないし」
私に握られたイブキちゃんの手は全体的に固く、彼女は握り返そうとしなかった。
部屋に戻り、机の下についた三つの引き出しのうちの一つを開く。そして、イブキちゃんに寝巻きを手渡した。
「あの……少しだけ、そっち見ててもらってもいいですか」
そっか、女の子同士でも、見られながら着替えるのは恥ずかしいよね……
イブキちゃんと背中合わせになり、彼女の肌と制服のブラウスが擦れる音を耳にする。
「……あれ」
「どうしたの……?」
「いや、なんでもないです……」
イブキちゃんは寝巻きに着替えた後、自分の左手首をさすっては怪訝そうな顔をしていた。
♪ノダ ホムラ
新しいルームメイトと迎えた最初の朝。
オレの隣を歩くカギモトくんは、華奢な上に男子にしては背も低めだから、なんだか弟ができたみたいな気分になれた。正直に言うと、こんなに容姿も所作も完璧な子を弟にするのはちょっと気が引ける。ただでさえどうしようもないオレにカギモトくんみたいな弟ができちゃったら、ますます劣等感に浸ってしまいそうだ。
「言うの忘れてたけど、オレにはタメ口で全然いいよ」
「でも、ノダさんは僕より年上ですよね?」
「一個しか違わないじゃん。あと、そんなにかしこまらなくていいし」
「……そっか。じゃあ、これからはそうするね」
二人で笑い合っていると、「ホムラくん」と呼ばれて振り返った。
「ショウコちゃん! 今ね、カギモトくんに学校案内してたんだ」
「私もイブキちゃんに学校案内してたところ」
ショウコちゃんはスバルくんの前で丁寧に自己紹介をすると、彼と笑顔で握手をした。そんな彼女の背後に隠れているのは、キリッとした眉が特徴的な長身の女の子だ。
「みっ、ミナト イブキです。よろしくお願いします……」
ミナトさんから発せられた声は舞台俳優のように通っていて、かっこよかった。
「オレ、ノダ ホムラ! よろしくね!」
「カギモト スバルです」
カギモトくんに手を差し出され、ミナトさんは緊張した様子で彼と握手すると、すぐにその手を胸に当ててオレらから顔を背けた。
「だあれ、あの子?」
「うわ、でっか」
「ちょっと、聞こえるよ……」
ミナトさんを見てニヤニヤする生徒たちを見たオレは、すぐさま彼女の隣に立ち、頭の上に手を当てた。
「なんだ、オレの方が背高いじゃん!」
驚いたミナトさんは、逃げるようにオレから離れた。
「お気遣いなら結構です……」
「本当のこと言っただけだよー」
「ミナト イブキって……もしかして、あの湊 大樹さんの娘さん?!」
ミナトさんは血の気が引いたような表情を浮かべ、カギモトくんから目を背けた。
「僕、一回だけ大樹さん……あなたのお父さんとお会いしたことがあるんです。その時、あなたの話も少しだけ聞かせてもらってて……」
「……父がお世話になりました」
「いえいえ! イブキさんも、お父さん譲りの凛々しさがあって素敵ですね」
ミナトさんはその話を笑いながら聞いていたものの、眉が下がったままで、わずかに聞こえる笑い声からは元気が感じられなかった。
「大樹さんって誰?」
「湊 大樹っていうバイオリニスト。音楽番組によく出てて、海外でコンサートもやってるすごい人だよ」
「へぇ、初めて知った……!」
オレがショウコちゃんと小声で話している間、カギモトくんは不安そうにミナトさんを見つめていた。
━━ねぇ、書けた?
机の上を歩き始めたのは、一匹の白いアシダカグモだ。そのクモは俺の手の甲に載ると、腕の上を素早く移動し、その長い足で俺の首と耳に触れた。
━━好きよ。
「……嫌だ」
掴み取ったクモをベッドに投げ捨てると、ノートの下にあったハサミを手に取った。ハサミの先で枕の上にいたクモを何度も刺すが、クモはベッドの脚をつたい、扉と床の隙間から外へ逃げていった。
「逃げんな……」
ハサミを持ったまま部屋のドアノブを握ったその時だった。
……逃げてるのは、俺の方じゃねぇか。
壁に貼った絵に、ゆっくりと顔を向ける。画用紙全体を使って描かれた瞳は、大きく開かれ、瞳孔が小さくなっていた。
ハサミを持っていない方の手で自分の髪を触る。細長い指にまとわりついた白髪と蜘蛛の糸を目にした瞬間、股間に強烈な痛みが走った。
「うっ……ああ……」
思わず膝から崩れ落ち、股間の辺りから足にかけて白いズボンがじわじわと赤く染まっていく。汗をダラダラ流しながら、震える手でドアノブを掴んだ。
他の生徒たちにジロジロ見られながら廊下を歩いていたものの、耐えきれずに倒れてしまう。このまま眠りについてしまいたいが、痛みが邪魔して気持ちが落ち着かない。
これで何度目だ……誰か、早く俺を……
その時、海水の匂いと腐敗臭が近づいてきた。顔を上げた先にいたのは、鼻と口に白い泡沫をつけたウタカタ ショウコだ。頭からローファーの先までびっしょり濡れており、肩を軽く押しただけで倒れてしまいそうだ。
俺がフラつきながら立ち上がると、ウタカタ ショウコは眼球をギョロっと動かし、俺が握っていたハサミを見つめた。
ウタカタ ショウコに弱々しく抱き締められ、氷のような冷たさを肌で感じ取ると、彼女は青紫色の唇を動かした。
「……し……て……」
そのか細い声を聞き取った俺は、唾を飲み込んだ。右手でウタカタ ショウコの肩を掴み、左手に持ったハサミを振りかざす。
今度こそ、最後までしっかり演じてみせる……
♪ノダ ホムラ
誰もいない部屋で椅子に座り、図書室で借りてきた『人魚のはらわた』を机の上で開いた。
ページをパラパラとめくっていると、漁師の手を握り、ほろほろと血の涙を流す人魚の挿絵が目に飛び込む。その瞬間、家で観た『ジョイエネ』のライブを急に思い出した。
テレビの向こうにいたSeiren様は、マイクスタンドにしがみついて黒い涙を流していた。激しい生演奏が響き、歌詞が画面に流れていく中、彼女の唇は震えたまま動かない。
涙を拭ったことで彼女の頬が汚れると演奏は終わり、まばらな拍手が聞こえ始めた。
「……本物の怪物だ」
テレビの前で正座していたオレは、『ジョイエネ』の公式ハッシュタグが使われた書き込みを次々とチェックした。しかし、しばらくしてため息がこぼれてしまう。
オレは、Seiren様を賞賛するコメントしか見たくないのに。でも、Sailorたちがアンチを成敗してくれている。そうだよね、Seiren様を貶す奴らは全員痛い目に遭うべきだし、音楽を語る資格なんかない……!
オレはいつの間にか、アンチに立ち向かうSailorの姿を観客として楽しんでいた。それと同時に、チームとなって協力プレーを見せる彼らを羨ましく思っていた。
そんな生前の思い出に耽っていると、扉の向こうから、廊下をバタバタと走る足音や、悲鳴が聞こえてきた。気になって廊下に出ると、慌てて階段を降りていく生徒たちの姿が目に入った。
「くっせ……」
悪臭が広がる廊下には、女子生徒に覆い被さる男子生徒の姿があった。
あの白い髪は……
立ち上がった彼は、鼻から頬にかけてそばかすができた肌をこちらに向けた。その爛々とした目はひどく充血している。彼が自分の口周りについた血を舐めた時、ガタガタの歯が見えた。
「し、シロウくん?! 一体何を……」
シロウくんの元へ駆けつけると、彼のそばで倒れていた女子生徒が誰なのか気づき、胸を締め付けられた。
「な、な、なんてこと……」
Seiren様の右目にはハサミが突き刺さっており、シロウくんがハサミを勢い良く引き抜くと、血が噴き出した。どこからかやってきたアシダカグモが、Seiren様の傷ついた瞼の上を平然と歩き、彼女にうめき声を上げさせる。
ひどい、ひどいよ! この怒りをどこにぶつければ……
ネット上でのSailorたちの勇姿を思い出した瞬間、衝動に駆られてシロウくんをぶん殴った。
”しまった” ……ほんの少しでもそう思ったはずなのに、なぜかオレは、倒れた彼に馬乗りになり、もう一度殴った。
「こんなことして許されると思ってんのか?!」
そのセリフを吐き出した瞬間、自分があのSailorたちの仲間入りを果たせた気がした。そして、法では裁けない悪人たちを惨殺する、あのアポロにやっと近づけた気がした。たくさん食べても鍛えても近づけなかったのに……!
シロウくんはオレの拳を受け止めると、顔をそむけ、尖った一本の歯と一緒にペッと血を吐き出した。
赤くなった自分の拳を見ては、それを勲章のように感じてしまう。
今のオレの姿を見れば、きっとSeiren様は振り向いてくれるはず……!
「どけよ」
オレを押しのけ、すっくと立ち上がったシロウくんに対して、もどかしさを覚える。
なんだよこの終わり方……オレは、シロウくんが泣いて謝るところが見たいんだ……! それでやっと自分の勝利を実感できるのに……!
「逃げないでなんとか言えよ! フミヒラ シロウ!」
ハッとなったシロウくんは、自分の身の回りについた鮮血やSeiren様の姿を目にした瞬間、顔を真っ青にして絶叫した。
「なっ、なんだよこれ……」
シロウくん……?
「助けて……━━」
シロウくんがオレの肩を掴んだその時、彼の舌に切れ目が入った。舌はポトリとシロウくんの足元に落ち、青紫色になっていく。
「あ……ああ……」
シロウくんは、舌の断面から流れ出る血でベトベトになった顎を弱々しく動かし、廊下に倒れた。しばらくの間ビクビクとなり、やがて動かなくなった彼の体から目を逸らす。
生きてたら間違いなくチビってたな……
柵にもたれかかって唖然としていたその時、誰かの足音が近づいてくる。
「なんの騒ぎですか」
後ろに手を組んで立っていたのは、学園長だった。その背後には数人の野次馬らしき生徒たちがいたが、彼らはすぐに顔をしかめてどこかに行ってしまった。
学園長は、何もない顔を動かしてシロウくんとSeiren様の体をじっくり見ると、帽子を取り、その中にシロウくんの舌を入れた。
「が、学園長! シロウくんがSeiren様に怪我を負わせたんです! はっ、早くコイツに罰を……!」
「そんなことより、二人を350室まで運びましょう。ホムラくん、私はシロウくんを運ぶので、君はショウコさんをお願いします」
ショウコさん……Seiren様のことだよね。
「……はい」
学園長は帽子を片手にシロウくんを軽々と担ぐと、そそくさと部屋に向かった。オレもSeiren様を担ぎ、学園長の後をついていく。
学園長が350室の扉の前に立った瞬間、扉が勝手に開き、オレたちは中に入った。
「ここ、勝手に使っていいんですか?」
「350室はシロウくんの部屋なので問題ないです」
シロウくんって確か、今は一人でこの部屋を使ってるんだよね? じゃあ、こっちのベッドは誰も使ってないからいいのかな……
Seiren様の靴を脱がせ、彼女をベッドにそっと寝かせると、シーツはすぐにびしょ濡れになってしまった。
「死体に戻った生徒が己の肉体を傷つけることは珍しくありません」
「そうなんですか?」
「はい。普段から痛みを感じられない分、死体に戻った際にこのような自傷行為に走りやすくなるのでしょう。睡眠不足によって脆くなっている体には、いくらでも傷を入れられますからね」
睡眠不足? Seiren様は睡眠なんかとらないんだよ……
学園長がシロウくんの口を開け、手に持った舌を彼の口の中にわずかに残っていた舌の断面とぴったり合わせる。すると、舌は元通りになり、シロウくんの口は閉ざされた。
「では、私はこれで失礼します」
「あ、ありがとうございました!」
「どういたしまして」
学園長が帽子を被って部屋を後にすると、Seiren様は苦しそうに水を吐き出した。
「Seiren様……!」
その磯臭い水には落ち葉が含まれており、Seiren様は目を閉じたまま喘ぐとやがて息絶えた。
どうしよう……目を覚ますまで見守った方がいいかな……
後ろ向きで椅子に座り、二人の死に顔を眺める。Seiren様の片目は元通りになっていて、ベッドから滴り落ちていた雫も消えていた。
この鼻と口についてる白いやつはまだ消えないのかな……
部屋に充満していた臭いがやっと収まってきたかと思うと、うとうとしてしまい、オレは椅子に座ったまま寝てしまった。
♪ウタカタ ショウコ
目を開け、ベッドから体を起こして周囲を見渡す。すると、向かいのベッドですやすやと眠るフミヒラくんと、椅子ごと床に倒れて眠るノダくんが目に入り、ギョッとした。
私はベッドからそっと降りると、フミヒラくんのベッドに近づいて彼の顔を覗き込んだ。
「母ちゃん……痛いよ……」
うなされてる。可哀想に……
「Seirenさまぁ……オレは、あなたがいないと……」
ノダくんの前で正座し、彼の苦しそうな寝顔を見つめる。
ごめんなさい。私はもう、Seirenには……
ノダくんと『人魚のはらわた』について語っていた、あの心踊るひとときを思い出す。すると突然、彼はパチっと目を覚ました。そして、寝ぼけ眼で私の顔を凝視すると、急に驚いた様子で立ち上がった。
「おっ、お体はもう大丈夫なんですか?!」
私が上目遣いをしながら頷くと、ノダくんは椅子を元に戻してフミヒラくんを睨んだ。
「ひどいですよね……」
……私はそうは思わない。
「もう、コイツには関わらない方が良いですよ」
余計なお世話……
「Seiren様を傷つけるなんて最低です! オレにはわかります、Seiren様がコイツに恐怖を与えたって……」
「私が頼んだの!」
積み重なったイライラに耐えきれず、つい声を張り上げてしまった。
「私は殺されたかったの。何も知らないくせに、フミヒラくんを勝手に悪者扱いしないで」
「そんな……Seiren様、まさかあいつに脅されてるんじゃ……」
「その名前で呼ばないでよ!」
ビクッとしたノダくんを前にして、やっと我に返った。痛くなった喉を押さえ、目に涙を浮かべる。
「ごめんなさい……! 私はただ、あなたと友達でいたかっただけで……!」
私はノダくんとフミヒラくんを残して部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けた。
ついカッとなっちゃった……どうしよう、傷つけちゃったかもしれない……
♪ウタカタ ショウコ
1日経った今でもノダくんのことを忘れられず、私は図書室にいた。
ここにいると、気分が安らぐ。知識と空想の海を泳いでいるみたいで心地良いし、お仕事から解放された今なら全ての本を読破できる自信もある。
そして、今日の私は『紅い果実』という小説にのめり込んでいた。
主人公の ”A”は、表向きは患者たちに救いの手を差し伸べる闇医者だが、裏では女性の肉体をありとあらゆる方法で切り裂き、流れ出る血を美味しそうに飲んでいた。
話は毎回、Aの餌食となる女性たちの視点で進んでいく。そして、凄惨な光景を目の前にしたり、男性に突然襲われたりして、恐怖に慄く彼女たちのリアルな心理描写に驚かされる。
私もこうなれたら良かったのに……
フミヒラくんに襲われたあの日、痛みは感じたけど、恐怖は感じなかった。身も心も冷えきった自分に絶望し、早く楽になりたかったからだ。
今の私は、この『紅い果実』のヒロインには選ばれない。Aが見たい表情を作れないもの……
キリのいいところで一度本を閉じ、表紙を眺める。
屋根裏で見つけた、Seirenの絵と顔の描き方が似ている。フミヒラくんが描いたものだって、ノダくんが教えてくれたっけ……
あの絵を見た時、私はこんな風に見えていたのかと感動し、当時の私は理想の自分になれていたのだと心から安堵できた。だからこそ、もうこの頃には戻れないのだと悲しくなったけど……
その時、本棚の陰に見覚えのある人物を見つけ、私は慌てて椅子から立ち上がった。
「フミヒラくん」
彼を呼び止めた私は、本棚と本棚の間で彼と向き合った。
「この間はごめんなさい。私のせいで学園長に怒られちゃって……」
「怒られたっつーか、注意されただけだろ」
「まあ、そうだけど……」
メスを振りかざすAの姿と、私に向かってハサミを振りかざしたシロウくんの姿が、同時に思い浮かぶ。でも、二人の姿はピッタリとは重ならず、どうしてもズレが生じてしまう。あの日、意識がわずかに残っている中で、私はシロウくんと何度か目が合った。目線の先にいたのは、Aとは対照的に、どこか必死というか、悲しそうな表情を浮かべる彼の姿だった。
「でもさ、なんで俺に頼んだの。そんなに死にたきゃ一人で死んでろよ」
どこかへ行こうとしたシロウくんのブレザーの袖口を引っ張り、彼の足を止める。
「一人で死ぬのは怖い。最期には、誰かにそばにいてほしいの」
「お前、家族いんの?」
「いるけど……」
「だったら、家族のとこに帰ったら? それに、お前って歌手なんだろ? 地上にはお前を求める奴で溢れてる。さっさと卒業試験に受かって、そいつらに慰めてもらいな」
地上のことを考えるだけで震え出した手に、グッと力を込める。
「もう、ファンの人たちが私のことで争ったり、他人を傷つけたりするところは見たくないの……だから、地上には戻りたくない」
「へぇ、愛されてて良かったじゃん」
頬を膨らませた私を見て、シロウくんはやや気まずそうな顔をした。
「でも、あいつは……」
「あいつ?」
「ほら、お前のことが好きな、あのチャラい男。名前なんだっけ」
すぐにピンときた私は、とっさに唇を結んだものの、シラを切ってシロウくんを困らせるのは良くないと思い、やや小さな声であの人の名前を口にした。
「ノダくんのこと?」
「そう、そいつが、お前に救われたって言ってた」
救われた……?
その言葉を聞いた瞬間、シャンデリアの光が私の頬を照らした。
Seirenと出会う前のノダくんに、何があったんだろう。この学園にいる時点で、何かしら事情があるのは分かってはいたけど……。どうして私なのかな。私よりも歌が上手くて、見た目も整っている人はたくさんいるのに……
「ノダ ホムラも、お前にとっちゃその厄介なファンの一人なのか?」
「それは分からない……っていうか、ファンはみんな大切だよ。厄介だなんてそんな……」
「ふーん」
♪ノダ ホムラ
3階の廊下で、オレは柵に寄り掛かりながら大きなため息をついた。
やっぱり、オレにSeiren様を好きになる資格はないよね。辛いけど、これはオレへの罰だ。もう彼女を追いかけるのはやめよう。
そう決心したものの、彼女の言葉でどうしても引っかかる部分がある。
━━私はもう歌えないの!
歌えないってどういうことなんだろう。「歌いたくない」とは違うのかな……
「ノダくん……」
その声に驚いたオレは、まずは左右を確認した。それから恐る恐る振り返ると、Seiren様が立っていた。
「私ね……ノダくんに聞きたいことがあって……」
うわぁ……きっと怒ってるんだ……!
「先日は大変失礼しました!」
「え?!」
「オレ、ノダ ホムラは、これからのSeiren様の幸せを考えた結果、金輪際、あなたと接触しないことを決めました! これまでのご無礼、心よりお詫びいたします!」
「ちょっと、ノダくん……」
「これからも、Seiren様の御武運をお祈りいたします! それでは!」
「私の話を聞いて!」
両腕をガシッと掴まれて強引に体の向きを元に戻されたものの、Seiren様から目を逸らした。
「な、なんでしょうか……」
「敬語、やめて」
「えっと……せいれ……」
━━その名前で呼ばないでよ!
なんで今になって思い出すんだ、オレの馬鹿野郎……
「どうしたの、ウタカタさん」
自分の口から「ウタカタさん」という言葉が出た瞬間、彼女が自分よりもあどけない女の子に見え始めた。
「……さっきね、図書室でシロウくんとお話してたの」
「シロウくんと?! 大丈夫? なにかされて……」
ウタカタさんに睨まれ、自分の口を片手で押さえる。
もうよそう。ウタカタさんとシロウくんの関係について余計な心配をするのは……
「彼がね、ノダくんが前に『自分はSeirenに救われた』って話していたことを教えてくれたの」
急に恥ずかしくなり、髪の毛先を指先でいじってしまう。
「Seirenの何が、あなたの心を救ったの?」
何がって……そんなの……
Seiren様の存在が、教室とリビングの冷たさからオレを守ってくれた日々を思い出し、勝手に口が動く。
「オレ……怖いものが好きなんだ。でも、オレの趣味って学校の人たちにはあんまり分かってもらえなくてさ。唯一分かってくれる両親も、仕事で忙しいからなかなか会えなくて……とにかく、寂しかったんだ」
ウタカタさんは柵を握る手に力を込め、隣に立つオレの顔を見上げた。
「あと、今はないけど、生きてた頃はここにでっけぇ火傷の跡があってね、オレは『燃え盛る悪夢』って映画に出てくるアポロになれたみたいで気に入ってたんだ」
「それって、ジェームズ・フレアーが特殊メイクで出演していた映画?」
「うん! でも、その顔のまま登校したら、あんまり反応が良くなかったんだよね……」
「そうだったの……」
「それで、本当はショックなのに無理して笑ってるとか、変人アピールして目立ちたいだけとか、色々決めつけられたから疲れちゃって……」
オレはそこまで言って、ウタカタさんに対するこれまでの自分の振る舞いを次々と思い出した。
そっか、ウタカタさんもこういう気持ちだったのか。勝手にあれこれ決めつけられたら誰だって嫌だよね。もっと早く気づけば良かったな……
頭が重く感じ、電池が切れたように俯く。
「でも、見てみたいな」
ウタカタさんから一歩引いた次の瞬間、オレの足の震えは止まった。
「ノダくんの……火傷跡」
「……いや、見ない方がいいよ。ウタカタさんに不快な思いをさせたくないし」
「それでも、私は見たいの」
もう少しだけ、その微笑みを見ていたい。そう感じた理由が、自分自身を肯定してもらえて安心しているからなのか、ウタカタさんの優しさに満ちた笑顔に心を奪われているからなのか、自分でもよく分からない。
そうだ、本題に戻さないと……
「そんな時に、Seiren様に出会って……」
オレが再び口を開いたその時、ウタカタさんはオレの元から遠ざかった。
「ウタカタさん……?」
「……ごめんなさい、また今度ね」
こちらを一切振り返らない彼女を不思議に思いつつも、追いかけようとは思わなかった。
ウタカタさん、どうしちゃったんだろう……
俯加減で廊下を歩いていると白髪の生徒とすれ違い、慌てて振り返った。
「シロウくん!」
立ち止まった彼の元へ駆けつけ、やや腰を曲げた。
この前のこと、ちゃんと謝らなきゃ……
「君に話したいことがあるから、ちょっといい?」
「やだ。また殴られるかもしれないし」
ドキッとし、すぐに頭を下げようとしたオレに対して、シロウくんはふっと笑った。
「冗談だよ」
安心したオレは、シロウくんを自分の部屋に入れると扉を閉めた。緊張しながら彼と向き合い、勇気をふり絞って声を出す。
「この間はごめん! 君が一方的にウタカタさんを襲ったんじゃないかと勘違いしてつい……いや、もしそうだったとしても、殴るなんてやりすぎだよね。本当にごめんなさい……!」
両手を膝小僧に当てて頭を下げ、目をぎゅっとつむる。しばらくすると、シロウくんはオレの肩を軽く叩いた。
「あの時、お前が名前を呼んでくれたおかげで正気に戻れた」
思いがけないシロウくんの言葉が、オレの表情を変えた。
「俺のしたことは絶対に許されない。たとえ、相手に望まれた行為だとしてもな。だから、俺は悪で、お前は正義。ウタカタ ショウコを守るため、法を犯した者に罰を与えるため、自分から動いたお前は立派だよ」
鉄格子の窓を眺めながらそう笑ったシロウくんの背中を見て、オレは渋い顔をした。
違う……オレはそんな正しい人間じゃない……!
「あの時……!」
自分のお腹から出た声が、シロウくんを振り向かせた。
「オレが殴ったのは、シロウくんのしたことをSailorとして許しちゃいけないって思ったからなんだ。シロウくんを殴ることで、自分はファンとして正しいことをしたんだぞっていう達成感に浸ろうとして、それで……」
「なに急に……」
「オレは、Seiren様が大事だって言っておきながら、結局は自分のことしか考えてない。だから、今までだって、Seiren様の気持ちよりも自分の気持ちを優先して、あの子を無意識のうちに傷つけてきた……」
「……お前、変わってんな」
一瞬ビクッとなったものの、シロウくんの口にした「変わってる」は、高校の同級生から言われてきた「変わってる」とは一味違く、温かみを感じた。
「そんな話、馬鹿正直にしなくていいんだよ」
「だって……なんか、シロウくんを騙してるみたいで嫌だったんだ。オレは、そんなに良い人間じゃないのにって思ったらつい……」
「お前は俺なんかよりずっと良い奴だよ」
”俺なんか” ……その言葉に少し重みを感じる。
「ノダ ホムラは、ウタカタ ショウコにまた歌手として活動してほしいって思ってんの?」
「もっ、もちろん……!」
「でもあいつ、地上には戻りたくないんだってよ。ファンの奴らが、自分のことで争ったり、誰かを傷つけたりするところは見たくない。確か、そう言ってた」
思い出したのは、Seiren様を擁護するために、敵に罵詈雑言を浴びせるSailorたちの姿だった。かつてのオレは彼らを応援していたのに、今となっては思い出すだけで胸がチクチクする。
ウタカタさんだって人間なんだ。世界中に歌を届ける自分が、世間からどう思われているか、どれほど世間に影響を与えているのか、気にしちゃうのもおかしくない。だけどそのことに囚われすぎて、歌に影響が出たとしたら……
『ジョイエネ』の生放送で見たあの黒い涙が、痛いほど胸に染みていく。
「生きてた頃にネットでよく見たんだ、Seiren様のファンが、気に入らないファンやSeiren様のアンチを攻撃するところを」
「そいつら、なんのためにそんなことしてるわけ?」
「Seiren様を守るため……とか?」
シロウくんはオレの言葉を聞き、鼻で笑った。
「頼まれたわけでもねぇのに、赤の他人のためによくそこまでできるな」
部屋を出て行くシロウくんを見送ると、オレは自分の机に向かった。机の引き出しを開き、そこに隠していたSeiren様の絵を見つめる。屋根裏にあったものを後から拾い、手でシワを伸ばしておいたものだ。
オレにとって、ウタカタさんは赤の他人。生前のオレの心の支えではあったけど、生前のウタカタさんはそんなこと知らないし、知ったところで、大勢いるファンの一人だという認識しかないだろう。
そもそも、オレたちはお互いのことをよく分かってない。オレはまだ、Seiren様としてのあの子とも、ウタカタ ショウコとしてのあの子とも、きちんと向き合えていない気がする。
もう一度、Seiren様の歌を聴きたい。でも、この気持ちを押しつけて、ウタカタさんがまた苦しんだら……
━━私はただ、あなたと友達でいたかっただけで……
「……はっ!」
ウタカタさんが『人魚のはらわた』を胸に抱えて微笑んだことや、今にも泣き出してしまいそうな様子で部屋を飛び出したことを思い出す。
オレはベッドの下に手を伸ばして二つの画鋲を手に取ると、それを使ってSeiren様の絵を壁に貼った。扉が開いて「ただいま」という声が聞こえても、オレはその絵から目を離さなかった。
「ホムラ、お前フミヒラと一緒にこの部屋入っただろ? まさか俺のベッドに座らせたりしてないよな……」
オレはハヤカワくんを押しのけて部屋を飛び出し、彼に呼び止められても廊下を走り続けた。
そうだ……オレも、ウタカタさんと友達でいたい。自分を救ってもらった分、今度はオレが友達としてウタカタさんを救いたい……!
♪ウタカタ ショウコ
誰もいない部屋で、ベッドとベッドの間に立つ。
自分から話しかけたくせに途中で帰っちゃうなんて、私ってば失礼だな。だけど、気づいちゃった。今の私に、ノダくんの話を最後まで聞く勇気がないことに。
「らー……ら……」
無理やりお腹に力を入れたが、どれだけ歌詞を口にしてもレコーディングの時のように情景が思い浮かばない。枕に顔を当てて叫ぼうとしたものの、それでも声が上手く出せず、枕を壁に投げつけた。
━━オレ、ノダ ホムラ! 君は?!
あの日、彼の前で ”ウタカタ ショウコ” と名乗れたことが嬉しくてたまらなかった。だからこそ、私がSeirenだと分かった瞬間、態度を豹変させた彼がとても怖かった。リアルでは私と他愛もない話で笑い合える彼も、ネットでは私への愛を盾に誰かを傷つけているんじゃないかと、つい妄想に走ってしまうこともあった。
部屋を後にし、朽ち果てた階段を降りていく。館内に響く雷鳴に耳を澄ませながら、ロビーに集まる生徒たちの姿を眺めた。
ここは、怪ヶ浜の学校と似ていて落ち着くな。生徒の数が少ないところとか、校舎が古いところとか……
「何あれ、どうしたの?」
生徒たちが指を差した窓を見ると、外の水が大分溜まっていた。今窓を開けたら、間違いなくここが水浸しになる。
「あれ全部、外の排水路が詰まってたせいで流れなかった分の雨水だって」
「なんかヒビ入ってね?」
「そういえばなんかミシミシいってるような……」
次の瞬間、大量の雨水が窓を突き破って勢いよくロビーに入り込んできた。雨水はどんどんロビーに溜まり、暖炉の火も消していく。
生徒たちは悲鳴を上げながら2階に逃げ、中には避難の途中で過呼吸を起こしてしまう子もいた。そんな中、私だけは引き寄せられるようにロビーの中央に向かった。
足に伝わってくる冷たさが、あの日を思い出させる。
♪泡沫 翔子
お父さんが運転してくれる車の後ろの席で、私は少しだけ開いた窓から海を眺めていた。どれだけ波間が煌めいても、私の瞳はその光を受け入れてくれない。
「翔子、良い景色ね」
隣に座るお母さんに対して、私は「うん」と素っ気なく返事した。
カーステレオから流れる海外のバンドの曲を聴き、お母さんは若い頃のお父さんとの思い出話をしてくれた。それを照れ臭そうに聞いていたお父さんは、小さい頃の私が、この曲に合わせて踊りながら歌を歌っていたことを話してくれた。
二人の明るい声に背中を押されて、頑張って歌を口ずさんだものの、私のか細い声はエアコンの風にかき消されてしまう。それでも歌い続けようとしたものの、助手席に入ってくる潮風がボサッとした私の髪をわずかに揺らし、毛先が乾いた口内に侵入した。
「よし、着いたぞ」
お父さんは車のトランクから荷物を下ろし、首にカメラをかけた。しかし、お母さんと二人で空を見上げては不安そうな表情を浮かべている。
「曇ってきてないか?」
「やだ、天気予報が外れちゃったのかしら」
駐車場から公園に向かう途中で、私はお父さんとお母さんの間に立って二人の手を握った。こうして手を握っていないと、足がもたついて前に倒れてしまいそうだった。
「あらあら、もう高校生なのにね」
「翔子はまだまだ甘えん坊だな」
そう言いつつも、お父さんとお母さんは私の手を優しく握り返してくれた。
「ごめんね。誕生日でもないのに、怪ヶ浜に行きたいなんて急にわがまま言って……」
「何言ってるのよー、翔子が行きたいところはどこだって行きたいわ」
「翔子は今まで本当に本当に頑張ったからな。今日ぐらい、羽を伸ばしてもいいだろ」
喧騒とは対照的に、ゆったりと聞こえてくる波の音が私の心を掴んで離さない。
「お手洗い行ってくるよ」
「お母さんも行こうかしら。翔子は平気?」
「平気……」
「じゃあ、この荷物預かってもらってもいい?」
私がみんなのお弁当が入ったトートバッグを受け取ると、二人は男性用と女性用に別れて公園のトイレに入っていった。
海辺に一人で向かい、片目を覆い隠していた長い髪を耳にかける。
懐かしいな。放課後に、中学校のみんなで釣りに行ったっけ。なかなか釣れなくて諦めようとしたら、カサゴが釣れてびっくりしたんだよね……
「うわぁ、こっから見てもすごいな! 海見ているとSeiren様思い出すよ」
肩からバッグを落としても、私は動けなかった。目線の先では、二人の男性がソフトクリームを食べながら話している。
「あの子ってさ、今すごい人気なんだね。この間なんか、ファンが家にまで押しかけて警察沙汰になったらしいじゃん。マスコミに素顔バラされたばっかなのに大変だね」
「ほんとほんと! しかも、あの事件でマンション住まいってバレちゃってイメージガタ落ち……あの人間味のない感じが素敵だったのにな」
バッグを置き去りにしたままとぼとぼと歩き出し、売店や屋根付きベンチを目の当たりにする。
『Seiren様が歌えなくなったのはテメェらのせい』
声が聞こえた気がして振り返ると、観光客たちが砂でお城を作ったり貝殻を拾ったりしていた。
あれ……?
『こんなことで離れる奴は二度とファンを名乗るな』
『Seiren様しか勝たん! 他の出演者なんかより出番増やした方が絶対いいって』
『馬鹿にした奴は全員地獄に落ちろ』
あの生放送の後にネットで見たファンたちの言葉が、観光客たちの口から出ているように感じてしまう。彼らの笑顔が歪んで見え、誰かを嘲笑っているように思えてきた。
『プロ失格とか言ったの誰? 家に火つけてやりたい』
『人気に嫉妬して粗探ししとかきしょい。Seiren様に呪われちゃえばいいのに』
頭から離れない騒ぎ声から逃げるように、公園を抜け出す。すれ違い様に人とぶつかっても、すぐに起き上がって走り続けた。
「はあ……はあ……」
やがて、誰もいない橋にたどり着いた。橋の下に広がる海を眺めても、あの液晶を通して自分の目と心に走った痛みは忘れられない。
もうどうしたらいいのか分からない。私がもっとちゃんとすれば、みんなお互いを傷つけ合わなくて済むのかな、きっとそうだよね……
そう心から信じて自分を安心させたいのに、これっぽっちも自信が湧いてこない。
いつになったら、歌手のお仕事を心から楽しんでいる姿をお父さんとお母さんに見せられるんだろう。わざわざ怪ヶ浜から引っ越したのに子供がこんなんじゃ、二人とも疲れちゃうよね……
大量の雨粒を受けて激しくなる海の音が、ファンの温かい歓声に聞こえてくる。私の歌を聴いて、笑顔になってくれる人たちの……
橋の欄干に身を乗り出し、海に向かって手を伸ばす。次の瞬間、海面にいたシギたちが一斉に飛び立った。
♪ウタカタ ショウコ
「ウタカタさん!」
メガホンでも使っているのかと思うほど大きな声によって、現実に引き戻された。ジャバジャバと雨水がかき乱れる音は私に近づき、しばらくして止まった。
「早く避難しなくちゃ。どうしてこんなところに……━━」
「私がどこにいようが、ノダくんには関係ないでしょ」
ノダくんに背を向けたまま高圧的に言ったものの、雨水はさらさらと流れ続けている。
「オレ……やっぱり、Seiren様が好きだ!」
ドキッとし、つい振り返りたくなってしまったがグッと堪える。
「Seiren様があのグロテスクな世界を目一杯見せてくれるおかげで、オレみたいな変わり者が生きててもいいんだって、心から安心できたんだよ! Seiren様のあの素晴らしい歌を聴くだけで、嫌いだった学校にもちゃんと通えるようになったし、大好きな家族がそばにいなくても、寂しくなかったんだ……」
背中に受けた言葉が、じわじわと胸に響いてくる。ぐちゃぐちゃになっていた頭の中に、一筋の光が差し込んだ気がした。みんなに受け入れてもらうにはどうすればいいのか必死に考えて、好きなことを我慢して、それでも上手くいかなくて、何もかも投げ出したくなっていた自分を、やっと許せるようになった。
公園で握手をしたファンの人や、ネットでもらった温かい声援をやっと思い出し、なぜそれを今まで忘れていたのだろうと自分を叱りたくなる。
「だから……Seiren様が亡くなったって聞いたとき、すげぇショックだった。でも……今思えばそれは、オレがSeiren様の死を心から悲しんでるんじゃなくて、自分がまた独りになるのが不安で不安で仕方なかったからなんだと思う」
正直な人……そう思った私は、つい笑いそうになった。
「でも、今は違う。ウタカタさんが、みんなの笑顔が見たいからこそ、地上の争いを見ては心を痛めて、それでもステージに立ち続けて、大好きな歌を歌えなくなったことを知って……その……」
思わずハッとなり、ノダくんの方に体を向けた。足を動かした衝撃で、水面が大きく揺れる。
「どうしてそれを」と聞こうとしたその時、ノダくんは床に膝をついて、腰の辺りまで雨水に浸かった。俯く彼の顔を覗き込むと、悔し涙を堪えているようだった。
「ノダくん、大丈夫……?」
「……一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
「ウタカタさんは、歌が好き?」
私はノダくんの目を見て頷き、はっきりと「大好きだよ」と言った。すると、彼は顔をしわくちゃにした。
「やっぱり、悲しいよ……大好きなことが急にできなくなったり、やりづらくなったりするなんて……そんなの……」
声を震わせるノダくんの瞳を見て、さっきまで心地よく感じていたはずの雨水がやけに冷たく感じ始める。
「オレも、色々あって、楽器を弾くのも怖い映画見るのも嫌になっちゃったから、ウタカタさんも同じ気持ちだったのかもしれないって思ってさ。それに、ウタカタさんはオレなんかよりもずっと音楽にかける想いが強いだろうし、だからこそ、歌えなくなった時に失うものも大きかったんじゃないかって……」
「でも……私は与えられた歌をただ歌ってきただけだし、あのMVも衣装も、他の人が作ったもので……」
「確かに、たくさんの人の支えがあったからこそ、Seiren様はステージに立てた。でも、ただ歌っただけじゃあここまでオレたちの胸には響いてこない。Seiren様は、他の誰でもなく、ウタカタさんにしか演じられないんだ……」
私とノダくんの間にあった厚い壁が、だんだん薄くなっていくような気持ちになる。私の話を聞かずフミヒラくんを敵視していたあの彼とは思えない。
「どうして……Seirenじゃなくて、ウタカタ ショウコとしての私と向き合うようになってくれたの……?」
「オレ……ウタカタさんと友達になりたいんだ。今までのオレは、ウタカタさんをSeiren様として必要以上に意識して自分の理想を押しつけちゃうこともあったけど……今は、君が辛い時には話をしっかり聞いて、その気持ちに寄り添いたい。それが、とっ、友達にできること……だから……」
急に言葉を詰まらせたノダくんを見て、とうとう我慢できなくなる。その大きな手を迷わず取り、彼を立たせた。
私だって、あなたと友達になりたい……友達には笑ってほしいの……
目を閉じて、胸に浮かんだフレーズを口にしていく。最初は迷いのあった声も、ノダくんの驚いた表情を目にした瞬間、だんだん真っ直ぐになっていった。
自然と大きくなっていた声をシャンデリアに向かって響かせ、生徒たちからの注目を集める。少し胸騒ぎがしたものの、ここは地上とは違うと自分に言い聞かせて、サビに突入した。
脚から冷たさを追い払うつもりで声を出すと、ロビーに溜まっていた雨水の流れが嵐のように激しくなった。ノダくんが好きだと言ってくれた世界を構成する詩を、一つ一つ大切にして歌い上げる。
「ラー、ララ……」
声をフェードアウトさせていくうちに、それまで険しくなっていた自分の顔は元に戻り、水流も穏やかになった。
「Seiren様……だ……」
窮屈な生活の中でSeirenと出会った時のノダくんも、こんな風に笑ってくれたのかな……
━━生きてた頃はここにでっけぇ火傷の跡があってね
ノダくんのおでこから左頬をそっと撫で、肌に雨水を染み込ませていく。すると、彼の肌が赤くただれ始めた。最初は思わず目を見開いたものの、すぐにその火傷跡に惹き込まれる。
「素敵……」
ノダくんは左頬を自分の手で触り、その感触にあっと驚くと、その手で肌を覆い隠した。しかし、ノダくんの手に私が手を重ねると、彼は火傷跡を見せてくれた。
「きゃっ!」
「ウタカタさん!」
ついバランスを崩して背中から倒れしまい、ノダくんが私の手を掴んだ。しかし、少しだけタイミングが遅く、二人で雨水の中に飛び込んでしまう。
すぐさま起きあがろうとしたものの体が動かない。制服を通して肌と水が触れ合うと、最期に味わったあの息苦しさや、あと少しで誰にも会えなくなる恐怖を鮮明に思い出し、息が荒くなる。
「大丈夫?!」
ノダくんの声を聞いて、意識がはっきりする。顔を上げると、彼は私を軽々とお姫様抱っこし、目を合わせて微笑んでくれた。ノダくんのがっしりとした首に両腕で抱きつき、顔と顔の距離が近くなる。
「ウタカタさんって、軽いよね」
「でも……デビューの時より体重増えちゃったから痩せなきゃ……」
「うそ、全然分かんなかった! 食生活とか運動とか、色々気を遣ってるの?」
「一応……」
「へぇ、偉いな~!」
難なく前に進んでいくノダくんをたくましく思い、脚と背中に触れる彼の手からは温もりを感じた。ノダくんが歩く度に聞こえる水をかき混ぜるような音が、耳に心地よく響く。
「スタッフさんたちが頑張ってくれてるだけじゃなくて、ウタカタさんが外見に普段から気を配ってるから、MVのクオリティも毎回安定してるのかな~」
その話を聞いて照れ臭さから耳がピリピリし、目をつむってしまう。
「あ!」
私の足から脱げてしまったローファーが、水面に浮かぶ。ノダくんがあたふたしていると、シロウくんが私のローファーを拾ってくれた。
「助かった~、ありがとう!」
「お前ら何やってんだよ。ずぶ濡れじゃねぇか」
シロウくんと楽しげに話すノダくんを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
二人とも、仲良くなれたのかな……
柵に手をかけ、各階から私たちを見下ろす生徒たちが目に入る。しかし、次第にまぶたが重くなり、私は目を閉じた。
私……歌えたんだ……
芽生えた温かい気持ちは冷えた体さえも包み込み、私は安心感から眠りについてしまった。
♪ノダ ホムラ
屋根裏部屋で、オレとショウコちゃんは向かい合わせでダンボールの箱に腰をかけていた。彼女の歌に合わせてアコースティックギターを弾くだけで時間がどんどん溶けていく。
何度もCDで聴いて、何度も家で練習したSeiren様の曲。それなのに、いざこうやって合わせるとなかなか難しい。だけど、試行錯誤しながら弾くのは楽しかった。
自分の演奏と ”Youth” のメンバーたちの演奏が合わさった瞬間に覚えた、あの感動をふと思い出す。当時は、このメンバーで高校生活を彩っていくのだと期待に胸を膨らませていた。オレがバンドを辞める頃には、代わりならいくらでもいるって言われちゃったけどね。
……でも、ショウコちゃんとならこの感動をいつまでも分かち合える気がしていた。
演奏が終わり、普段の優しい表情に戻ったショウコちゃんは、膝に乗ってきた黒猫に微笑んだ。
「ショウコちゃんの歌、やっぱり何度聞いても最高だな~! これでご飯三杯はいけちゃうよ」
「褒めすぎだよ。私の方こそ、ホムラくんのかっこいい演奏のおかげで歌いやすかったし、なんだかシビれちゃったな」
「うわぁ、感激! あっ、そういえば『人魚のはらわた』の原作を図書室で借りて読んだんだよ! エミリアのイメージが映画と全然違くてびっくりしちゃった。あのラストの後に後日談があるのも予想外だったし、あれがあるのとないとでハッピーエンドかバッドエンドか解釈が変わっちゃいそうだなって思ったけど、どうなんだろう……」
「映画は、あの二人が海辺でお別れするシーンで終わっちゃうの?」
「オレの記憶だとそうなんだよね。卒業試験に受かったら、ショウコちゃんにも映画の方を観てほしいな」
ショウコちゃんは黒猫の背中を撫でていた手を止め、黒猫を床にそっと下ろしてから膝に両手を載せた。
「私……まだSeirenとして地上に戻れる自信がないんだ」
「そうなの? もうこんなに歌えるのに……」
オレはショウコちゃんの周りで起こった事件やネット上の騒ぎを思い出し、ギターを元の場所に置いた。
「隣、いい?」
「いいよ」
ショウコちゃんがダンボールに座ったまま横に移動し、空いたスペースにオレは腰をかけた。
「そうだよね、怖いよね……」
暗くなったオレの顔を見て、ショウコちゃんは「そういえば」とわざとらしく言った。
「明日から新学期だね」
笑顔を見せてくれたショウコちゃんに対して、気を遣わせてしまったと申し訳なく思いつつ、オレはその話題に乗っかった。
「うん。ハヤカワくん、今頃試験受けてる頃かな」
「私のルームメイトも、卒業試験受けに行っちゃったんだよね」
「っていうことは……明日、オレたちの部屋に新しいルームメイトが来るってこと?! うわぁ、楽しみ……って、言っていいのかな。ここに来るってことはつまり……」
「うーん……でも、この学園で元気を取り戻して、地上の生活に励めるようになれたら嬉しいな」
「そうだね。新入生たちがこの学園で気持ち良く卒業できるように頑張らなくちゃ」
オレたちは黒猫に向かってバイバイと手を振ると、一緒に5階に降りた。廊下を歩く生徒たちは、ギョッとした顔でオレを見ては、こそこそ話をしている。しかし、ショウコちゃんに睨まれると、彼らは慌てて視線を逸らした。彼女からSeiren様の面影を感じる貴重な瞬間だけど、オレは素直に喜べない。
「ショウコちゃん、オレは大丈夫だから気にしないで」
「でも……」
「オレのこと庇ってると、ショウコちゃんまで変な目で見られちゃうかもしれないし」
ショウコちゃんは何か言いたそうにしていたが、諦めてため息をついた。すると、遠くの方でシロウくんが歩いているのが見えた。
「シロウくーん!」
ショウコちゃんと二人で手を振ると、シロウくんはこっちにしぶしぶやってきた。
「あんま大きな声出すなよ」
「いいじゃんそれぐらい~。そういえばさ、雨水でロビーが水浸しになったとき、学園長があとから一瞬で元に戻しちゃったよね! 窓も綺麗になっててさ!」
「あったなそんなこと」
「魔法みたいだったよね。あんなことができるなら、卒業試験を通して生徒たちを生き返らせるのも、お茶の子さいさいなのかも」
「あの学園長、ますます謎だ……気になる……!」
「噂だと、元々この学園で教師やってたらしいぜ。んで、学園長になった途端、あの顔になったんだってよ」
「「そうなの?!」」
ショウコちゃんと二人で驚きつつも、オレたちはシロウくんの後を追って階段を降りた。
2階に降りたショウコちゃんを見送り、シロウくんと二人で3階の廊下を歩いていく。彼は350室の前で止まり、ズボンのポケットに手を入れた。
「シロウくんって、まだ一人部屋なの?」
彼はドアノブに鍵を挿し、音が鳴るまで右に回してから返事をした。
「うん。学園長から何も聞いてないし」
「そうなんだ……」
扉を開け、寂しそうな部屋の中を見た瞬間、オレは「じゃあね」という口の形を慌てて変えた。
「なにかあったら、教えてね」
「……急になに?」
「部屋でずっとひとりだと、色々抱え込んじゃうかもしれないし……」
「ノダって、人の世話焼くの本当に好きだよな」
シロウくんはオレを馬鹿にするように笑うと、部屋に入って扉をバタンと閉めた。
♪ノダ ホムラ
扉をきちんと閉めてから、恐る恐る廊下に出る。すると、数名の生徒がオレの元へ駆け寄った。
「か、鍵本 昴くんがこの部屋にいるって聞いたんですけど、ほ、本当ですか?!」
「えっとお……」
「ノダぁ、鍵本くんに会わせて~」
「俺も! サイン欲しい!」
「あたし、さっきたまたますれ違ったんだけど、テレビで見るよりずっと可愛かったよー」
オレはビクビクしつつも、大きく咳払いをした。
「カギモトくんは、今、この学園に来たばかりですっごく混乱してるんだ! だから、カギモトくんが落ち着いたら、彼の都合が良い日にまた会いに来てね! ね?!」
その場にいた全員が「えー」と声を上げ、ぶつぶつと文句を言い始める。
「申し訳ありませんが、通行の邪魔になりますので速やかに退散してください」
生徒たちは突然現れた学園長に驚き、部屋の前から遠ざかっていく。学園長は一匹のハイイロオオカミを連れ、堂々と廊下を歩いていった。
かっこいいオオカミ! だけど、あんなのいたっけ……
廊下がやっと静かになると、オレは部屋に戻って扉の鍵を閉めた。
「あ、あの……」
背筋を伸ばし、足を揃えてベッドに座っていたカギモト スバルくんは、その憂いのある表情をこちらに向けた。
「ごめんね! 入学早々、騒がしくて……」
「こちらこそ、取り乱しちゃってごめんなさい」
「いや、君は仕方ないよ! 死んだはずなのにこんな館に連れてこられるなんてヤバいし、オレも最初はすんげぇビビったもん! それに……」
その透き通った二つの瞳をオレがじっと見つめると、カギモトくんは長いまつ毛を動かしてまばたきをした。
「急に目が見えるようになったら、そりゃあびっくりするよね……」
「……はい。喜ばしいことなんですけど、いまいち慣れてなくて、今も変な感じです」
困ったように笑うカギモトくんを見て、男なのにときめきを感じてしまう。
「あの、失礼を承知の上でお聞きするのですが……その顔の火傷は、大丈夫なんですか?」
「これ? 全然平気! 痛くも痒くもないよ!触ってみる?」
「いいんですか?」
冗談のつもりで聞いたのに、カギモトくんから思わぬリアクションが来て少し驚く。
「いや、無理に触らなくても……」
カギモトくんの冷たくもしっとりとした指が、オレの左頬に躊躇なく触れた。この指でピアノを弾いていたのかと思うと、つい緊張してしまう。
「なんか……面白いですね」
少年のように笑ったカギモトくんを見て、オレもつられて笑ってしまった。
「面白いって言われたのは初めてだな~」
「そうなんですか?」
「うん! そう言ってもらえて嬉しい!」
♪ウタカタ ショウコ
机の椅子に座っていた私は、ベッドに腰を掛ける新しいルームメイト……ミナト イブキちゃんの方に体を向けた。
「その卒業試験に受かれば、私は本当に帰れるんですか……?」
「そう。試験を受けるだけで生き返られるなんておとぎ話みたいだけど、それしか地上に戻る方法はないみたい」
「……やっぱり、信じられません。自分が本当に死んだのかすらあやふやだし……」
イブキちゃんは小さな声でそう言い、私と目を合わせようとしなかった。
そうだよね、まだ受け入れるまでには時間がかかるよね……
「そうだ! 今から学校案内しようか?」
「こっ、この学校を? でも、何が出てくるか分からないし、今はまだ……」
それまで不安そうにしていたイブキちゃんは、何かを思い出したかのように一度口を閉じると、背筋を伸ばしてベッドから立ち上がった。
「やっぱり、お願いします」
「いっ、いいの? 平気?」
「平気です。早くこの学園に慣れて、その卒業試験にも合格できるようにしなくては……」
気が早いなぁ……そんなに焦らなくてもいいのに……
先に扉を開けて部屋を出たイブキちゃんを追い、二人で廊下を歩いていく。しかし、彼女は向こうからお喋りしながらやって来た男女の集団を目にすると、足を止め、壁に背中をつけて俯いた。そして、彼らが目の前を通り過ぎるまで息を殺していた。
「どうしたの?」
「な、なんでもないです……」
そう言いつつも、怯えた表情を隠しきれないイブキちゃんを見て、私は彼女の手を引いた。
「ごめん! やっぱり、学校案内はまた明日にしようか。就寝時間まであと一時間もないし」
私に握られたイブキちゃんの手は全体的に固く、彼女は握り返そうとしなかった。
部屋に戻り、机の下についた三つの引き出しのうちの一つを開く。そして、イブキちゃんに寝巻きを手渡した。
「あの……少しだけ、そっち見ててもらってもいいですか」
そっか、女の子同士でも、見られながら着替えるのは恥ずかしいよね……
イブキちゃんと背中合わせになり、彼女の肌と制服のブラウスが擦れる音を耳にする。
「……あれ」
「どうしたの……?」
「いや、なんでもないです……」
イブキちゃんは寝巻きに着替えた後、自分の左手首をさすっては怪訝そうな顔をしていた。
♪ノダ ホムラ
新しいルームメイトと迎えた最初の朝。
オレの隣を歩くカギモトくんは、華奢な上に男子にしては背も低めだから、なんだか弟ができたみたいな気分になれた。正直に言うと、こんなに容姿も所作も完璧な子を弟にするのはちょっと気が引ける。ただでさえどうしようもないオレにカギモトくんみたいな弟ができちゃったら、ますます劣等感に浸ってしまいそうだ。
「言うの忘れてたけど、オレにはタメ口で全然いいよ」
「でも、ノダさんは僕より年上ですよね?」
「一個しか違わないじゃん。あと、そんなにかしこまらなくていいし」
「……そっか。じゃあ、これからはそうするね」
二人で笑い合っていると、「ホムラくん」と呼ばれて振り返った。
「ショウコちゃん! 今ね、カギモトくんに学校案内してたんだ」
「私もイブキちゃんに学校案内してたところ」
ショウコちゃんはスバルくんの前で丁寧に自己紹介をすると、彼と笑顔で握手をした。そんな彼女の背後に隠れているのは、キリッとした眉が特徴的な長身の女の子だ。
「みっ、ミナト イブキです。よろしくお願いします……」
ミナトさんから発せられた声は舞台俳優のように通っていて、かっこよかった。
「オレ、ノダ ホムラ! よろしくね!」
「カギモト スバルです」
カギモトくんに手を差し出され、ミナトさんは緊張した様子で彼と握手すると、すぐにその手を胸に当ててオレらから顔を背けた。
「だあれ、あの子?」
「うわ、でっか」
「ちょっと、聞こえるよ……」
ミナトさんを見てニヤニヤする生徒たちを見たオレは、すぐさま彼女の隣に立ち、頭の上に手を当てた。
「なんだ、オレの方が背高いじゃん!」
驚いたミナトさんは、逃げるようにオレから離れた。
「お気遣いなら結構です……」
「本当のこと言っただけだよー」
「ミナト イブキって……もしかして、あの湊 大樹さんの娘さん?!」
ミナトさんは血の気が引いたような表情を浮かべ、カギモトくんから目を背けた。
「僕、一回だけ大樹さん……あなたのお父さんとお会いしたことがあるんです。その時、あなたの話も少しだけ聞かせてもらってて……」
「……父がお世話になりました」
「いえいえ! イブキさんも、お父さん譲りの凛々しさがあって素敵ですね」
ミナトさんはその話を笑いながら聞いていたものの、眉が下がったままで、わずかに聞こえる笑い声からは元気が感じられなかった。
「大樹さんって誰?」
「湊 大樹っていうバイオリニスト。音楽番組によく出てて、海外でコンサートもやってるすごい人だよ」
「へぇ、初めて知った……!」
オレがショウコちゃんと小声で話している間、カギモトくんは不安そうにミナトさんを見つめていた。
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